幸せ家族計画! -10ページ目

幸せ家族計画!

しがないいち新生児科医のプライベートなブログです。

4.

精神科を受診したのは、僕に纏わり着く忌まわしい呪いが現代医学によって晴らせるなどと考えたからではない。待合室のソファに腰掛け、診察券を見る。「白樺メンタルクリニック」と書かれたロゴの隣で、フクロウのイラストがお辞儀をしている。平日の午前中だというのに、待合室には結構人がいた。最近は心の病に悩む人が大勢いるんだな。おかげで随分と待たされた。
あれから九年の歳月が流れた。僕はもう、人と関わる気力を完全になくしていたので、自宅に引きこもって廃人同然の生活を送っていた。ある日、二週間ぶりに食料を求めて商店街へ出かけたときのことだった。商店街の看板広告の一つに、このクリニックのことが載っていたのだ。広告には、クリニックの住所、診察時間、そして、勤務医師の名前が顔写真と共に掲載されていた。
僕は、この医師に会わなければならないと思った。
整理番号が読み上げられ、診察室に入る。スライド式の扉を開くと、そこには、見覚えのある女性が座っていた。スリムで、切れ長の大きな目をした、黒髪を束ねている、可愛いというよりは美人な女性。
 白樺春子である。
「何故、君が生きている」まさかとは思ったが、そこにいるのは間違いなく、あの白樺春子だった。僕は込み上げる様々な感情、混乱する思考を抑えて、努めて冷静に尋ねた。しかし、当の本人は、青天の霹靂…というよりも突然の事態を飲み込めていない様子であった。
「一体何のことですか?」
「すっとぼけてくれるなよ。十二年前に死んだ君が何故生きているかって聞いているんだ」僕が声を荒げると、白樺春子は身構えた。そうして少し考えた後、探るようにこう言った。
「もしかして、あなた…ダブルの…?」
「ダブル?」聞き慣れない単語に僕は益々混乱する。
「あなた…ええと、田中和也さんね、もしかしてあなた、私にそっくりな人と会ったことがある?」
「そっくりな人だって…?」この女は白樺春子ではないとでもいうのか?
「そして、その人はあなたの目の前で、亡くなった。恐らく、とても凄惨な形で」
「どうしてそこまで知っている…。やはり君は白樺春子なんじゃないのか?」
「そうよ。私は白樺春子。ただし、田中和也さんの知っている白樺春子ではないわ」
何がなんだかわからない。僕の頭は突然なだれこんできた情報の切れ端に溺れて考えることをやめてしまいそうだった。その様子を見た白樺春子は、まず椅子を勧め、僕が腰掛けるのを見ると、一息ついてから切り出した。
「いいわ、私もあまり詳しいわけではないけれど、知っていることをお話します」
そう言うと精神科医・白樺春子は淡々と説明を始めた。
精神科医・白樺春子によると、僕が中学生時代に付き合っていた白樺春子は、今ここにいる白樺春子の「ダブル」と呼ばれる存在、いわゆる「ドッペルゲンガー」であるという。ダブルは人という有機体が生まれるときに同時に発生する反物質の塊で、ごくまれに人間の形を成して一般人と変わらず社会に溶け込んでいることがあるという。ダブルはそれ自体は人畜無害であるが、オリジナルである本体と出会うと強力な陽子線を放出して、本体もろとも消滅する。それは周囲に多大な被害をもたらすらしい。表に出ることは少ないが、そうした被害は各地で相次いで起きているらしい。そんな自然の摂理に抗うように生まれたのが「ダブルのキング」と呼ばれる存在だという。「ダブルのキング」は世界に散らばるダブルたちを惹き付け、陽子線を放出することなくダブルそれのみを消滅させる力を持つ。すなわち、反物質の反物質とでもいう反反物質を分泌し、空気中に蓄積させていくのである。蓄積した反反物質は反物質の塊であるダブルと融合し、消滅する。
「だから、あなたが長時間滞在する場所、つまりあなたの部屋には、反反物質が充満して、あなたに惹かれてやってくるダブルたちを消滅させていたのね」
「そんな…」僕は息をのんだ。精神科医・白樺春子の言を信ずるならば、つまりは、白樺春子も、神崎ひろむも、そして三原加奈子も、ダブルのキングである僕に惹かれて、反反物質の蓄積した僕の部屋へとやってきたというのだ。自分が消滅してしまうとも知らずに。「そんな馬鹿な。そんな話、信じられない。」
「私も、このことを知ったとき、にわかには信じられなかったわ。でも、考えてみて。あなたの周りではこれまで、そうした信じ難い出来事が何度も起きていたのでしょう。それらの真相が突飛なことであっても、不思議なことじゃあない」精神科医・白樺春子は冷静に指摘する。
確かに、始めからこの呪いとも言える一連の出来事にすんなり納得のいく合理的な説明がされることなんか期待はしていなかった。しかし、あんまりじゃないか。僕は僕を慕ってくれる人たちを、この手で消滅させてしまっていたなんて。彼らは決して、消滅したかったわけではない。少なくとも三原加奈子は、自分の運命に気付き、僕に惹かれる気持ちと、消滅する恐怖の間で葛藤を続けていた。そして、たとえ消滅することになっても、僕の傍にいることを選んでくれた。仮にそれが、僕がキングであるが故の恋慕であっても、だ。僕はそんな三原加奈子の想いに応えてやることは出来ずに、ただただ放出された反反物質によって彼女を葬り去ってしまった。僕は、キングは、ダブルたちに甘美な餌を垂らして死の罠に掛けているようなものではないか。それの一体どこが「王」だというのか。
「ダブルのキングの由来には諸説あるわ。一説に寄れば、かつてのキングが―当時はまだキングとは呼ばれていないのだけれど―彼に魅了されて集まってくるダブルたちを統べて、一国を築くほどの大きな組織を作ったそうよ。そこから彼のような存在は『王』の名を冠するに至ったと言われているわ。なんにしても、正確な叙述はどこにもないから、全ては憶測なのだけれど」
 白樺春子の考えによると、ダブルの中には自分がダブルであることを自覚している者も少なくないという。そして、本体と出会うことにより周囲に与える被害を憂う者もまた、多いそうだ。それ故ダブルたちは、キングを求めるのである。自らの消滅をもって、周囲の危険を取り除きたいと願うのだ。それは自己犠牲の善意であると同時に、キングへと向けられたダブルたちの恋路の終着点でもある。彼らは常に葛藤を強いられる運命にあるのだ。彼らにとって何が幸福であるか、それは誰にもわからない。彼らはただただ、己に課せられた過酷な運命と対峙するほかないのだ。

「最後に一つ聞かせてください」診察室の椅子から立ち上がり、精神科医・白樺春子に尋ねた。「あなたは、白樺春子先生は、何故そこまでダブルについて調べているのですか?」
「それは」少し考えてから、精神科医・白樺春子はこう答えた。「私も、あなたと同じく、大切な人をなくした一人だから」


5.

 呪いの部屋の正体は、思いも寄らないものだった。僕の分泌する反反物質によって消滅していったダブルたちは、一体どんな気持ちだったのだろうか。今はもう僕にそれを知るすべはない。僕らの知らないところで、僕らと全く同じ外見をしたダブルが暮らしているかもしれない。彼らはダブルであるというだけで、消えるべき存在なのか。それとも、自らの幸せを求め、人と同じように生きていく権利を持つべきか。そんなことを判断できるほど、僕は大した人間ではない。ただ、僕個人の願望として、もうダブルが消滅するところなど見たくはなかった。だから、一箇所に留まることはもう許されない。反物質だか反反物質だか理屈はよくわからないが、一箇所に留まりさえしなければ、ダブルを殺す物質が蓄積されることはないのだ。僕は僕自身が同じ思いを繰り返さぬために、歩き続けることを誓った。


6.

「それが、あなたが遍路を続ける理由というわけですか」歩き遍路は気がつくと、この奇妙な物語を語る男、田中和也氏の隣に腰掛けていた。のどかな陽射しの下で、小鳥が愉しげに鳴いている。くたびれた木製のベンチに白装束を纏った遍路が二人、並んで座っている。「貴重なお話の見返りに差し出せるものが何も無くて、申し訳ないです」
「構わないですよ。今話した通り、僕は信仰心から歩いている、というわけではないのです。ただ、そういった理由で、ここにもあまり留まることは出来ないのです」そう言うと田中和也氏は立ち上がり、さっさとその場を立ち去ってしまった。
 歩き遍路は田中和也氏を見送ると、ふうっと息を吐いた。彼には全てお見通しのようだ。キングを求めて四国までやってきたが、あっさりと逃げられてしまった。この歩き遍路、すなわち読者のあなたによく似た風貌をした「あなたのダブル」は、田中和也氏の話を聞く間も放たれる彼の反反物質に、消滅する覚悟を決めていたが、彼はそれを許してはくれなかったようだ。しかし、代わりに本当に貴重な話を聞くことが出来た。
ダブルであっても、自分がいつしか本体と出会い周囲に害なす可能性があるとしても、それでも生き長らえていることは許されるのかもしれない。生き続けることそのものに、もしかしたら価値はあるのかもしれない。つい先刻まで消滅するつもりでいた歩き遍路は、そんなことを考え始めていた。
今もどこかで自分の分身が日々を生きている。そのことに思いを馳せながら、ダブルである自分もまた、一人の人間として誇らしく生きよう。歩き遍路はゆっくりと立ち上がり、地を蹴りこの道を歩き始めた。
 仰いだ四国の空は青く、どこまでも深い。

2.

 翌日、学校で仲の良い友人、神崎ひろむに昨日の件について相談してみた。神崎ひろむは案の定、真面目に取り合ってはくれなかった。
「お前な、ホラ話にしては、えぐいし、意味不明なんだよ」当然と言えば当然だが、反応は芳しくない。
「信じられないかもしれないが、本当なんだ」僕は食い下がる。「本当に昨日、俺の部屋で春子が爆発したんだ」
「ていうかさ、春子って一体誰だ?」
「え」思いも寄らない返答に僕は動揺した。白樺春子のことは神崎ひろむにも話していた。自分より先に彼女を作りやがって、と大騒ぎしていたのだから、覚えていないなどというはずはない。「クラスメイトの白樺春子だよ! 先月から俺と付き合ってて、何度も話題にしたじゃないか」
「そんな女知らねえな。お前に彼女が出来たなんて話も、聞いた覚えが無い」神崎ひろむは真顔で答える。
「そんな馬鹿な」僕は混乱した。知らない? だって、クラスメイトだぞ? それに生来恋話の影も無かった僕に彼女が出来たなんていう大イベントを綺麗さっぱり忘れているなんて、そんなことあるかい?
「よく考えてみろ、クラスメイトのことを忘れるはずがない。それに、生来モテなかったむっつり君の和也に彼女が出来たなんていう大スクープを、覚えていないはずがあるかい?」
「その質問を、今まさに君に投げかけようとしていたところだよ」
「つまりだ。答えは一つ、そんな女はいない」神埼ひろむは構わず続けた。「思うに、その女は性欲を持て余したお前の妄想だよ。」
「馬鹿な。じゃあどうしてその女が急に爆発したりするんだよ」
「知るか。俺は精神病の専門家ではないんだ」
「俺を病人にしないでくれ」
「そもそも、部屋に来た恋人が突然爆発するなんてシナリオ、脈絡が無さ過ぎてホラー映画にもならない」
「そりゃそうだ。事実は小説より奇なりというからな」
「気のせいだよ。受験勉強で、疲れていたのさ、それで、恋人の幻覚をみていた」神崎ひろむはなかなか折れない僕に不服そうに言う。
「だから違うんだって! 本当に、彼女は…」彼女は、爆発したのだ。僕の目の前で。そう言いながら白樺春子の成れの果てを思い出していた。あれは確かに現実の出来事だ。しかし、じゃあ、何故消えた? 突然煙のように消えたのは、僕の妄想だったからではないのか? あのとき目の前で起こった圧倒的なリアルさと、一方妄想に違いないという神崎ひろむの言葉が、僕の中でせめぎあっている。
「よし、じゃあ現場検証しよう」神崎ひろむはそう言うと、唐突に僕の手を引っ張って強引に歩き出した。
「ちょ、ちょっと待てよ、爆発した死体は部屋から煙のように消えて無くなったんだ。何も残っちゃいない」それは僕自身何度も確かめたことだ。あの部屋に、怪しいものは何一つ残っちゃいなかった。
「いいから。一度この目で見たいんだ。いや、入りたい。お前の部屋に、和也の部屋に」そう言って振り向いた神崎ひろむの顔面を見た僕は総毛立った。彼の目はぎらりと見開かれ、瞳孔が散大していたのだ。その目は、昨日の今頃、陸橋の最中で見た上目遣いの白樺春子のそれと酷似していたのだ。僕は思わず手を振り払う。
「何をする。お前の部屋に入りたいんだ。いいだろ? 入らせてくれよぉぉぉ。」執拗に迫る友人を前に、僕は背筋が凍るのを感じた。冷汗が頬を撫でる。こいつを部屋に入れちゃだめだ。本能が僕に訴えかける。ほとんどすがりついてくる神崎ひろむを振り切って、僕は全速力で駆け出した。神崎ひろむはもはや言葉とも判別のつかない声で喚き散らしながらどこまでも追いかけてくる。僕は息をするのも忘れて全力で走った。これまで培ってきた体力のすべてを使い切ってしまうかと思うほどだった。後ろを確認している暇は無い。ただ、神崎ひろむの奇声が遠ざかっていくことだけを祈りながら、走り続けた。
気が付くと、陽が沈み、辺りは真っ暗になっていた。どれくらい走ったのだろうか。振り返ると、神崎ひろむの姿は無かった。僕は限界を超えて走り続けたことと、続けざまに起こったこの奇妙な出来事にすっかり疲れきってしまっていた。フラフラの足を引き摺りながら、僕は神崎ひろむに再び出会わないように、出来るだけ遠回りをして、ようやく帰路へついた。

 その後も何人かに尋ねてみたが、白樺春子の存在を知るものはいなかった。生前、仲良くしていた親友ですら、白樺春子のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていた。
いったい何がどうなっているのだ? 僕の部屋へ入った白樺春子は謎の爆死を遂げた。そしてそれっきり、白樺春子の存在はまるで初めからなかったかのように、人々の記憶から消え去っていたのだ。教室には不自然に一つ空席があったが、誰もそれを気に留めてはいなかった。
僕の部屋には何かがある。想像を絶する何かが。例えば、呪いとか祟りといった類の何かが。そんなことは考えたくもなかったが、考えずにはいられなかった。しかし結局、謎は謎のままだった。

僕はそれ以後、誰も部屋に入れることなく、卒業を迎えた。神崎ひろむもあれ以来別段変わったところはなかったから、あのショッキングな事件は次第に僕の頭から風化し始めていた。
だから、油断していたんだ。
卒業式の流れで、友人数名を家に招き入れてしまった。今思えば、神崎ひろむの巧妙な誘導だったような気もするが、ともかく僕は友人三人を連れて、半年前に閉ざした僕の部屋の扉を再び開けてしまったのだ。
僕の部屋に入った三人は、一言で言えば常軌を逸していた。三人は部屋に入るなりまず奇声を発して倒立をし、見事なバランス感覚で部屋中を歩き回った挙句、四肢の関節をありえない角度に曲げながら「気持ちいい、気持ちいいィ~」と連呼し(当然このとき、いくらかの脱臼や骨折を伴っており、その不快な濁音は今後僕の耳に残ることになる)、足の指を器用に使って互いの頭髪をむしりあった。やがてズボンを脱ぎ、三人でそれぞれのズボンに片方ずつ手を通し、円陣を組んでスクワットを始めた。そして、爆発した。
空色の絨毯が、またしても血に染まってしまった。僕は驚くというより、落胆していた。自分の迂闊さに。この呪われた部屋に再び人を招きいれるという軽薄さに。部屋中に飛び散った友人たちの欠片は満足そうに収縮していた。しばらくぶりに嗅ぐえもいわれぬ臭気を放ちながら、ぴちゃり、ぴちゃりと、血溜まりに赤いしずくを落としている。
僕は、この家を出る決心をした。


3.

 高校に入り、僕は下宿を借りて一人暮らしをすることにした。あの呪われた部屋から一刻も早く逃げ出したかったのだ。何がなんだか分からなかったが、あの空間が異常であることだけは確かだった。爆死した白樺春子と神崎ひろむに共通していたことは、どちらも彼らの方から僕の部屋に入りたいと申し出たこと。部屋に入ると常軌を逸した言動を催し、やがて爆発したこと。そして死後しばらく経つと、死体はおろか、まるでその存在が始めからなかったかのように周囲の人々の記憶からも消え去ってしまうということだ。白樺春子も神崎ひろむも、もはや僕の記憶の中以外にはどこにも存在していない。一体何故、このような現象が起きたのか。皆目見当もつかない。悪い夢だと思いたかった。
 幸いなことに、一人暮らしを始めてからの生活は順調だった。始めはやはり部屋に人を上げることをためらったが、あるとき細心の注意を払いながら友人の一人を招き入れて以来、誰が訪れても爆発することもなく、普通の日常を送ることが出来ていた。
 そして月日は流れ、高校三年生になった頃、僕には新たな彼女が出来た。彼女、すなわち三原加奈子は当時通っていた予備校の同級生で、市内の女子高に通う高校三年生だった。三原加奈子の父親は彼女がまだ物心つく前に亡くなったため、彼女にしてみれば生来二人きりの母子家庭であった。母子家庭である、という理由で思うように教育が受けられないことを良しとしなかった母親は身を削って働き、また三原加奈子自身もバイトを続けてそんな母親を支え、貧しくも倹しい暮らしを送っていた。僕は彼女の、そんな境遇にありながらも卑屈になることなく明るい性格が好きだったし、彼女の精神的な支えになれたらと願ってもいた。また三原加奈子は以前に一度だけ、視能訓練士になりたいという将来の夢を語ってくれもした。
 ひたむきな彼女の生き方に影響を受けて、僕もまた、大学受験へ向けてのモチベーションを高めていた。取り立てて就きたい職があったわけではなかったが、三原加奈子と彼女の母親を養っていけるだけの収入を得たいと真剣に考えていた。
 そんな彼女が初めて涙を見せたのは、付き合い始めて半年もした頃、夏の終わりのある日のことだ。
僕の部屋で食事を摂った僕らは、食後のコーヒーを飲んでいた。彼女は突然こんなことを言った。
「私、和也のことが好き」
「ああ。僕もだ」
「でもね、本当は和也のこと、好きになってはいけないの…」
「どういうこと?」
「それは…」三原加奈子は口ごもる。
 僕はコーヒーカップを置き、座りなおして彼女を見た。彼女の顔は真剣だった。
「やっぱり、家のことがあるから?」もしそうならば、僕は母親も含めて、三原加奈子を守っていく覚悟がある、そう伝えるつもりだった。まだろくにバイトも出来ないガキだけど、本気なんだ。
「ううん、家のことは、関係ない」
「なら、どうして?」
彼女は質問には答えず、すがるように僕の胸に体をあずけてきた。消え入りそうな儚い声で、三原加奈子は続けた。
「ごめんね、変なこと言って。でも、私、和也の傍にいたい、ずっと、一緒にいたいよ」三原加奈子は嗚咽交じりにそう言った。僕はそっと彼女の肩を抱いて、小さく言った。「ずっと、一緒だよ」
 堰を切ったように、彼女は泣き出した。しかし、僕はその涙の真意を測りかねていた。僕は彼女を不安にさせたろうか。三原加奈子はそれきり何も語らなかったから、彼女の気持ちを汲み取れないまま、その日は別れた。
三原加奈子とは、それっきり連絡がつかなくなってしまった。予備校は欠席し、電話をしても電源が切れている。家を訪ねたが、留守だった。一体どうしたのだろう。彼女はあの日、何か悩みを抱えていた。でもそれを打ち明けてはくれなかった。僕は、知らず知らずのうちに彼女を傷つけてしまっていたのだろうか。だとすれば、ちゃんと謝りたい。なにより、言葉足らずのすれ違いのままに別れてしまうのは嫌だった。
 そして数日後。
 ドアベルの音に玄関を開くと、三原加奈子が立っていた。
僕は彼女のその姿を見て、言おうと思って用意していたいくつかの言葉や質問を全て飲み込んでしまった。彼女の顔はやつれ、表情は疲れきっており、肌はボロボロに荒れていた。まるで何日も眠らず飲まず食わずで泣き続けたかのようだった。
「ど、どうしたんだ、一体?! とにかく早く上がって!」すぐに温かいスープでも飲ませなければ死んでしまう。そう思わせるほど三原加奈子の体は痩せ細っていた。
「和也、ごめん、ごめんね」三原加奈子は涙ながらにか細い声でまた謝った。しかし、和也には何がなんだか分からなかった。彼女を抱きよせると、部屋へ招き入れた。ソファに腰掛けた彼女はずっとすすり泣いていた。
「一体どうしたんだ? 事情を話してくれるかい?」
「せっかく、好きになれたのに…、ずっと一緒にいたかったのに…、どうしてこんなことになっちゃったんだろう、なんでこうならなくちゃいけないんだろう…」三原加奈子はうわごとのようにつぶやいているが、和也にはやはり理解できない。和也はなすすべなく彼女の手を握った。
 その時だ。
 和也は異変に気付いた。
「和也…、私のこと、忘れないでね。どうか、嫌いにならないで」
 握った三原加奈子の手は、やつれていた先ほどとは打って変わってむくんでいた。否、膨張を始めていた。僕の脳裏に忌まわしい光景がフラッシュバックする。瞬間、僕は次に何が起こるかを悟った。そして、覚悟を決めて、三原加奈子を優しく抱きしめた。
「ああ、忘れないよ。いつまでも、愛している」
 三原加奈子の瞳から大粒の涙が溢れた。「和也…、わたしも…。いや…、怖いよ、死にたくない、死にたくないよ!」彼女の悲痛な断末魔の声を聞きながら、僕は奥歯をかみ締めて、ただただ、抱きしめることしかできなかった。
 僕の腕の中で、三原加奈子は静かに爆発した。
0.

晴れ渡った四国の空の下、一人の遍路が歩いていた。白装束に身を包み、金剛杖をつき、念珠を携えたその歩き遍路は、しかしながら中肉中背、容姿はぱっとしない、そう、ちょうど読者のあなたのような様相であった。その歩き遍路がのんびりと歩いていると、道の先にある木製のベンチに腰掛ける別の遍路を見つけた。歩き遍路は近くまで行くと、その男に声を掛けてみた。
「こんにちは。あなたも歩きですか」
「ええ。あなたも?」
「とてもいい天気ですね」
「のどかですね」
他愛もない世間話を続けていると、歩き遍路はベンチに腰掛けるその男が意外に若いことに気付いた。そこで、不躾とは承知の上で、歩き遍路は彼が遍路に臨む所以を尋ねてみることにした。
 男は少し驚き、しばしの間思案したのち「少し長くなりますが」と前置きした上で、ゆっくりと語り始めた。


1.

 それを初めて経験したのは中学三年生の頃だった。
僕はクラスでも地味な方だったし、特別モテるわけでもなかったので、女性関係にはとんと疎かった。だから、付き合い始めて一ヶ月ほどの彼女、白樺春子が僕の部屋へ来たいと言い出したときは、たじろいだ。なにしろ中学生男子という生き物の半分は目覚めた性への好奇心で構成されているのだから。女が部屋に来る、その淫猥な響きだけで僕のあれをおったてるのに十分すぎる刺激であった。

「ねえ、いいじゃない、和也の部屋、見てみたい」戸惑う僕を他所に、白樺春子は繋いだ手を握り直して言った。白樺春子は身長は高くないが、スリムなため身長のわりに小さく見えなかった。切れ長の大きな目で、黒髪をいつも束ねている。可愛いというよりは美人な、僕にはもったいない女性だった。
白樺春子の申し出があったのは学校の帰り道だった。JRの線路の上に架けられた陸橋を渡る途中、唐突に彼女は切り出した。もちろん他意はない。はずだ。しかし斜め下から向けられた上目遣いの視線に射抜かれる。僕は手を握り返した。
「で、でも、親いるし」僕は彼女の真意を測るべく、曖昧な理由で提案を拒否してみた。
「いいよ、親いても。むしろ会ってみたい」屈託のない物言いに、彼女に下心はないと判断した。そして安堵する。僕はへたれているだろうか。
「汚いよ?」僕は一応伏線を張る。
「想像つく」白樺春子は微笑んだ。
「失礼だな」僕は全く余裕がない。
「楽しみね」白樺春子はそう言って僕の腕にしがみつく。僕の肘が彼女の脇腹に当たり、反射的に体中のエナジーが一点に集まる。嗚呼、青春の一ページよ!

 家に帰ると、予想に反して誰もいなかった。否が応にも僕の心拍数は高まる。雑に靴を脱ぎ散らかして、ぎこちなく白樺春子を家に招き入れると、手も洗わずに二階の自室へと向かった。断っておくけれど、別に、そういうんじゃないんだ。僕は恋愛にはプラトニックなんだ。ナニがしたくて部屋に入れるわけではない。うん、間違いない。そうだな、例えば、そう、お茶でも飲みながら、今日の授業のことなんかを語り合ったりしたいだけなんだ。あ、そういえば今日の保健体育の授業はコンドームの避妊率の話だったっけ。コンドームなんて買って無いぞ! どうしよう?!

そんなくだらないことを考えているうちに、僕らは部屋に到着した。すると僕の部屋に入るなり、白樺春子は突然連呼した。
「嬉しい、和也の部屋、和也の部屋、和也の部屋、和也の部屋、和也の部屋!」
「春子?」そこで初めて、僕は白樺春子の異変に気が付いた。彼女は突如として、まるで壊れたテープレコーダーのように、同じ言葉を繰り返し始めたのだ。それは初めて彼氏の部屋に入った感動とかときめきといった類のものとは一線を画した、どこか真に迫るものだった。そして白樺春子の表情は次第に恍惚に満ちていった。彼女はまるでオルガズムに向かっていくかのように身をよじり、悶絶する。
「和也、和也…あああ和也ぁぁ」突然絶頂に向かい始めた白樺春子を前にして、僕は全身の汗腺が開くのを感じた。彼女に一体何が起こった。その迫力は僕の思考を遮り、考察を阻む。僕は思わず後ずさる。
そしていよいよ感極期を迎えると白樺春子は絶叫し、その次の瞬間、あろうことか彼女は爆発した!
白樺春子は爆発したのだ。爆発、とは彼女の秘められた芸術性の開花を指すわけでもなければ、積もり積もった不満やストレスが容量を超えて噴出することでもない。文字通り木っ端微塵に弾け飛んだのだ。
まず、ものすごいはやさで彼女の胸部から頭部にかけてが蛸のように膨れ上がったかと思うと、次の瞬間、ばん、という大きな音が鳴り響いた(これは厚手のコンドームが破裂した時の音に近い。あるいは、蛙の肛門からストローで息を吹き込んだときの破裂音か。実際に聞いたことは無いけれど)。続いてばらばらと肉の破片が部屋のあちこちに飛び散る音が聞こえてきて、全体としては夏祭りの打ち上げ花火の趣を呈していた。かろうじて残った白樺春子の四肢は激しく痙攣した後、すぐに弛緩してだらりと垂れる。溢れ出た血液が壊れた水道管のように噴き出し流れ足下に溜まり、替えたばかりの空色の絨毯を真っ赤に染めた。
そしてやがて辺りは今までに感じたことのないような静寂に包まれた。
一体何が起きたのか。あまりに一瞬の、そして壮絶な出来事に、僕はすっかり呆気にとられてしまった。血溜まりに浸かった靴下が温かい。全身の感覚が逆立って、飲み込んだ唾液が食道を通り抜けるのを感じた。目の前には、もはやかつての恋人とは似ても似つかない生臭い塊がそびえ立っている。込み上げる嘔気に抗うように手で口鼻を覆うがうまくいかない。これはなんだ。なんの冗談だ。目の前に広がる圧倒的な質感は、僕の培ってきた現実感をあっさりと凌駕していた。僕はほとんど泣きそうになりながら、事態を整理しようと必死に頭を回転させる。が、それもうまくいかない。
その時、階下でがちゃりとドアの開く音が鳴った。途端に僕は我に返る。
母が帰ってきたのだ。「ただいま~」と鼻歌交じりで誰にともなく声をかけるのがきこえた。
「和也、部屋にいるの?」続いて母は二階に向けて大きな声で尋ねる。僕は気が動転してしまって、言葉を返すのが一呼吸遅れた。それが事態をさらに窮地へと追いやる。
「和也、返事ぐらいしたらどうなの。下駄箱に靴があったわよ。帰っているんでしょう?」そう言うのと同時に階段を上がってくる足音が聞こえる。しまった。返事をしないというだけで事態に勘付いたということはないにせよ、何か不審に思わせてしまったとみて間違いない。そして母は確実に、この部屋の扉を開けて僕の所在を確認しようとしている。
白樺春子の遺体から赤い血がゆっくりと滴り落ちるのが視界の端に映る。もしも母が、この惨状を目の当たりにしたら、一体どうなってしまうのだ。一体なんと説明すればいいのか。そもそも、見かけより繊細な母のことだ、その場に卒倒するか、下手をすればそれだけでショック死してしまうのではないだろうか。
「和也、いないの?」母は既に階段を上りきり、今まさに僕の部屋のドアノブに手をかけようとしているところだった。「入るわよ」ノブが降り、扉と壁の間に隙間が生まれる。その隙間から部屋の外の空気が流れ込んでくるのが、冷凍庫を開けたときに漏れ出る冷気のように目に見えた。そこで始めて、この部屋の空気が薄黒くよどんでいることに気付く。僕は反射的に、力いっぱい扉を押し返した。
「う、うん、いるよ、ちょっと今着替えているんだ」心臓の音が体の外まで弾けて聞こえる。この空気、この臭気、扉の向こうにいる母が、異変に気付かないことを祈る。「だから、今は入らないでくれるかな」
「いるんなら返事くらいしなさいよ。いいこと? あなた、まだ中学生だからいいけれど、この先社会に出たら、最も重要なことは挨拶よ。その次が元気のいい返事。その次が…」
「いや、分かった。分かってる。ごめんよ。ちょうど友達からメールが来たところでさ、そっちに気が向いていて、返事をするのを忘れてしまったんだ。」とにかく今は母をここに引き止めておくわけにはいかない。それだけ母が異変に気付く可能性を高めてしまう。「すぐ、行くからさ、リビングに行っててくれる?」
「そう。まあいいわ。今日は西友でお肉が安かったのよ。すぐ晩御飯にするから、着替えたら降りていらっしゃいね」
「分かったよ。母さん」
母の足音が遠ざかる。僕はほっと安堵のため息をつく。そして、辺りを見てまたすぐに交感神経が逆立っていくのを感じた。額から汗が吹き出る。むき出しになった白樺春子の目玉がこちらをみつめていた。ああ。
とりあえず、これ以上怪しまれないためにも、返り血で汚れた服を着替えて、すぐにリビングに降りることにした。この惨状に収拾をつけるのは、後回しだ。
食卓はいつもの平穏に満ちていた。テーブルの上には、大きめに切った鶏のモモ肉で作ったタンドリーチキンと、付け合せのきのこ炒め、卵とトマトのスープやカリカリに炒めたベーコンを載せたルッコラのサラダが並んでいた。ルッコラは好物だが、今は青臭い雑草にしか見えない。僕は込み上げる悪心と闘いながら、出来るだけ自然にそれらを口に運ぶ。
「どう?和也、おいしい?」
「うん、おいしいよ、母さん」味のしない肉の塊をどうにか食道に放り込み、無理やり口角を押し上げて言う。
「良かったわぁ、今日のは自信作だったのよ」幸い、母親は勘付いていないようだった。上機嫌の母親は続ける。「和也、今日は外でたくさん遊んできたのでしょう? だからいっぱい食べてね」
「え?」不意の質問にたじろぐ。僕は今日外で遊んでくるなどと母に言った覚えはない。実際、外で遊んでなどいない。学校から、まっすぐ帰ってきたのだから。「どうしてそう思うの?」
「だってほら、そんなにもトレーナーが汚れているわ。外で泥だらけになるまで遊んできたのでしょう?」
「え…?」反射的に母に指差された先に目を遣ると、なんと言うことだろうか、そこにはべっとりと血糊が付着していた。再び全身から汗が吹き出す。着替えたときにどこかに触れてしまったのだろうか。なんたる不注意! 母はさらに続けた。
「あれえ、でも和也、さっき着替えていたのよね? 着替えたばかりなのにどうして汚れているのかしら? 何かおかしいわ」
「そ、それは…」必死に言い訳を探すが、うまくいかない。
「まさか、始めから汚れて…、ううん、そんなことありえないわ。だってもしそうだとしたら、それってつまり洗濯したにも関わらず、汚れが落ち切っていないことに気付かずに私がクローゼットに戻したことになるもの。そんなの、主婦としての私のプライドが許すはずがないわ。その点、私は日頃から細心の注意を払っているのよ」母はフォークでタンドリーチキンを突き刺しながら真剣な顔で話す。
「あ、こ、これはきっと」食卓のトマトスープを視界の端で捕らえる。「そう、このスープ、これがこぼれちゃったみたいだ。おろしたてだったのに、ごめん」
「あら、そうだったの。言われて見ればうっすら赤いものね。まったく、和也ったらおっちょこちょいだわ」
「あはははは…」
「…和也、あなた、嘘をついているわね」
「え」
「私、ずうっと見てたのよ。あなたがこのリビングに入ってきてからずうっと。食卓に着く前から、あなたの服は汚れていたわよ」
「それは…気のせいじゃ」言葉が詰まる。
「いいえ、間違いありません。つまりその汚れはクローゼットから服を取り出して、あなたが一階へ降りてくるまでのどこかで付着したことになるわ。そして、あなたは何故かその事実を誤魔化そうとしている。それが何よりも不可解だわ」母は箸を置き、勢いよく立ち上がった。「確かめなくっちゃ」
「そんな、考え過ぎだってば」僕は慌てて制止する。しかし母は僕を強引に振り払うと、二階へ向かった。やばい。あの光景だけは母に見られる訳にはいかない。力ずくで押しとどめるしかない。が、母の動きは素早く、既に階段を上りきっていた。急いで駆け上がるが、間に合わない。母はもう僕の部屋のドアノブに手をかけてしまっていた。南無三! 僕は思わず目を閉じた。
「…あら、何もないわね」
「へっ?」母の思わぬ反応に声が裏返ってしまった。恐る恐る目を開くと、そこには何の変哲もないこれまでと同じ僕の部屋があった。空色の絨毯にベージュのカーテン。そこに血の赤は全く無かった。もちろん白樺春子の遺体も。全てが煙のように消え去っていたのだ。いつのまにかトレーナーに着いた汚れも消えていた。