「37歳の女。大切な人とガチめに終わらせました。潰されそうやし泣き続けそうやから誰が慰めて欲しいです。ホンマに大切で愛しい人やったけ、ダメージデカすぎてきついです」


こんな投稿が目に入った。「ガチで終わらせた」とあった以上、相手から捨てられたというより、自らの意思で恋を終焉させたと感じた。「ガチ」という言葉は耳にはするが自分らの世代では使わない言葉なので正確な意味を調べてみた。ガチ=ガチンコから出た言葉で、真剣に。まじめに。本気で。などの意味らしく「ガチで終わらせた」は本気で真剣に終わらせたということだが「泣きそうだから誰か慰めて!」と呼びかける。我こそは悩める女性を慰めんと、そんな下心満載の自称王子は現れよう。

などと思いながら話を聞いた。王子さま気取りで、女性に慰め言葉などを得意のオトコもいるにはいるが、性に合わない。自分から終わらせたとはいっても失恋にはちがいなかろうし、誰でもいいから癒しを求める気持ちも分らぬでもないが、所詮はその場しのぎでしかない。それでもやり場ない気持ちを支えたいし、ならばと、気分転換に笑い話でもするのが気晴らしになるのではないかと、以下のように返信してみた。どういう性格なのかも全く知らない人間なので、目に止まるかどうかは分からない。

 


 

苦しい胸中を逆なでするようなフザケタ物言い?と受け取られる可能性もないではない、「苦悩する友人には柔らかなベッドであるより硬いベッドでいなさい」という哲学者の言葉に殉じてに実践した。「慰め」より「活力」の方が大事かと。幸いにして相手から「楽しく気を紛らわせるのもアリでしょうね」という返信があったが、「失恋の気持ちを慰める言葉はないと思います。自らと格闘するか、時に流れに身を委ねるかどちらかでしょうね」という。聞いたわけではないが彼女は事情を説明した。

「相手は、今は婚姻してる人で来年か再来年に親権もあるから離婚するとのこと。その人は私の事好きで、子供ほしいって言っててでも、妊娠しにくい子種らしくて、それがあるからか子供できたらの後の話をしなくて、なんかよく分からなくてでも、やり取りはしたい、一生そばにいて欲しいって言ってて、私は本気で好きだからその人と結婚して子供作ってってのをしたいから何度もいったんだけどなんにも返答しないから、離れようって決心したのに、やり取りしたいって言って来ててしんどい。」

まとまりのない文章であるが会話ふうに書かれている。若い人はこういうメールのやりとりをするのだろうが意味は伝わる。「その人は私の事好きで」という言葉が目を引いた。37歳の女性にして子どもじみた物言いと感じたが、女はこういう風に書きたい(思いたい)のだろう。少し大人の話をすると「その人は私のことを好き」というのはいかにも幼いが、恋愛というのは言葉のやりとりのお遊びでもある。行動と違って言葉は浮遊するもの。騙し騙され、騙され騙しで、人間不信に陥ることもある。

人間の歴史において、いや、男女の恋愛において、「愛と性」に確実性が存在した時代があっただろうか。さらには今後、「愛と性」に確実性が見いだせることはあるのだろうか。おそらくそれはなかろう。身も蓋もない言い方だが、人間の心にかかわることに「確実」や「絶対」はあり得ない。唯一「絶対」や「確実」は、人は必ず死ぬということだ。にもかかわらず、人は「絶対」の愛を求めて止まない。それを信じたいものは宗教にすがるのがよい。神という存在は、疑いのない「絶対者」である。

 


 男にも女にも失恋で変わる世界がある。元の状態に固執すると悲劇を招くのは多くの事件が示す

絶対真理を求める宗教がインチキと気づくまで人は信仰を止めないが、恋愛はインチキと分かったらすぐに終焉する。終焉させるという行動にでる。彼(彼女)の愛が嘘だという確信に至って、その愛を続けるというなら人は性の奴隷である。過去にそういう男も女もいた。愛よりも性の魅力に取りつかれた奴等である。分からなくもないし、否定もしない。「なぜ?」と聞くとこんな風にいう奴がいた。「彼(彼女)が好きだ。愛している。愛されている。という状況は瞬間的かも知れないけど存在する」。

「なるほど」。それも分からなくもない。「愛」に確実性はないが瞬間的な「愛」は存在する。誰にも経験があろう。今、目の前にいる彼(彼女)への瞬間的な至高の愛を抱いたこと。そのことが恋愛の魅力といっていい。愛を確実的なものにする、絶対不変のものにするのは人の努力であるが、努力をしてまで求める必要、遂げる必要があるかといわれればそれは個々の問題だ。そうはいっても確実は永遠ではない。人はうつろいのなかで格闘する。人の心は朝に夕に、あるいは春に秋にうつろうものだ。

 


 「恋はゲームじゃなく生きることね」と歌ってはいるが、楽しく生きようとするとゲームになる

「だましだまされふりふられ」というのも恋愛の醍醐味である。そういう刺激や緊張感がなければ、人の人生はかくも退屈なものになる。何事も不確実であるから人は人生を楽しめるものだが、そんなことを失恋した女にいってもはじまらない。人は崩壊し蘇生する。そうした崩壊と蘇生の連続のなかで、新たな希望を見つけて生きて行くしかない。まあ、これは癒しでも慰めでもなく、頭のいい女性なら納得するだろうが、おバカには理解をえない。見下した言い方に聞こえるけれどもこれは現実だ。

頭のいい人間とは、たくさんの知識やたくさんの情報量をもっていて、それらを基準に総合的に考える人。頭の良くない人とは、所有する知識量が少ないから込み入った問題を処理できない。したがって、少ない知識や情報量から物事を短絡的に考えて結論を出す人をいう。一を聞いて十を悟る人もいるが、十を聞いて一すらも考えられない人もる。世間とは様々な人間の集合体だから、臨機応変に対応することも頭の良さである。馬にわざわざ念仏を聞かせることもないが、人の苦悩はだいたい同じもの。

 


  「女性の相談事は相談にあらず」というのと同じで、解決したいということではないようだ

 
助言というのは重要であり、親切であるけれど、時流にのった中途半端なアドバイスというのは、一見もっともらしくみえるが実は危険である。人と人の価値観の違い、理解力の差が、物事に絡む問題を複雑にすることは多い。根本的に簡単なことを、簡単に考えないで難しくするから人は苦悩する。なぜ失恋するのか?「人の心は移り気だから」というのが明快な答えだが、それで納得できない人は「ああだのこうだの」としこたま考えるしかない。動機が簡単なのに、考えて名案が浮かぶはずがない。

「離婚したのは結婚したから」というのが、他人を分からせる明快な理由であるように「失恋したのは恋をしたから」も同じことだ。理由をあれこれいっても誰にも分からないこと。自分の中に収めて時が経つのを待つしかない。人は失恋によってむしろ試される。既婚男が「妻と今くいってない」「離婚しようと思っている」などとズルい常套句をひっさげて若い独身女性に近づくのは卑怯者の口実である。聡明で明晰女性なら相手にせず、「たいへんなのね。でもわたしにはどうにもできない」という。

男の言葉に同情したのはいいが、離婚の兆しなどいつまでたっても見えない。ようは抱きたいだけど男でしかなく、割り切って本気にならないこと。「最初が遊びなら最後まで遊び」を貫くことだ、中年男は、女性の扱いも上手く、若い男2人、3人くらいの魅力がある。結婚などと欲を出さず、相手の言葉も信用せず、遊びに徹することだ。「奥さんと離婚するきもないのに思わせぶりなんかやめましょう。わたしも楽しむつもり」というのがある意味賢い女性である。人と人の基本は利用しあう関係だ。
 

  「だからあなたのカラダを使わせて(利用させて)欲しい」というのが正攻法でいいんでは?