昭和歌謡の底流には、戦後の混沌を這い上がってきた人々のすごみが隠し味として加味されているカンジも。前川清とか聴いてもそんな印象。亡くなった八代亜紀には、四角三角メガネの大学教授とひろゆきとで対談する動画があって、けれど八代亜紀は2人を相手にすっとぼけ、自分を語らない。どうしてそれが分かったかというと、売り上げたレコード代金は喫茶店で待ち合わせる男にそっくり渡していた、と明るく語る下りがあったから。それについて不思議そうに問い返すひろゆき四角三角メガネ…ほんとうはそこにこそ汲み取らねばならないモノがあるというのに、どうやら2人の頭にはそれが浮かんで来ない様子。豊かではない懐事情のころに、稼いだお金をそっくり持っていかれる現実が辛くなかったハズがない。だが八代亜紀はそこを語らない。ただそういうコトがあったと明るく語るのみ。けどね、記憶として秘められているのですよ、そのシーンが。だから会話の半ばに出てきたワケ。けっきょくのところ、自分を語る、なんて安直を傍らに追いやれる凄み、それが八代亜紀だと思ったわ。けど類似の要素を、おそらく前川清や他の昭和系も持っている、そしてそれが歌の深みとなって現れ出てくる、そういうコトではないのかなあ。だってその後の、たとえば世界にひとつのナンチャラ〜♪なんて、世界が浅くて聴いてられないもの。