2019年10月5日(土)高松市東田町の「まいまい亭」にて『瀬戸内の食と芸術の源流に触れる夕べ』が行われ、計18名が参加。和気あいあいとした雰囲気の中、大将・松岡柳士さんの讃岐料理と女将・久二子さんの巨匠たちとの思い出話を堪能する夜となりました。
●はじめに…
イサム・ノグチの牟礼での晩年20年、流政之とは半世紀近くにわたって交流を深めた松岡ご夫妻の「まいまい亭」。供される料理や店内の調度品一つ一つに芸術家たちと綴られた物語が秘められています。それらについて話すことを自慢話に取られてはと、以前はためらっていた女将・久二子さんですが、心境に変化が訪れたと言います。人間同士として触れ合ったからこそ伝わって来た、彼らの本質を自分たちだけに留めていてはもったいない。偉大な芸術家の「人間の芯」を語り継ぐ意義があるのではないか。そんなお二人が私たちへ料理とお話を通してどんなことを伝えてくださったでしょうか。
●鮎のひらら煮とイサム・ノグチ
イサム先生とのおつき合いはイサム先生が晩年、牟礼にアトリエを構えてからの20年間。赤ちゃんが成人するまでの時間と思うと長い。イサム先生はいつも「ひらら煮を食べると讃岐に帰って来た気がする」と仰って親指を立てていらっしゃった。親指を立てるサムズアップのポーズがアメリカ人らしいなと思いました。
ひらら煮は2〜3時間煮ては冷まし煮ては冷ましを三日間かけて行い、三日に1回しか作れない非常に手の込んだ料理です。圧力鍋では煮崩れてしまうので、きれいな魚の形が残りません。川漁師からこういう伝統料理があると聞いて再現するまで4年かかりました。名前の由来は申し訳ありませんがわかりません。
1988年11月18日、イサム先生84歳の誕生日の翌日にひらら煮を食べていただいたのが今生の別れになりました。主人がひらら煮を作って、頼まれてもいないのに“イサム先生がアメリカに帰ったら食べられなくなるから、イサム先生のところへ持って行く”と言い出した。主人だけだと先生に引き留められて店が開けられなくなるので、私もお目付役でついて行きました。するとイサム先生はご不在でした。大急ぎでひらら煮の入ったお重をお世話している方に渡して帰ろうとしたら、坂道の向こうからイサム先生がニコニコしながら上がっていらして。結局、後戻りしてイサム先生のお宅へ。今思うと虫の知らせだったのか、その日はいつもにも増して引き留められました。仕舞いには「奥さんの着ているそれは、まいまい亭のユニフォームなの?」とかどっちでもいいようなことを仰って。その時はお元気で、まさかその年末に亡くなられるとは思いもしませんでした。イタリアで流感にかかり熱が出て、ニューヨークへ戻りそのまま現地の病院で亡くなられたそうです。「僕はなぜここにいるの?」が最後の言葉とのこと。
●オリーブはまちのもろみ焼と流政之
流先生とは、先生49歳からの47年間のおつき合いで、まいまい亭の生みの親、名付けの親、育ての親。月に3〜4回、少なくとも1回は来てくださいました。「まいまい亭」の由来は讃岐弁の“まいまいする”から取っていて、てんてこまい、忙しくしているの意味。昔の言葉で名前をつけようとずいぶん時間をかけて考えてくださった。お客様が「大将も変わっているけど、店の名前も変わっているね。誰が考えたの?」などと言う、真横に流先生が座っていらしてヒヤヒヤしたこともありましたが、流先生はニコニコ笑っていらした。
流先生の大好物だったのが、オリーブはまちのもろみ焼。黒いのは焦げではなく5年物のもろみ。年末にお届けする正月料理には必ず入れていました。
流先生は彫刻家らしく、指先に目があるように手で触れて確認する。イサム先生作のテーブルを指で撫でながら「ちょっとここが傾いているから直した方がいいよ」と教えてくださったりする。だから流先生の作品展示では“Please touch”と案内がある。触って鑑賞してもいいのだと思います。ある時、先生は何の気なしに突然に私の背中を触られて、背中に肉がついてないか、丸くなってないかと確認されていました。背中にその人の緊張感が出るそうで「緊張感のある背中しているね」は流先生からいただいた数少ないお褒めの言葉です。
●青み山椒ご飯と二人に共通すること
山椒の実の実り始めの2日間、柔らかいものだけを収穫して調理したもの。イサム先生も流先生もお二人ともお好きだったご飯です。
お二人とも正反対だが共通しているところもありました。それは醜悪なもの、美しくないものへの嫌悪。車の中から悪目立ちする建物を見ると、イサム先生は静かに顔を背け、流先生は「誰が作ったのだろう?」と仰っていました。
流先生に最初に教えられたことは「行儀の悪いことはするな。行儀の悪いことは美しくない」。流先生に話しかけるといったん箸を置いてこちらを向いて聞く姿勢になられる。行儀の悪い、だらしない、洗練されていないことがお嫌いでした。愚痴を言うのも野暮なこと。商売をしていくにしても、色々と工面することがあって水面下では必死に水かきしていても、そんなことはおくびにも出さない美しい白鳥をイメージしました。
そうした美意識はイサム先生も共通でしたし、ネガティブなことは一切仰らないのも一緒。病気の話や人が亡くなった話、痛い、痒いとか言ってもしょうもないことは言わない方がいい。そういうことは美しくない。粋じゃないと。
話し方についても、イサム先生は英語を日本語に訳したようで、流先生はもともとセンテンスが短い。お二人とも最小限のセンテンスで深いことを仰るので、先生方と話す度、いかに私たちはふだん喋りすぎかと帰り道の車中で反省していました。今はSNSで誰でも気軽に発信できて世の中自体がtalkativeになっている気がします。
●言葉の遺産・・・イサム・ノグチ
イサム先生から朝、電話をいただき遊びに行ったら、裏の縁側の前に蛇がのたくっているような作品がありました。それを前に「先生は過去の作品をご覧になって、あの時ああすれば良かったとか、これはまずかったなとか、思いませんの?」と聞いてしまいました。主人はなんてことを言うのだと私とイサム先生の顔を交互に見ていましたが、イサム先生は怒りもせず笑いもせず、じっと考えていました。そして「昔のものを見ると、あの時だからできた。あの時でなければ作れなかった、と思うよ」と仰った。それ以来、過去に恥ずかしいことをしたとしても、それがあって今があると自分を許せるようになりました。肩の荷がおりて、生き方が楽になりました。英語を日本語に訳したような短いセンテンスで、それでいて深みがある一言でしたので、今でも非常に心に残っています。
●言葉の遺産・・・流政之
フランス大使が県知事を表敬訪問した際、紹介された大使夫人の名前がフランス語でうまく聞き取れず、そのまま夫人と二人きりになった時に女の子の名前の付け方について話をしていました。宴が終わり内々で話していたら、流先生から「人の名前は大事にするものだ。教えただろう」と叱られました。日本人は名刺をもらっても、姓だけを見てさっと名刺入れにしまってしまうが、本当にその人を大事に思うなら名前まで(フルネームで)覚えるべきだ、と仰いました。なぜかと言うと苗字だけ覚えても、その人の人柄や佇まいを忘れてしまうから。フルネームで覚えて大事にすることは人との関係、相手を大事に思うこと。それ以来、人の名前はフルネームで覚えるようにしています。
イサム先生と流先生から教わったこの二つのことで、気を楽に持って生きていける、自然体で生きていけるようになりました。
●美は真なり、真は美なり
キーツの詩を先生がたは存じていたのではないでしょうか。美しいかどうかを基準にしたら、当然、犯罪など悪は美しくない。商売するのでも美しいかどうかを基準にしています。「それ美しくないね」と言われることはしたくない。美しくないことは合理的でないと思います。美しいかどうかが、行動規範や価値基準の礎になっているのは見ているうちにわかってきたこと。何十年も先生たちとおつき合いさせていただく中で、大変なこともあったけれど、その報いとして身についたことかもしれません。もし先生ならどう思われるかしら、と思うことである意味、私どもの中で今も先生がたは生きています。
●おわりに...
「イサム・ノグチ」「流政之」。現代美術史の記号のような巨匠たちと同じ店で、同じ料理を味わい、同じ女将さんと会話する。五感を通し時空を超えて彼らの存在を身近に感じ、その人生哲学や美意識を学ぶ。とても得難い貴重なひと時となりました。
「君たちには全て教えたから」と流政之から渡された卒業証書のような言葉を胸に、語り継いでいこうとするお二人。これからは私たちがそのお二人の存在を伝え続けていく一助になれることを願ってやみません。
(文責:小林明子)



