私たちは、人として生まれ生活していく上において大事なことがあります。

それは、人を敬う・・ということです。

その「敬いのこころ」を身につけていくのに、根本となるのが主人・師匠

・親を敬い、そして仕えていくことなのです。

もちろん、徳を身に付けた人であることが大事なことですし前提で、

主人・師匠・親、敬っていくしっかりとした道を身に付けたいものです。


そのように徳をしっかりと身に付け主人を敬い、それぞれの道を志す師匠を敬い、

自分の親を敬えば、主人・師匠・親のそれぞれ身に付けた徳をいただくことになるのです。

その徳をいただいていくことによって、人として大事な心である「敬いのこころ」を身に付けていくことになるのです。

今の世の中で一番欠けているもの・・・

それが人を人として「敬うこころ」なのです。

根本に「敬うこころ」がない為に、平気で人を傷つけ陥(おとしい)れようとする生き方が多くなってきているのです。

人らしい心・・という表現をしますが、まさしく「敬いのこころ」を身に付けていってこそいえる言葉なのです。


愚者は経験に学ぶといいます。
「前の職場ではこうだった」と後ろ向きな気持ちでいれば、
せっかく与えられた新たな人との出会いや、新たな学びを逃してしまいます。
気持ちを上手に切り替えましょう。
経験値の高い人の話は、たとえ自分には受け入れがたいアドバイスであっても、
聞く耳を持つことが必要なもの。時にはその中に、実に多くの教訓を含んでいることがあるからです。
人の喜びをわがことのように喜び、人の不幸をいっしょに涙しながら悲しむ。
愛をもって生きることが、人生をこのうえなく豊かにします。
人はよいことも悪いこも経験して人の気持ちがわかります。
皆一緒。誰にでも起こりえることだと分かり合えます。
同情はたやすいです、でも本当のやさしさでないようにも思います。敢えて厳しいことを言うのも愛情。
やわらかい言葉、ていねいな言葉にして、どんな人との関係も腹六分で参りたいです。
距離感を調節するといいのかもしれません。気づきを促す見守りでしょうか。
人として大切なことは、『気づきを得て成長すること』だから。

余命がたとえ一日だとしても、それは素晴しい「未来」です。
この世にある多くの悲哀の中でも、もっとも深い悲しみをもたらすもの、それは愛する人の死ではないでしょうか。
人はみんな一人でこの世を旅する旅人です。
どんなに愛していても、死という別れを避けられる人は、一人もいません。
仮に死を宣告されていなくても、私たちは皆、生まれたときから「死」に向かっているようなものなのです。
ただ、悲しみの渦中にあるときは、そうしたことを思い起こす時間もないでしょう。
「こんな悲しみ、味わいたくない」「なぜ私だけがこんな思いをするの」と思うかもしれません。
けれど、こんな悲しみを経験するくらいなら、生まれてこないほうがよかったでしょうか。

出会わないほうがよかったでしょうか。そんなことはないはずです。
生まれて、出会って、愛しあえた、それは素晴しい奇跡です。
そう思えば、この奇跡にただ「ありがとう」と感謝する気持ちが湧くのではないでしょうか。
愛する人との別れを通して、私たちのたましいは、この世に生きることの悲しさ、この世で出会い、愛することができた喜びを、深く深く心に刻むことができるのです。
この学びをする前とあととでは、たましいの豊かさがまったく違います。
愛する人との別れを通して、私たちのたましいは飛躍的に成長するのです。

死は肉体を脱ぎ捨てて、たましいがふるさとへ戻るということ。たましいそのものは永遠なのです。

スピリチュアル・ワールド(たましいのふるさと)へ戻れば、また会えるのです。

死を免れる人はいません。けれど、永遠の別れもまた、ないのです。
この事実を知っていれば、死と向かいあうときの心のあり方が、まったく違ってくるはずです。


余命を宣告された今は、ショックが大きいでしょう。けれど、宣告されたということは、
逆にいえば「それまでは生きられる」ということです。
その残された時間で何をするか。今はまず、それを考えましょう。
これは人生のメインイベントでもあるのです。
旅行と同じです。最終日に何をするかは、その旅行のメインイベントになるでしょう。
余命宣告という現世的には「不幸」としか思えない事柄の中にも「幸い」はあります。
旅の終着地点まで、寄り添って生きましょう。
大切なその人のために、今、あなたにできること何ですか。 


不思議なものでスピリチュアル・ワールド(たましいのふるさと)への帰郷が近づいている場合は
特に、霊的な感性も鋭くなることが多くて、思っていること、悩んでいることなどを感じとっていたり、
場合によっては、自分自身の余命についてそれとなく気づいていることもあるそうです。
わたしの母親も、見舞いに来るときは「ゆっくりあわてんと来られー」と気を遣ったり、
精一杯元気なそぶりを見せたり、弱音を吐かないように頑張ったりでした。