文具店を解雇された私は、何とかハウスキーパーの職にありつきました。

料理はしなくていい職種、これならばと。

会社の上司は『ふだんやっていることをやればいいのです』とのことです。

初めてのお客さまは、代官山アドレスのIT若社長でした。どうして部屋番号が4ケタなんだろう?と思ったら、数十階あったんですね。

『自分の部屋だと思って気楽にやってよ!』と社長は気さくに声をかけて下さり、出かけて行きました。

タイムリミットは2時間。こんなに広い部屋、大丈夫なの私?

テレビが畳くらいの大きさでびっくり。リビングが高校の美術室みたいに広々としています。

若干狭めな部屋にはPCが配置されています。仕事部屋かな?床にクリーニングのワイヤーハンガーが落ちたままです。男の人の部屋だな。

会社の上司からは、玄関を一番先にやれと言われていました。

以前先輩が、ほぼ完璧に仕事したものの玄関だけやれていらず、帰宅したお客さまが『きれいになってない!』と怒られてしまい、職を失ったそうで。

ウーン、玄関はきれいだからいいや。

どんな意味があるのかわからない程広いお風呂場も、汚れてない。バスタブだけ洗おう。

皆さん、社長のシャンプーは何だと思いますか?

正解は、『Dove』です!

乾燥機の中の洗濯物をたたもう。あっ、トランクス派でしたか。

今でも残念に思うのは、リビングの窓ガラス。汚れてくもっていました。

どの洗剤を使っても、ぞうきんの後が筋になるだけでかえってひどくなるばかり。

時は年末、あんな窓でお正月を迎えるなんてと胸が痛む思いでした。

この部屋の素敵なところは、リビングにそれはもう沢山飾られたフォトフレーム。パーティー会場で、皆誰かと楽しそうに何かを祝っています。無いなぁ私の部屋にはこんなもの。

『何かあったら』と置いてくれていた携帯No.のメモは、裏返しにしておきました。

『お客さま、残念ながら私ども、この番号を悪用することが出来てしまいます。証拠はございませんが、拝見しておりませんのでお取り置き下さいませ』と、習ってもいないのに自己流で緊張しながら早口を吐きました。

すると社長、『もうこの仕事、長いの?』と!

うわあ、ばんざーい!

でも、『初めてということは出来るだけ言わないで下さい』とは上司の言葉。

『長くは…ございません』と顔をそむけて答えると、返事がありません。

さすが社長、バレたかな?

そこでトイレに入った社長が『トイレ、掃除してないよね!?』とあわてています。

トイレは書類のチェックボックスにチェックが無かったので『ご自分でなさるのかなと』と書類を見せたら社長は驚いています。

これはいけない!!と『確認すべきでございました!!申し訳ございません!!』と必死にフォローしました。

最後に大きなごみ袋を持って部屋を後にしました。フロアごとにごみを捨てる小さな部屋がある!

毎週、代官山の空気を吸って、交通費ももらえて、私ここで頑張る!と張りきっていたのに、数日後社長は契約を解除してしまったのです。

初仕事の後、私を『感じのいい人で良かったよ!』とおっしゃっていたらしく、これも『ばんざーい!』だったのに…何があったのやら。

どのみち、会社の経営状態はメチャメチャでした。

『詳細は連絡するから』と言われた仕事の電話が待てど暮らせど来ず、夜こちらからかけてみたら誰も出ず。

そんなことが重なり、これでは仕事にならずと退職を申し出ました。

でも、あの時もう少し頑張っていたら軌道に乗れたかも知れなかったのに。後悔しています。

私は、代官山アドレスに入れた話を冥土の土産に、老いてゆきます。