もし今、お子さんが小さかったとして、
目の前のあれこれに必死でかかりっきり、
これ以上何かを気にすることなんてできないと
思っていたとしても。

ぽやぽやのかわいい赤ちゃんやちびっこは
必ず少しずつ大きくなり、変わっていき、
同じ状態では居てくれないことを
私たちはわかっていた方がいいと思う。
その髪の柔らかさや、肌のあたたかさ、
瞳の水分は、決して待っていてくれない。
毎日が将来の大人の暮らしに繋がっていて、
目の前の1日、一瞬がその先を支えていくことを
今から感じていた方がいい。

前と矛盾するかもしれないが、本当は
今日が世界最後の日かもしれない。
今楽しめること、味わうべきことは、
今すぐ始めて、先に延ばさない方がいい。
後で楽しむから、今は先々のために我慢、
というのは、実はつまらないかもしれない。

でも、私たち大人は子どもにたいして
形を変え、違う引き伸ばし方をできると
思い上がるべきではない。
親だから、先生だからと立場の上で
子どもを自分のデザインに合わせて
育てよう、仕上げようと躍起になるのは
とても不遜なことだ。
子どもは、弱いと思われている生命は
すごい可能性と、自分で伸びていく力を
それぞれ携えていて、大人は
伸びたいように伸びるのを妨げる
石を避け、邪魔を払い、
そっとそばで見守りながら
応援していればいいことだ。
なんなら、周りが何もしなくったって
本当は育つのだもの。
変にいじって、おかしくするくらいなら
手なんか出さなくていい。
それがどんなにか弱く見えていても、
大人が考えて手を加えるよりも
ずっと輝く素晴らしい育ちを
想像もできないくらい遥かな未来を
必ず見せてくれるから。生命あるかぎり。

ただ尊敬して夢中で応援して、
美味しいものを探して出したり、
一緒に喜んだり悲しんだり、
また立ち上がったりするのを応援していれば、
大人の仕事は十分だ。
だって、相手は大きな大きな
すごい存在なんだもの。

ということを、自分に言ってやりたい。
私がしっかりしていないから
子どもが立派ではない、心配だと
もっと何かをプラスして関わって、
大人が狙ったように大きくしなければと
苦しくなっている、過去の、今の自分に。

そして私も、そんなに駄目ではない。
毎日に散らばっているたくさんの
光る石や咲く花があるじゃないかと。
それに気付いて、素敵だなと
感じているじゃないか、それで
もういいんじゃないかと。
割りきることは難しくても、
私の今日も今日しか無くて、
もうめぐっては来ないことを、
心に留めて朝を迎え、
歩き出していけば、もう
それでいい気がする。

この先に見えない不安があったとしても。