人は抑圧した感情に支配されると言われます。
私自身、怒りと憎しみという感情を抑圧し自己の内側に持ちながら生きています。
我が身を守るため相手に合わせ迎合しながらも本心では怒りに腸が煮えくり返り、長年憎しみを押し殺しながら耐え忍びこれまで生きてきました。
これまで抑圧してきた怒りや憎しみの感情はふとしたきっかけで思考を支配し、無効化し、その先にある認識を変えてしまいます。そしてそれにより更なる新たな負の感情を生み出し負の連鎖を生み出します。
ここで間違えてはならないのは下記の順番でこれらが作用するということです。
①間違った見識と解釈
↓
②怒りや憎しみなど負の感情
↓
③思考の無効化
↓
④間違った認識
↓
⑤更なる新たな負の感情の出現
↓
⑥無限連鎖による上記の繰り返し
(負の無限ループ)
人は最初の「①間違った見識と解釈」によりこの負の連鎖に嵌まり込みます。
「それはそれ、これはこれ」と話を"切り分けて"解釈することが出来ずそれらを同じにし、全体を白か黒かにしてしまうことで自動的に「②怒りや憎しみなど負の感情」に囚われてしまいます。
その②の段階に足を踏み入れてしまえばそこから抜け出すことはかなり難しくなり負の無限連鎖に嵌まり込みます。
これに関する具体的な例をもとに考えてみたいと思います。
ある日、社員Aは上司に業務のミスを指摘され長時間に渡り叱責と説教を受けました。
気の弱いAはそれを耐え忍び聞きながら心の中でこう思います。
「どうせ私が悪いというのだろう」
「いいよ、どうせいつも私がすべて悪いんだから言いたいだけ言えばいい」
「お前なんかこの先天罰を受けて地獄に落ちるが良い!!!」
・・・
このように社員Aは負の感情に囚われその無限連鎖に嵌まり込んでしまいます。
では下記社員Bの場合はどうでしょうか。
ある日、社員Bは上司に業務のミスを指摘され長時間に渡り叱責と説教を受けました。
「なんだ?全部私のせいというのか」
「確かにミスをしたが上司のあんたの言われた通りにしたんじゃないか」
「臨機応変に対応できなかった私の非は認めるが、指示の出し方が悪かったあんたの落ち度を棚に上げて一方的に責任を押し付けやがって」
「でもまあここで言ったところで火に油を注ぐだけで力関係で押さえつけられこちらの立場が悪くなるだけだ。ここはおとなしくしておこう」
・・・
Bは②にて怒りや憎しみの感情を持ったことに変わりはありません。しかしながら①の解釈の段階で正しく物事を切り分け、それはそれ、これはこれとしたことにより③において思考を奪われることなく④において正しい認識を持つことが出来たために冷静さを失わず対処できました。
人は①の解釈の段階において物事の切り分け判断が出来ず、相手の勢いや口車に乗せられて間違った解釈をすることにより負の感情に傾き囚われ自分自身を見失ってしまいます。
「それは分かるし認める、だがここは違うだろうが!」
「すべて一緒にして一方的に責めるのはおかしいだろうが!」
その逆もしかり
「確かに君はミスをした、だが私にも責任の一端はある。すまない」
「すべてを君の責任にするわけにはいかない」
このように切り分けるとは「是々非々」であり、是々非々とは「立場にとらわれず良いことは良い、悪いことは悪い」と判断するという意味のことです。
物事の多くは解釈から始まります。
解釈を間違えると感情に影響を与え思考を無効化し心の奥底に抑圧されてきた負の感情を表面化させてしまいます。
逆に正しく解釈すれば思考(理性)が感情を制御し負の感情を抑制しコントロール出来ます。
是々非々で物事を切り分けて解釈することは最前線で優先して行われるべきことと私は考えています。さもなければ心の奥底に存在する抑圧された負の感情が火山の噴火のごとく吹き出しあっという間に自身を囚われの身にしてしまいます。
怒り、憎しみ、抑圧され耐えに耐えて無意識の領域に積もりに積もったそれら負の感情
人は抑圧されたそれら無意識の中にある感情に支配されます。
ここまでお読み頂いて下記のような疑問を感じる方々もいらっしゃると思います。
「切り分けて解釈し認識したところで腹が立つものは腹が立つだろうし負の感情を持つことに変わりはないだろう」
確かにその通りだと思います。実際私もそのように切り分けて解釈してきましたがそれでも怒りや憎しみの感情は持ちます。
ですが、正しく解釈することにより「流されること」を防ぐことは出来ます。流されるとは相手優位になり自分を支配されるということだと私は考えています。物理的に相手に支配されても、全体を流され「心」まで支配されてはなりません。
物理的に支配され生活を制限されることと心まで支配されることそれらは大きく異なります。相手の権力には負けても正しい認識だけは持ち続け自分の「心」だけは守らなければなりません。
私は激しい怒りと憎しみを抱き自分自身の本当の姿を押し殺し耐え忍びながら生きてきました。今でもその感情は心の奥底の無意識の領域にあるように思います。しかしながら自分の心だけは守り抜き「人は人、自分は自分」として偽りの自分を演じながらも本当の自分を見失わないようにしてきました。
これらは私自身その経験において自ら体感しているものです。
これらの理論が全て正しいとは言いきれませんし、人それぞれ状況は異なりすべての状況に当てはまることでもないとは思います。
しかしながら、もし私と同じ境遇の方がいらっしゃりこれが機能するなら、ご自身の身を守るために、そして自分が本来の自分であるためにこれらが何らかの気づきとなり役立てて頂くことができれば幸いです。
・・・