以前、車の助手席に兄を乗せて運転していた時のことです。

 

「この車は乗り心地が悪い」

 

兄はそう呟きました。

 

 

ちなみに車は会社の社用車で軽自動車が5台も6台も買えるほどの高級車です。

 

20年以上ポンコツな軽自動車を乗り継いで来た私からすれば恐れ多い車です。

 

 

「なんだ、高級車の割にはドアのこの部分がプラスチックになっていて安っぽいな」

 

兄は構わず車をけなし続けました。

 

 

そしてある日、

 

「どうだ、いいだろう」

 

兄はそう言い、私に自慢げにピカピカの腕時計を見せてきました。

 

日本製の機械式自動巻きダイバーズウォッチでしたが、以前持っていたスイス製の腕時計を下取りに出して買ったとのこと。

 

 

ちなみに私は20年ほど前にディスカウントショップで数千円で買った腕時計を今も使い続けています。

 

正直なところ私は高級車にも高級腕時計にも興味はなく、今使い続けている安物の腕時計も生活が苦しかった時から共にその時を過ごしてきた思い入れがあり使い続けています。

 

 

「あの時は、ただ、ただ苦しく、必死だった」

 

「もうあの時には二度と戻りたくない」

 

 

そんな時にこの腕時計と共に人生を歩んできた。

 

そして今があり、変わらず私と一緒にいる。

 

 

どのような安物の腕時計でもそのような愛着と思い入れがあり使い続けています。

 

 

会社に行けば、ほぼ全員が有名スポーツブランドのスニーカーを履いています。

 

ナイキ、アディダス、ニューバランス、プーマなど、安くても5千円ほどから1万円以上はするスポーツシューズです。

 

 

そんな私といえば1,000円程度のスニーカーに、時に履く革靴も2,300円で買った合皮のものです。

 

そんな靴でさえ、履き古して破れたままのものを捨てずにとっておいて眺めています。

 

汚いから捨てろと言われるようなものを今だに置いていたりします。

 

 

物の価値とはなんでしょう。

 

1,000円の靴と大して変わらないような品質の靴が有名ブランドのロゴマークがつくだけで1万円以上もし、それを履いてドヤ顔で歩いたり。

 

またはそのような靴を履かなければ恥ずかしいとする世間の風潮。

 

 

単に節約し倹約する重要性だけでなく、物に対する感謝の気持ちや愛着など、私たち人間はもう少し物との心のつながりがあっても良いように思います。

 

 

新しいものが出たからと、まだ使えるのに型が古くなった物を捨てて新しい型や新しいデザインのものを買う。

 

外見が良いからそれを買う。

 

値段が高いものを身に着けていると自分の価値が上がる。

 

 

そう考える私たち人間は既に人間ではなくなっているのかもしれません。

 

 

数十万円の腕時計

 

一万円を超えるスポーツシューズ

 

アンドロイドのスマートフォンならせいぜい数万円で買えるのに、小学生でさえ20万円近くするiPhoneのスマートフォンを持ち歩き

 

 

皆と同じでないと恥ずかしいからと

 

ダサいからと

 

 

そんな余裕があれば人生を苦しみ抜いて執筆した古代哲学者の書物を読むことのほうが何百倍も価値のあることだと個人的には思いますが、それも人それぞれなのでしょう。

 

 

人々が表面的なことに価値を見出し内面の成長や情緒的成長を忘れた姿

 

目に見えるものと快楽、劣等感に基づく行動、優越感による心の充足

 

 

私の目に前に広がるのはそんな人間界の景色です。

 

 

 

 

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