劣等感から努力をする人がいます。


自分は生まれた家庭環境に恵まれず、経済的にも苦労をしながら悔しさをバネに努力し現在の地位まで上り詰めた。


一方、周りは名家に生まれ経済的にも何不自由なく苦労なく親の権力の下で甘やかされて育ちそのまま権力を持つ地位に座する。


「あいつは苦労もせずボンクラでありながら高い地位に座している」


「それに比べ体ひとつで努力し這い上がったオレ様が何故だ!」



自分は平民から実力でのし上がったとする人間は、常に周りに敵意を抱き、実力で掴み取ったその地位に執着し優越感から高慢になってしまうことが多々あります。


優越感とは劣等感と常に隣り合わせのものでもあります。


他者に比べ自分は劣っているという劣等感に基づく努力は更なる新たな劣等感を生み出します。



他者に対する優越感を持って自己の存在とする。


自分は他者より上であり、偉く、それでこそ自分が自分であるとする。


これにより私たち人間は他者を見下すようになり、謙虚さを失い、新たに学ぶことを怠るようになることがあります。


自らの威厳を保つことに執着し次第に相手との心の触れ合いを忘れ、自分のことを想って助言をしてくれる者を遠ざけ、それどころかその者に対し怒りを向け逆恨みし攻撃するという事態にまで発展することも珍しくありません。


自分は他者より劣っているという劣等感から来る努力は一時的な優越感を生み出し、それは更なる劣等感を生み出します。



他者と比較することでしか自分を表現出来ない。


他者より優れているということでしか自分の存在を示せない。


肩書きを外せば何も残らずに自分は何者でもなくなってしまう。


だから役職や位、地位にしがみつく。



コンプレックス(劣等感)とは自覚のないものでありそれは常に「自分は他者より優れている」「自分は特別である」という意識を生み出しそれは自己の奥深く無意識の領域に潜みます。


劣等感は怒りに直結しそれは秒速で思考と理性を無効化し一瞬で私たちの心を支配します。



役職は身分ではなく役割であり、そこに偉いも偉くないもなく


そこにあるのは性質の違いや影響を及ぼす範囲に基づく責任の重さの違いであると私は考えています。



私たち存在は他者との比較により存在するのではなく、他者との関係性により存在するとされます。


仏教における「縁起」「諸法無我」


柱だけではその存在を成さず、


柱、窓、扉、屋根瓦、畳、障子


それぞれが役割を果たし初めてそれぞれの存在と成り、更に一つの家という新たな存在を成します。


関係性のないところに自分は存在せず、私たちは関係性の中でそれぞれの役割を果たし初めてその存在を成すものではないでしょうか。


もしこれらの考えが正しいとすれば、他者との比較による自己の存在に囚われている私たち人間が一日も早く真の自己の存在意義というものに気づかれますことを願わずにはおられません。




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