私たちが人を育て教育する時、それはある意味食事の料理に似たところがあるように思います。

 

料理を作る時、私たちはその食材の素材を活かしそれにあった味付けを行いますが、所々のタイミングで味見をし、塩が足らなければ足し、辛すぎれば水で薄め、そして味を染み込ませるために時間を置いて一晩寝かせることもあります。元より食材は詰め込みすぎず器に合った適切な分量を入れて作ります。

 

人を育て教育する時もこれに同じく、個々の資質や個性を見極めそれにあった指導を行いますが所々のタイミングで理解度を確認し、知識や説明が足らなければ足し、今は難しく理解は無理であろうと判断すれば無理をせず引き、そして経験による体感やそれら学んだことを消化するためその時節を待ちます。

 

これら途中において理解度の確認のために様々な問いかけや試みを行いますがその反応が良ければ次に進め、逆にその反応が悪ければ一旦引き、再度基本に戻るか又は理解が及ぶその時節を待ちます。

 

ですが指導者、教育者はここで過ちを犯すことがあります。

 

理解度の確認のために様々な問いかけや試みを行った時、その反応が悪いからと自らの指導における対応など至らなさを必要以上に責めたり、又は理解が及ばない相手の至らなさを一方的にかつ感情的に責めたりなどしてしまうことがあります。どちらかといえば「なぜ分からないのだ」と、後者の方が多いように思います。

 

教育者が自らの教育指導のあり方を振り返り内省し必要に応じて修正していくことは大切ではありますが、過度に自責の念に囚われあれこれとその方針を変えすぎてしまうことは時に受け手にとっての混乱を招きます。

 

逆に教育者が受け手の至らなさを責め、怒りと苛立ちを向けてしまうことで受け手は萎縮し悪化に繋がりその芽を潰してしまうこともあります。

 

前述のように私たちが料理を作る際、食材の素材を活かした味付けを行いますが所々のタイミングで味見をし、必要な調味料を足し、味が濃すぎれば調整し、そして時には味を染み込ませるために時間を置いて一定時間寝かせることもあります。

 

元より食材は詰め込みすぎず器に合った適切な分量を入れて作ります。

 

途中の味見の際の判断ミス、そして必要な時間を待てないことによって食材の固さやコクや味の馴染み方などはその後の仕上がりに大きく影響を及ぼしてしまうことがあります。場合によってはその素材や料理自体を台無しにしてしまうこともあります。

 

勿論、教育と料理は全く違うものでありますが、その過程におけるこれら対応には共通性を感じさせられずにはいられません。

 

 

 

 

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