私たち人間は人生において様々な経験をします。

 

その経験は個々それぞれの「解釈」により「意味付け」がなされ積み重ねられていきます。

 

これは私自身の実経験でもあるのですが、例えば「お金を失う経験」という同じ経験をした場合でも、ある人はその原因を振り返り精神のコントロールや財務管理の会計理論などを勉強しその失敗経験を次に活かします。

 

またある者はそれが出来ず、失敗の経験を振り返り見直し反省することもなく、場合によってはその失敗の原因を自分は悪くないと他責にし同じ失敗を何度も何度も繰り返してしまいます。

 

経験とはそれのみでは意味を成さず、その経験に「意味付け」をして初めて意義のある経験となるものだと思います。

 

しかしながら私たち人間はそれを理解出来ず「単に経験すること」又は指導者、教育者においては「単に経験させること」に意味があるとし、最も重要であるその経験に対して「正しく意味付けをすること(させること)」を怠ってしまいます。

 

正しく意味付けされない経験は更なる苦しみとなり、それは時に次の学びに繋がる場合もあるのでしょうが、通常は意味付けがなされない経験から学ぶことは難しく、私たちは様々な経験からいかに「正しく考えその経験に意味付けをすることができるか」を意識する必要があるのだと思います。

 

 

前回の記事で「苦悩」について書かせていただきました。

 

そこでは苦しみから正しく悩み、正しく考え、そこから学び成長につなげることは個々の能力の一つであるとしました。そしてその能力を養い個々の気づきと目覚めに導くことは指導者、教育者の使命の一つでもあるともしました。

 

「経験をした」

 

「経験をさせた」

 

単に経験すること、単に経験させること、それ自体に学びの本質があるのではなく、それら経験に対し本人がどのような意味付けをするか、又はそれら経験に対し本人にどのように意味付けをさせるか。

 

多くの人間が人生でのその経験から学ぶことが出来ず、単に苦しかった、辛かったと、ただそれだけを考え、時に他者を逆恨みしたり、中にはそれすら考えずボーっとなんとなく過ごす人々もいます。


もし苦しかったならその原因は何であったのか。やり方が間違っていたのか。それとも自分はその事象に対する解釈を間違えていたのか。



"経験に対する意味付け"

 

そこに人生における経験の本質と意義があることを私たちは知る必要があるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

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