人は普段どんなに偽りの自分を演じていても怒りの感情に囚われると自身の本性を顕にします。
人生長く生きていれば多くの人がそれを経験し目の当たりにするのではないでしょうか。
怒りの感情に支配された時以外に人間の本性を知る方法があります。
それは法的拘束や規則など決まり事を設けずに自主性に任せることです。
私たち人間は規則に縛られ日常を生きていますが、それでは個々の行動に置いてそれぞれの本性を見ることは出来ません。
ですが、それら他者からの強制や法的拘束や規則などがなく自主性に任されたならば私たち人はどうなるでしょうか。
例えば、父親が子どもたち4人の前におやつを10個差し出し、父は一人何個ずつとは言わず子どもたちの自主性に任せ「4人で喧嘩せずに仲良く分け合いなさい」とした場合、
兄は「自分は1個だけで良い」とし、残りの9個を「弟妹お前たち三人で3個ずつ分けなさい」言うでしょうか。
それとも皆仲良く等しく分けるでしょうか。
それとも取り合いの喧嘩になるでしょうか。
独り占めしようとする者が出るでしょうか。
父が予め決めて指示をすれば揉め事もないのでしょうが、それでは子どもたちの本性を見ることが出来ません。
もし何も言わずに見ている父がいるとすればそれは子どもたちのその心を見極めようとしているのかもしれません。
又は父は既にその心を見抜いておりそれを子どもたち自らに気づかせようとしているのかもしれません。
人は怒りの感情から自身の本性を顕にし、そして人は自由からその本性を顕にします。
周りはそれを見て相手の人間の本性を目の当たりにすることになりますが、ところが一方の当の本人がそれにより自身の本性に気づくことは難しい。私にはそう見えます。
私たちはいかにして自分の本性に気づくことが出来るでしょうか。
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