相手の気持ちや相手の考えなどを察することが出来ない人間に対し理解を促すには通常は言葉で伝えるしかない。


しかしながらそのような人間はその言葉を理解するための知能や知識、経験などが足らないことが多い。または「我」と言われる自己本位な心がその人間の理解の妨げになっている場合が多いようにも見える。


相手の理解を促そうと発したその言葉をこちらの真意とは真逆に相手が受け取り不機嫌になるか又は攻撃性を持って返してくる場合がある。


更に話し合い分かり合えれば良いのだがそうもいかない場合が多い。


そうするとこちらが取るべき対応は二つとなる。


ひとつ目は、それ以上怒らせることのないよう反応ぜずその場の難を逃れるよう努めること。


しかしながらその場合は相手は悪化の一途を辿り、更にこちらに対する攻撃性が増す場合もある。


そこで二つ目の対応として、相手を上手く扱い動かす、というものがある。


本音と建前を使い分け、方便を使い、こちらに向かう攻撃性を他方向にそらしながら時に相手の心理と弱点急所を突き、恐怖心と不安を駆り立てることによりこちらの意図する方向に相手を操り動かさなければ我が身を守れない場合がある。


この場合はこちらが発する言動や仕草表情などが相手にどれだけの心理的影響を与えるかを事前に計算し、更に事が進行する過程で相手の反応を元にその強弱や押し引きを調整しながら進めなければならない。


押し過ぎてもならず弱過ぎてもならず、すべてはどれだけ相手の反応に合わせその加減を調整するかであり、予期せぬ反応が出た場合は即座に方向転換しプランBに切り替えなければならない。ちなみにこのプランBとは事前に用意するような型にはまったものではなくすべてはその場で構築し繋ぎ合わせ対処するというものとなる。


これには思考の柔軟性と即座に相手の状態を見極める洞察力、そして何よりも感情のコントロールと冷静さが必要となる。誰にでも出来ることではない。



私たちの日常には話して分かる者とそうでない者がいる。


恐怖などの動物的な感情でしか動かない者も多く存在する。


私たちはそれを見極めることが出来ず多数に対し同じ画一的な対応をしようとし、こちらの意思が正しく伝わらず、そして相手から怒りと憎しみの反発を受け負の連鎖に巻き込まれていく。


俗世では右の頬をぶたれたからと左の頬を差し出していればあっという間に我が身を滅ぼし獣人に食い殺されてしまう。



未熟であるとか成熟であるとかそのような概念だけで人と接していると判断を見誤り潰されてしまうことがある。



犬はごはん欲しさに尻尾を振り、飼い主の言うことを聞きお座りをする。


気に入らなければ吠え、自分の食事を横取りしたと我が子の子犬さえ親犬が噛み殺すことがある。実際に私はそれを目の当たりにしたこともある。この俗世には人間の姿をした畜生が多数いる。


私たち人間は外見は同じ人間であるが自分の物差しで他者を測るとその人間の本質を見誤る。



本来教科書とは答えが書いてあるものではない。


かつて哲学者のニーチェが説いたように仮にそれに事実が書いてあるとしてもそこにあるのは事実ではなく解釈のみである。つまり事実は受け手により白にも黒にもなるという意味である。


教科書とは「正しく考える」というものを指し示すものであり、その対象と状況、時節などにより応用を効かすための考え方を示すものでしかない。


これを見誤り相手を見ずに教科書通りに事を画一的に進めた場合、私たち人間は道を踏み外してしまう。



話して分かる人間と分からない人間がいる。


それは相手の知能などの資質や適正、心の広さなどの度量、又は話すタイミングなど時節の見誤りによるものなど様々に起因するものであるだろうが、つまりはそれらを見誤らなければ相手は理解を示す場合もあり得るということでもある。



相手を見ずの型にはまった画一的な教育と指導は、迷える心を更に迷わせ悲劇を生み出す。



私たちの日常ではそれがなされてしまっており、本来は迷える心を導く存在である教育者や指導者から負の連鎖が始まっているという側面があることを認識しておきたい。


負の連鎖は邪な心にのみ起因すると決めつけてはならず、それを助長させ膨らませているのがよりによって私たち未熟な教育者である場合もあるという認識を排除してはならないと私は考えている。


そしてこの俗世におけるその現状は事実でもあるという私の解釈をここに書き記させて頂きたい。





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