私たちの日常では様々な情景が視界に入る。



朝から子供を自転車に乗せ猛スピードで見通しの悪い交差点に躊躇わず飛び込み、我が子を命の危険に晒しながら鬼の形相で保育園に向かう母親の姿。



朝から夕方まで、我が子がいかに優秀かを自慢し合うパート主婦方々の姿。



生きているのか死んでいるのか、魂はそこにあるのかないのか、それが分からないほど正気がなく気力が感じられず、ただ時間が来たら出社し時間が来たら帰る感情のないロボットかカラクリ人形かのような従業員。



到底まともとは思えず、ただ道楽で会社を遊び場にして過ごす資産家二代目ボンクラ経営者。



自分は偉いと勘違いし、驕り高ぶり、偉ぶる夫、妻、親、先生、管理職、学者など。



あれが欲しいこれが欲しいと際限のない欲に駆られ、また周りもそれを手にした者を羨み嫉妬する光景。



正月に身内が集まれば兄弟姉妹の我が子自慢が始まり、学歴や社会的地位、給料の高さに始まり他人様など世間の噂話に花を咲かせる。



それに自然に溶け込む人間は良いが、染まらない人間ほどそれらを目の当たりにし苛立ち、腹を立て、居心地が悪く心を乱されることが多い。




周りの人間は変わらない。


すべてではないが、ほとんどの人間は変わることはない。



何か違うと違和感を感じたら自分は他者と距離を空けるしかない。


決してそれらに反応し自身の心を乱されてはならない。


反応しないよう、自身の心の平静を保つよう努めることである。



そうすると自分は周りから孤立することになる。


それは心の孤立であるから表面上の付き合いは続ければ良い。


時に相手の話に相槌を打ってやり過ごせば良い。分かり合うことは無理なのだから。



人間界では心の豊かさを追求すればするほと孤立する。しかしながら「孤立」イコール「孤独」ではない。


孤立は状態を表す事実であるが孤独とは感情である。


孤立した状態に孤独という寂しさを感じる者もいれば孤立に孤独を感じることなく逆に安らぎを感じる者もいる。


仕事ならまだしも、プライベートなら上辺だけで無理して価値観の違う人間と付き合う必要はなく離れて一人で過ごす方が良い。


書物の中の過去の偉人と語り合った方が良い。


そもそもそれらは比較の対象にすらならない。



そんなことを考える変わり者の私たちはホームにはいない。多数の論理ではマイナーなアウェイの世界に身を置いていると考えるべきかもしれない。



しかしながら郷に入っては郷に従えである。



私たちから見れば周りの人間に違和感を感じるだろうが、逆に周りからすれば私たちはおかしな人間とされるかもしれない。


そんな中でも自分とは異なる感性を持つ理解不可能な周りに自分の心を乱されてはならない。


周りを見下してもならない。


お互いに住む世界が違うのだと。



私たち人間はこの世界においてホームの立場であろうとアウェイ(部外者)の立場であろうとも、感情をコントロールし内側の心の平静を保つことが出来ればいずれの立場の者もこの世の日常から学ぶことは多い。



それには自分とは異なる感性を持つ周りに心を乱されることないように自らの内側をコントロールするよう取り組むことが大切であると私は思う。


しかしながらこの世には攻撃性を持って近づいてくる偽善者がいる。それには立ち向かわなければならない。


こちらから攻めることはないが攻撃してくるなら我が身を守らなければならない。


「寄らば斬る!」


それが出来なければ見ぐるみ剥がされることがある。


俗世では相手を見ずに与え相手を見ずに生きると不幸になる。ズルい人間は優しい人を探している。



負の感情は周りにより及ぼされるのではなく縁により起こる自身の内側の反応である。



だから私たちは自身の内側を見なければならないのである。



日常からそれを強く思う。





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