お母さんが作ってくれる料理を「美味しい」と言い、母を喜ばせたいとする優しい子がいる。


我が子が喜んで食べてくれる姿を見て母は嬉しい。


母は我が子を喜ばせようと頻繁にその料理を作るようになる。


そのうち子供は同じ料理に飽きてくるが優しい子はそれが言えない。


お母さんがこんなに喜んでくれているのにがっかりさせたくないと考える。


成熟した親はそれを察して同じ料理を作る間隔を空ける。


しかし未熟な親はそれが分からない。それどころか「もう飽きた」という言葉を聞こうものなら不機嫌になる。


「せっかく作ってあげているのにわがまま言うならもう作らない!」


そんなことを言う親がいる。


「そうだよね、同じのをしょっちゅう食べてたら飽きるわよね。ごめんね。」


それが言えない。



子にとって気が重くなる時には親が過剰な親切をしていることが多い。それは相手の気持ちを汲み取っていないということであり自分の売り込みであったりする。


親が子を信じることは大切なことであるが、それを子に伝えることで子にとってそれが重荷になる場合がある。


「私はお前を信じているから」


それを励みとする子もいればそれを重いとする子もいる。



話は戻るが、給食制度のないお弁当持ちの学校にも関わらず中には平気で子供を手ぶらで学校に行かせる親もいる。戦時中でもない現代においての話である。「朝早く起きるのが辛いから」「仕事で忙しいから」と。


こんなことから子供の心は傷ついていく。


優しい子は自分から言えない。


だから周りが愛を持って察してあげなければならない。



私たち人間とはなんと未熟な存在なのだろう。




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