希望とは何かを問われた時、それに対し明確に答えられる人間は少ない。


こんな人と結婚したい


あんな家に住みたい


お金持ちになりたい


偏差値の高い大学に入り大企業に入社したい



多くの者がそのようなことを語る。


しかしながら過去の偉人達はそれらはすべて単なる「欲望」であり希望ではないと言う。

欲望ではないならそれらは「期待」とするべきものなのかもしれない。


そのような「~になりたい」「~でありたい」というものが欲望や期待であるとするなら「希望」とは何なのだろうか。



その答えを探す前にまずは希望の反意語について考えてみたい。

希望の反意語は失望ではない。失望は期待の反意語である。


希望の反意語は「絶望」とされている。



この絶望という言葉は言葉通りに解すると希望を断つということになる。

そう、希望を「絶たれる」ではなく「断つ」とした。

 

受け身の受動的ではなく自らの意志である能動的なものとした。


この絶望について精神科医であり心理学者でもありナチスのアウシュビッツ強制収容所から生還したヴィクトール・フランクルは「絶望の果てに光がある」とした。

彼は希望の反意語である絶望の果てに光があるとしたのだ。


他方では昭和の大戦時に囚えられ獄中死した日本の哲学者、三木清はこのように語っている。


「本来の希望とは”決して失われることのないもの"であり、それは"生命の形成力"である。」

「生命の形成力とは生きることを形成する力であり、生命をつなぎ人生を紡ぐという意味である。」


まさにこの三木氏の言葉をその身をもって示したのがフランクルであり、その希望が彼を生かす力となった。


三木氏はまたこのように締めくくっている。


「断念することを本当に知っている者のみが本当に希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。」


まさにフランクルはすべてを失い断念しその絶望の中で妻との愛の絆という光を見出し生き抜いた。

それは彼にとっての希望であり、生命の形成力であり、生きることを形成する力であったのだと私は思う。


多くを諦め断念してきた結果、そこに最後に残ったものに光を見出すことが出来たならそれは意義のあることだとも私は思う。


希望とは決して失われることのないものでありそれは生命の形成力であるということについて改めて考えてみたい。

 

 

 

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