先日「育ての親があなたの真の親であれば嬉しいか」という質問を受けた。

 

 

それに対する返答を書きたいがその前にそもそも私たちにとっての「存在」とは何かについて考えたい。

 

西洋的な考えとは異なり東洋的な考えに基づけば私たち存在は生まれながらに個として存在するのではなく、存在は関係性の上に成り立ちその関係性を持って初めてその存在を成すとされる。

 

精神世界における概念では私たち人間の両親は私たちの魂の生みの親ではないが現実社会においては私たちにとって今生の父は父であり母は母である。

 

転生するたびに父と母は変わるであろうがそれでも私たちにとってはその転生での両親が父であり母である。

 

私たち人間の言う父母とは生物学上の関係性における生みの父と生みの母となり、そこでは血の繋がりのない養父養母など育ての父母とは異なるという区別がなされている。

 

しかしながら仏教の教えに基づき諸法は無我であり事象はこれを「縁」によって生じ「起」こるとされる「縁起」に置き換え解釈すれば、存在においてもそれは関係性により初めてその存在が生じると解釈することができる。

 

つまり人間は転生のたびに父母が変わるがそれは生物学的な関係性によりその時初めて親子の関係が成立することとなる。

 

 

ではこれを心の関係性に置き換え考えてみればどうなるだろうか。

 

生物学的な血の繋がりがない養父母であっても心の繋がりがあればそこに親子の関係性が成立する。そこに「縁」が「起」こり親と子が「存在」することになる。

 

逆に言えば生物学的な血の繋がりがあっても、そこに心の繋がりがなければ親子の関係性は成立せず親も子も存在しないという解釈も可能となる。

 

上記の親子はどちらを真の親子とすべきだろうか。

 

 

生みの親であれ、育ての親であれ、いずれであってもそこに心の繋がりがあれば子にとっては真の親である。

 

生みの子であれ、育ての子であれ、いずれであってもそこに心の繋がりがあれば親にとっては真の子である。

 

 

存在とは関係性の結び目でありそれは目に見える繋がりだけではない。

 

むしろ真の意味での存在とは心の繋がりによる関係性の結び目に生じると言っても過言ではないと私は考えている。

 

それにより真の親、真の子という存在は表面的な条件により限定されるものでなく互いの心の繋がりによる関係性によって存在し、それは親子だけでなく友人、夫婦などその他多岐に渡り同様であると考えられる。

 

 

「育ての親があなたの真の親であれば嬉しいか」という質問を先日頂いたことに本題を戻す。

 

これまで書かせて頂いたようにその質問自体は答えられるものではなく私にとってはその問い自体が失礼ながら「愚問」であり、ここに改めて私なりのその返答を書き記させて頂く。

 

私にとっての育ての親は既に心の繋がりのある私にとっての真の親である。

 

もちろん生みの親も私にとっての真の親である。

 

私にとっては生みの親も育ての親も心の繋がりのある真の親である。それは物理的関係性や生物学上の繋がりに制限されるものではない。

 


今回このように論理的に書き記させて頂いたがそれは本来普段から意識し考えるようなものではなく、その関係性とその存在は心の無意識の中に成立しているものであることを最後に補足させて頂く。

 

 

 

 

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