小学3年生の教室には9歳の子どもたちだけがいる。

中学2年生の教室には14歳の子どもたちだけがいる。

高校3年生の教室には18歳の子どもたちだけがいる。

 

そこに教師以外の大人が混じることはない。

しかしながら大人社会では肉体年齢が30歳で精神年齢50歳の大人もいれば、逆に肉体年齢は45歳であるにも関わらず精神年齢が9歳程度の大人もいる。

更にそのような肉体年齢45歳の大人は自身が精神年齢は9歳児の大人であるという自覚がない。

大人社会では肉体年齢相応の精神性を求められるが精神年齢が9歳児の大人はそれに応えられない。

応えられないだけで済めば良いがそれでは済まず、肉体年齢相応の精神性を求める相手に対し求められる側は憎しみの念を向ける。そして求める側も同様に憎しみの念を相手に向けお互いとなり周りを負の渦に巻き込んでいく。

さらなる問題はこの世では肉体年齢が45歳でありながら精神年齢9歳児の大人が社会的地位を与えられ責任のある地位に座し権力を持つ事が多い。

その主な原因は適正のない者に対する血縁による権力の継承にある。


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この世の歪の一つは肉体年齢と精神年齢の不一致にある。

そして適正のない者に対する血縁による権力の継承にある。


人間界の大人社会では肉体年齢相応の精神性を求められるが、これに応えられない者、つまり肉体年齢に相応の精神性を持ち合わせていない者は疎外されていくのが通常の自然な流れである。

しかしここで真逆の現象が起こっている。

現実社会では肉体年齢相応の精神性を持ち合わせていない者、適正のない者が血縁により社会的地位を与えられ責任のある地位に座し権力を持つ。

そこに罪なき誠実な者たちが巻き込まれるという悲劇が起こる。

私の経験ではその中で我が身を守りながら要領よく立ち回り生き残ることは多くの人間にとって難しいことであると考えている。



人間界では資格がなければ禁止されているものがある。

普通運転免許がない者は自動車を運転できない。

1級船舶免許は100海里(185.2km)の沖まで船を出せるが、2級船舶免許しか保持していない者は沿岸から5海里(9.26km)までしか船を出せない。

このように危険を伴うものや他に被害を及ぼす行為には技能など能力的に適正を満たす必要があり資格試験がある。職業も同じくである。



しかしながら親の血を引くというだけで本人に適性がなくても就ける職がある。

政治家、企業経営者、医者、その他「先生」と呼ばれる方々である。

「医者には医師免許が必要ではないか」と言われるかもしれないがそれとて金など財力と親のコネ次第である。

更にいずれも人間性や精神性をはかる試験や基準はないに等しい。父や母の息子である、世襲にあるのはただそれだけである。

国民や従業員の生活や生命財産を守る立場にある役職にも関わらず無試験でその家系の血の繋がりがあるというだけで適正がなくてもその職に就く。

現代の政治については今だに明治の貴族院のままであるといってもあながち間違いではないように思う。


繰り返しになるがこの世の歪の一つは私たち人間の肉体年齢と精神年齢の不一致にあり、そして適正のない者に対する血縁による権力の継承にある。

肉体年齢と精神年齢の不一致は当然起こり得ることであるが、現代社会ではそれを許さない傾向にある。

 

45歳の大人の精神が9歳の小学3年制程度であるなどというのはあってはならないことなのだとされる。

 

そこに負の念が生まれる。にもかかわらず一方ではそれに反しそれを許す世襲制の世界が色濃く残る。先程例に上げた職業などだ。

私たち人間の多くは自分は肉体年齢相応の精神性を持ち合わせていると信じており、ほとんどの者が自分が9歳児の大人であるという自覚はない。

そのような9歳児の大人が権力を持ち社会を支配する構造がある。それが都合良いとそう仕向けている存在もいるのだろう。

 

これらは単に精神が幼いというだけではなく、我欲や自分可愛さという意味での汚れや未熟さを含む。

 

 

肉体は見えるが精神は見えない。

 

人間は目に見えるものに重きを置く傾向にある。それゆえに肉体と精神のバランスの悪さやそれが人間界に及ぼしている影響の大きさに気づかない。

 

マクロな現実社会における政治経済や国民の生活は既得権益にしがみつく産業構造を解体しなければ何も解決しない。

更にミクロな日常生活レベルまで掘り下げて見た場合、本記事に書かせて頂いたようなこれらの歪にメスを入れアンバランスを解消しなければ人間社会が良くなることはないと私は考えている。

外側に原因と解決法を見出し良い環境を用意すること自体が悪ではない。しかしながらそこには落とし穴がある。人間は心地良い現状維持を求める傾向にあり、当たり前から少し下がると不満となる。外側の環境変化が人間に与える影響には限界があるのだ。

 

これにおいてもつまりは精神、個々の内なる心のあり方に必ず行き着くことになる。



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