私は過去十数年、進学塾や予備校と言われる教室の教壇に立ち受験指導に携わってきた。

 

高額な授業料を支払うために世の母親はパートに出て働き、中には授業料を滞納し遅れて頭を下げながら給料日に銀行から直行で札束の現金を握りしめて来校される母の姿がそこにはあった。

 

高校の予備校部門となると数十万円から100万円単位の年間授業料一括払いであるから分割ローンでの支払いを組み、我が子のためにと、夫婦共働きでギリギリの生活をしている家庭の姿も見てきた。もちろん二人の子を持つ私たち夫婦もその当事者でもあった。

 

私たち現代の人間は偏差値の高い学校に入学し大きい会社に就職したり安定した公務員という職に就いたり、そうやって老後までお金の心配をすることなく過ごすことが幸せだと考えその人生を送る。

 

お金があれば豊か、お金がなければ貧しいと考え、教育ですらお金儲けの道具と化していることがその現場でも肌身で感じられた。

 

 

ある人はお金を持っていることが豊かだと考え、

 

またある人はお金を必要とする方々のために使うことこそが豊かだと考える人もいる。

 

 

ある人はお金がないことが貧しい考え、

 

またある人は「もっともっと」と際限のない欲望から逃れることが出来ない人こそが真の貧しい人だと考える人もいる。

 

 

私たちは一体何のためにこの世に転生し生まれてきたのだろう。

 

人は幸せになるために生まれてきたとはよく聞かれるが、そもそも幸せとは何だろうか。

 

 

前述のように偏差値の高い学校に入学し大きい会社に就職したり安定した公務員という職に就いたり、そうやって老後までお金の心配をすることなく過ごすことが幸せなのだろうか。

 

 

 

私の下の息子は発達障害を持っており、特に学習障害がある。

 

小学校二年生の時、担任の先生から特別支援学級へのクラス移動を勧められ、高学年になれば保護者授業参観日には我が子の横にだけ特別補助の先生がつきっきりで指導する姿があった。

 

0点や1桁台の点数が当たり前の息子がテストで時に30点を取って帰ってきた時には家族で喜んで褒め称えお祭り騒ぎであった。

 

通知表はオール1に近かったが体育だけは5、社会や他の学科で2や3をひとつでも取った科目があれば大騒ぎという有り様だった。

 

 

勉強はまったく駄目であるから中学では好きなバスケに打ち込もうとバスケ部に仮入部してユニフォームやバスケットボールやシューズを購入して揃えたが、その矢先に学業の成績不振のためという理由で部活をクビになった。

 

それを親に言えず週末に部活に出かけるふりをして近所に隠れて泣いて過ごしていたりもした。

 

 

そんな息子も義務教育を終えて高校進学という大きな壁が待ち構えていた。

 

私たち夫婦は下の息子を連れ様々な高校を見学して周ったが、作文と面接だけで入試を受けることが出来るという夜間の定時制高校になんとか入学でき、その後卒業時には3年間無遅刻無欠席という内申書が評価され学校長の推薦で近くの食品製造工場に入社させて頂く事ができた。

 

給料は額面で16万円程度であるから手取りは10万円少しであろうか。

 

今どきの大卒の初任給が25万円から30万円程度はざらにあるため、大卒の彼らと比較するでもないが息子の場合はほぼ法的な最低給与の下限に近い。

 

しかしながら本人は文句の一つも言わず無遅刻無欠席で張り切って仕事に従事している。

 

油まみれ汗だくの肉体労働の工場仕事であるが、勉強が出来なくて馬鹿にされることもなく、クビになることもなく、それどころか学校とは違い働けば給料を頂くことが出来、更に残業をして頑張れば残業手当も出るなどなんと有り難いことであろうかと本人はしている。

 

本人の頑張りもあっただろうが、どれだけご先祖様や神仏様など私たちの目に見えない存在の方々によりご加護を頂いてきただろうかとも思う。

 

それらご加護も本人の前向きな姿勢と地道な努力があってのことかもしれない。

 

 

これは下の息子の話であるが、上の息子に関してはこれまた壮絶であるから同じに語ることも出来ない。

 

 

下の息子に対して私ができたことはただ見守ることだけであり、学業が出来ずに追い込まれていた時にただひたすら魚釣りなどに出かけて彼と行動を共にしてきたことだけである。

 

夏は炎天下の中、冬は極寒の中、魚が釣れなければ一日中息子と海を見ながら一緒に待ち続け、かかった魚を陸揚げ寸前で逃がせば親子で共に悔しがり、また時に釣れれば共に喜び、ただひたすら共に時間を過ごしてきた。

 

年間100日以上は共に海で過ごした。5年から6年ほどそれを続けたであろうか。父として下の息子に出来たのはただそれだけである。彼の能力の限界ゆえに学業も教えていないし大した言葉も投げかけてはいない。

 

しかし振り返れば、これらの時間はなんと貴重な時間でありお金に代えがたいものであっただろうか。

 

 

現代に生きる私たち人間はこの人生から何を学ぶのだろう。

 

お金が全てだと考え、もっと、もっと、と満たされることなく際限のない欲に駆られ、不平不満を言い続け、そして気がつけば人生の終りを迎える。

 

偏差値の高い学校に入学し、大きい会社に就職したり安定した公務員という職に就いたり、そうやって老後まで金の心配をすることなく過ごす。

 

順風満帆、無風で波風の立たない、そのような人生にどのような学びと成長があるのだろうか。

 

 

私たち人間は時にお金の前にひざまつき、土足で頭を踏みつけられながらも悔し涙をこらえながら耐えなければならない時がある。人生はむしろその連続である。

 

何億円もの大金を手にしながら「それでも足らぬ」と不機嫌でおり、周りに当たり、攻撃し、周りを巻き込み迷惑をかけ続けている者もいれば、その犠牲となりただひたすら火の粉を避け我が身を守りながら耐え忍び続けている者もいる。

 

 

それでも私たちにとってこの人生にはそれがどのような人生であってもそれぞれ意味と価値があり、

 

幸せとは他との比較により感じるものではなく、真の幸せとは自身の心の中にのみ存在する他との比較ではない「絶対的幸福」というものだと最近は思うようになった。

 

人生の意味や意義は私たちの学びと成長にあると言われるが、私たちにとっての幸せとは既に私たちの内側にありそれに気づくかどうかではないだろうか。

 

俗世に生きる私たち人間にとってお金による物理的束縛と心的呪縛から逃れるのはかなり難しい。しかしながら皆等しく学びと気づきの環境は用意されており、あとは私たちそれぞれがそれに気づくかどうかだと私は思う。

 

 

頭の中が真っ白に初期化された状態で重力のあるこの世界で肉体を身にまとい生きる人間はこの世の道理の中で生きている。

 

私たちはこの世の道理の中で現実に生きなければならない。

 

 

私たち人間が大人になるということ、それはまさしく現実を受け入れていくということである。

 

甘え、ないものねだりをして他に依存し不平不満を持つことはその正反対のことである。

 

人はその成長過程において幼児的な甘えを母なる無償の愛で満たされ幼児的願望を克服していく。そして経験と成長と共に世の中の現実を受け入れながら行動を持って自らの潜在する可能性を実現していく。これにより成長とは依存から自立への道であることに疑う余地はない。

 

 

人生の価値とはそれらを我が身をもって経験し学ぶことにあると私は思う。

 

 

 

 

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