先日実家に帰った時に母から現金預金の複数の保管口座について話を聞かされた。

 

「私が先に逝くことになれば父は何も分からないからお前に伝えておくから」とのことだった。

 

実家には後継ぎの兄がいるが彼は何も聞こうとしないしお寺の檀家のことや相続問題など無関心なため私としても念のためとして聞き、とりあえず聞いた詳細を記録している。

 

両親も80歳を超え、父に関してはまもなく90歳になろうかという状況であるが、両親ともに自分たちの葬儀の費用の心配をしている。

 

死を直前に控え自分たちの葬儀費用、お金の心配をし続けているのだ。

 

これは両親だけでなく祖母もそうであったから多くの人間がそうなのだろうと思う。もちろん私自身も自分がこの世を去る時に備え、最低限残された者に迷惑を掛けないようにと考えこれまでに手を打ってきた。

 

 

数年前に妹が旦那によるDV(家庭内暴力)やら刑事事件に絡む詐欺行為、妹の名前を使い多額の借金をするなど様々な問題があり離婚をしたのだがこれが大騒ぎであった。

 

最終的に引き離すには調停から裁判など様々な手続きを踏まなければならず、妹自身には知らされずに旦那が無断で借りた多額の妹名義の借金の弁済、実家に避難するも両親の負担もありそして兄夫婦が良い顔をしないこともあり別の住まいに移らなければならなかったりと問題は山積みだった。

 

その後は自己責任で仕事をさせ自立させるにしても、現状から抜け出させるにも離婚を強制的に成立させるための弁護士費用やら新しい住まいの手配やら引っ越しやら生活用品などお金なしではそれは不可能だった。

 

もちろんそれは妹本人にも責任があり一方的に相手側だけの責任ではないと思う。

 

しかしながら本人だけの力ではどうしようもないこともあり、親兄弟としても妹の自業自得や自己責任だとして見捨てることなど出来るはずもない。

 

この世はある意味お金によりその人生を縛られ奪われるような仕組みになっている。法治国家であるがゆえに法の下で拘束され自由を奪われる。

 

それが家庭内暴力による被害であろうと詐欺行為の被害に巻き込まれ家族が破滅に追い込まれようと誰も救けてはくれない。世の中には目に見えない暴力や感情的恐喝だって存在する。

 

身を守るための弁護士費用だけではない。遺産相続ひとつとっても不動産の査定は素人では出来ず税理士に依頼しなければならず、ちょっとした土地があるだけでその査定費用だけで100万円は下らなかったりする。更に相続税が支払えないとなると根こそぎ土地や資産を国に没収される。

 

先祖から受け継いだ土地を守っていくのにその手続きだけで多額のお金が必要になるのだ。

 

お金が全てではないことは誰しも頭では分かってはいる。そんなことは当たり前なのだ。

 

しかしながら現代の世では時にはお金がなければ我が身や先祖代々の土地でさえ守れないような仕組みになっていることも事実。

 

私たち人間は不安との戦いの人生を歩む。何かあった時には自分の身は自分で守らなければならない。愛する家族を守らなければならない。両親や兄弟も同様であり、余裕のある者は友人や知人ですらその対象になるだろう。

 

救ける手段は様々であると思う。勇気づけであったり、労力による手助けであったり、知恵であったり。そして時と場合によってはどうしてもお金でなければ解決できないこともある。

 

お金に関しては縦の支配構造を生み出し隷属して生きる人間社会の根本原因の一つであると思う。医療も食もお金次第なのだから。

 

そして米作りなども成り立たないように強制的に農地を手放させるような国による政策がなされ、現代は昔のように自給自足で食料を確保することすら出来なくなっているのだから。

 

 

死を目の前にし、直前まで自身の葬儀代の心配をしている両親の姿。

 

私もそうなるのかもしれない。

 

 

お金が全てではないことはほとんどの人間は分かっている。しかしながらお金がなければ成り立たないようにその仕組みが構築されており、それは現代における社会構造から始まり個々の精神まで浸透し支配している。

 

もちろん道楽で遊ぶ金欲しさに欲に塗れお金に執着する者もいる。それと本当にお金を必要とする者とは区別しなければならないだろうし、お金を与えるべき相手とそうでない相手、時と場合を考えなければならないことは言うまでもないと思う。

 

現代は次々と便利な物が目の前に差し出され私たちの欲望を刺激する。人間がそれに打ち勝つのは簡単なことではない。現代は徳川の江戸の世でもなければ藤原の平安貴族の世でもない。技術革新による変化の速い、物で溢れた令和の世なのだ。

 

だからこそこの問題を旧態依然とした古い視点で捉えるのではなく大局で捉えなければならないのだと思う。

 

 

この種の話は正直うんざりしている。

 

何事もまずは正論ありきだが、動いているのは教室ではなく現場であり、主役は先生ではなく生徒なのだ。例え先生が現場に降りたとしても分からないことがある。それはいくら現場に降りても先生は先生であり生徒自身の目線と意識には成り得ない。それを勘違いしてはならないと私は思う。

 

 

確かにお金に振り回される人間は愚かであるかもしれないが、仮にそうであったとしても私はそのような人間の姿を見下す方々を絶対に信用しない。

 

 

 

 

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