福沢諭吉はこのように論じている。
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世話をするということにおいては保護という側面と指図という側面がある。
保護と指図の範囲は同じであるべきで寸分も違ってはいけない。
保護の範囲は指図が及び、指図の範囲は保護が及ぶ。
もし違いがあれば不都合が生じ、禍の原因となる。
世話の意味を保護のみと解釈したり指図のみと解釈する間違いの例は多い。
父母の指図を聞かない道楽息子に漫然と金を与え遊び呆けるのを助長させるのは保護の世話が行き過ぎであり指図の世話が行われていない。
子供が謹んで勉強して父母の指図に従っているのに子供に衣食を十分に与えず無学にして苦しめるのは指図の世話のみをして保護の世話を怠っている。
道楽息子は不孝であるし、指図のみの父母は無慈悲である。両方とも人間の悪事という。
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以上としている。
保護と指図は範囲は同じであるべきで寸分も違ってはいけないとしている。
世話をするとは保護と指図を伴って初めて世話とし、そこにもバランスがあるのだと思わされる。
甘やかせすぎの過保護とは与え過ぎか又は指図が足らないということになるが、いずれであってもそれは主体側の自己満足にあるとも言えるのかもしれない。
道楽息子は不孝であり指図のみの父母は無慈悲であるが、それでもその主体は世話をする側であると解釈出来る。
つまり保護と指図の関係性においてはいずれのアンバランスであっても指導者の未熟さが悪事を生み出すことになるということになる。この場合の指導者とは世の父母を含む。
この理論では、貧民救済と言って人物を見ず、貧乏の原因も問わず、状態だけ見て食べ物や金銭を与えることは保護の行き過ぎとなる。
しかしながら経済的論理と道徳的見地は相反することがある。
経済的論理からのみ判断し仁恵(情)を取り除いてはならない場合もあるとされる。
これは私徳を忘れた人間は経済的論理を用いて偽善を振りかざす者が多いからではないだろうか。
間違った優しさは確かに有害ではあるだろうが世話に含まれる保護と指図のバランスに更に私徳(自己に対する道徳)というものを加えなければ人間は人間でなくなってしまうのではないだろうか。
このように考えていくと、他の世話をするということは真の愛を知ることにも通ずるのかも知れない。
それを考えていた。
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