日本語には「無知」という言葉と「無恥」という言葉があります。

「無知」は知識がないことであり、一方の「無恥」はその字の通り恥知らずのことであり「厚顔無恥(厚かましくて恥知らず)」という四字熟語や、「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざなども存在します。

かつての日本人は恥を知る民族であり、時に辱めを受けることよりも自らの死を選ぶことさえもあったと伝え聞きます。

今の日本は「恥を恥と思わない大人」「厚かましく恥知らずな厚顔無恥な人間」で溢れています。


か弱い女性を盾にして顧客のクレームの対応をさせて逃げる男。

重いものを運ぶのに苦労している同僚の女性の姿を見ても知らん顔をして通り過ぎる男性の職員。

何度も同じミスを繰り返し周りに迷惑をかけても平気でいる者。


彼らには恥という概念はあるでしょうか?

恥というものについて果たして彼らと語り合うことが出来るでしょうか?

そもそも恥という概念が違う者同士が分かり合えるでしょうか?


「恥」とは「あるべき姿ではない時、ふさわしくない時」などに表される言葉ではありますが、この世で共通の認識を持たない者はその「恥」という概念が分かり合えずお互いに、怒り、憎しみ、恨みの念などを抱き、やがて周りを巻き込み黒い煙に包まれていく、

 

私の周りにはそのような世界が広がっています。


世の中には平気で弱い者を痛めつけ弱い者から物を奪う者がいます。

 

それを恥と思わない者がいます。

 

 

話して分かり合える者と分かり合えない者がいます。

 

「話して分かり合える者と分かり合えない者」をそれぞれどう見分けるか。

 

その識別を誤るとこちら側が相手によって力で消されてしまう場合があります。

 

 

ジョン・F・ケネディ大統領や安倍元首相も反体制の者たちによる暴力の前に倒れました。

 

論理対論理が必ず調和に導くとは限りません。

 

 

恥を恥と思わない人間とどう向き合い彼らを導くか。

 

 

「無知」と「無恥」を注意深くそれぞれ違う角度から観察し潜在する可能性を探るか、それとも相手の限界を見極め適切な方法で対処するか。

 

この世には話しても分からない者、話をしてはならない相手がおり、排除のみがその有効手段であるということはありえないだろうか。

 

 

教育者とは学問を教えるだけがその職にあらず

 

個々の適性を見極め適切な道に進ませるその助言もその職務の一つではないでしょうか

 

 

個人的感情や主観に囚われない冷静沈着な眼力と見極め、適材適所、迷いなき状況判断が教育者及び指導者には求められるように思います。