この世の性質は「社会性」「非社会性」「反社会性」の3つに分けられる。

「社会性」とは、すべての存在が共存共栄し「自」が「他」を尊重し思いやる性質である。

「非社会性」とは、法には触れないが「望ましくない行為や状態」のことを言い、それは自己本位な性質でもある。

「反社会性」とは、違法又はそれに抵触するとされる行為や状態のことであり、違法とされずとも暴力や脅しにより経済的利益を追求することなども現代では反社会性に含まれる。


古来より日本人は社会性に重きを置く民族であり、法には触れないが「望ましくない行為や状態」とされる「非社会性」を悪とし、人間はそれらを家庭教育などによる人間自らの自浄作用により社会性へと導いてきた。

しかしながら現代では非社会性を良しとし、これまでは望ましくないとされてきたことが現代では社会性の一部(望ましいこと)として統合されつつある。

つまりそれは以下のようなことである。

ビジネスのフォーマルな場所に正装ではなくTシャツとジーパンで参加する。

「それの何が悪いのか?」

「アメリカのIT企業などはそんなこと当たり前だ。ネクタイにスーツでなければならないなど日本はなんと時代遅れなのだ。」

非社会的な人間はそのように言う。

つまり、自分たちは社会的な人間であると主張する。

そしてまたある著名人は、個人が浅草の三社祭で大衆の頭上でドローン(小型無人機)を飛ばしたことを非難された出来事に対してこのように言った。

「なぜ浅草の三社祭でドローンを飛ばしてはならないのか?」

「法律で禁止されているのか?」

「祭りの参加者に危険が及ぶと言うなら法律で禁止すれば良いではないか。」

 

「法律で禁止されていないのだから飛ばした者を非難するのはおかしい」

そのようにテレビの討論番組で語り、多くの日本の視聴者が「そうだ、そうだ、その通りだ」となっていた。


服装にはその場にふさわしい服装というものがある。

結婚式やお葬式にTシャツと短パンにサンダルで出席する者はいない。

場違いであり、相手に不快な思いをさせ失礼なのである。そしてそのような場には礼儀というものが存在する。

非社会的な人間はそこに「自分」しか存在しない。


更に浅草の三社祭で大衆の頭上にドローン(小型無人機)を飛ばす人間も同様である。

操作ミスや故障で大衆の頭上にドローンが落下したらどのような惨事になるだろうか。

それに対する彼らの主張は、「駄目というならなぜ法律で規制しないのか。法律で規制されていないからそれをしているのであり、自分が責められる覚えはない」

つまり、法律で規制されていないことは何をやっても許されるという論理である。

彼らの頭には「社会性」「非社会性」「反社会性」のうちの非社会性が存在しない。それ以前にこれら三つの概念自体が彼らの頭の中には存在しない。


Tシャツとジーパンとサンダルでいることが駄目なのではない。

時と場合によってその服装で良い時と悪い時があるのだ。


ドローンを飛ばすことが問題ではない。

時と場所によって良い時と良い場所があり、悪い時と悪い場所があるのだ。


それを判断できるのが共通の社会性であり、それを判断できないのが非社会性なのである。

しかし現代ではその非社会性を古い考えとし、それらの非社会性を正当化しつつある。


コンビニのレジのバイトで髪の毛を赤く染めて腕にタトゥー(入れ墨)を入れて出勤したら店長に注意されてクビになった。

 

「店長は時代遅れだ」

 

「今の時代誰でも髪の毛くらい染めていて、タトゥーをいれている若者などわんさかいる」

 

彼はそう言う。

 

しかしそうではないのだ。

 

社会性とは若者から老人まで老若男女様々な人間の共通意識を丸めたものである。

 

日本のご老人が真っ赤なロングヘアーにタトゥーが入った腕の店員からお釣りを渡されたらどのような気持ちになるだろう。

 

世の中は自分だけで動いているのではない。他が関わっている。

 

社会性とはすべての存在が共存共栄し「自」が「他」を尊重し思いやる性質である。

 

非社会性は若者から老人まで老若男女様々な人間の共通意識を丸めることは出来ない。なぜなら非社会的人間はそこに自分しか存在しないからである。


法律によって判断してもらわなければやって良いことといけないことの善悪の判断ができない非社会的な人間が増えつつある。

つまりそれは日本が欧米化しているということでもあるのかもしれない。

 

 

 

子供は「気高き野蛮人」と言われる。

 

気高きとは高貴であり美しいという意味でもある。

 

子供は社会的常識とされるマナーや礼儀などを知らない。

 

静かにしなければならない場所で大声を出したり、わめいたり、走ってはいけない場所で走ったりする。

 

つまり子供は社会性を持ち合わせていないのである。

 

しかしながら子供は純真で無知な存在であるから「気高き」野蛮人なのである。

 

それに対し社会的常識とされるマナーや礼儀などを知らない「大人」は単なる「野蛮人」である。大人に「気高き」はつかない。

 

 

この世に歪みが生じている複数ある原因のうちの一つ、それは大人が社会性を失い非社会性の存在を否定しそれを善とし、法による規制をもってでしか善悪を判断できなくなったことにある。

 

非社会性を古い時代遅れの考えや習慣と決めつけ非社会性を正当化するのは自らの野蛮さを正当化する単なるすり替えである。

 

ここにも「五歳児の大人」という歪みが存在する。

 

そう、肉体と精神が一致しないのである。

 

 

あなたの周りを見渡して欲しい。

 

その肉体と精神の不一致による歪みは「五歳児の大人」という形で私たちの目の前に存在する。

 

 

 

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