ビジャにかえてケイタ投入後、メッシの近い所でのサポート役がいなくなったことでアーセナルはよりバイタルより前でのプレッシングが有効になりましたよね。
裏へのメッシ、ビジャの飛び出しがなくなったっわけですから。

また、アーセナルは中盤5枚がフラットになっいることが多いように感じました。当然サイドのスペースは埋めることができるわけですが、何よりよかったのは中盤の選手がパスコースを限定することで、クサビのボール対して、DFラインが対応しやすくなっていたと思います。

アーセナルのチャンスシーンは、バルサのSBの裏のスペースを効果的につけたことですが、より優勢に攻撃を組み立てるためには、サイドでキープしたときに中盤の選手が絡んで外と中のボールの出し入れをもっとすべきだと思いました。皆無でしたから。

ケイタ投入でやるべきことがファジーになったバルサに対して、ベントナーとアルシャビン投入ですべきことが明確になったということも要因かと。ケイタ投入で中盤の支配が上がったという風には思いませんでしたし。

ウィルシャーの上手さはかなり際立ってました。奪ったボールを自陣でどれだけつなげるかというのはDF陣が90分集中を保つという意味でも大きな要因ですし。

現在スポーツを取り巻くメディアの問題点を調べていくと、2002年日韓共催サッカーW杯時に、日本のメディアは海外諸国のフーリガンについてメディアスぺクタクルをつくりだしていたということが分かった。

今日のスポーツはメディアの影響を強く受けており、わたしたちはメディアを通じて多くの情報を享受できるような環境にある。しかし、メディアスペクタクルによって誤った情報をも、それが真実であるかのように伝えられている。確かにフーリガンへの恐怖感のように、ある対象に対しどのような感情を持つかということは人によって異なり、なにが正しいということはないと思う。しかし実際にフーリガンがW杯という舞台で、日本という遠方の地で脅威をもつかということを十分に調査し、確かな認識を持ったうえで情報提供していなかったという点が問題点であると思う。この問題は2010年南アフリカ開催サッカーW杯でも残っている。南アフリカは治安が悪く日本人が観戦に行くのは危険だという報道が多くされていたが、実際に観戦に行った多くの人は、治安面について不安はなく、快適な観戦ができたと感じていた。私はこの数年で日本のスポーツを取り巻くメディアは何も変わっていないような印象を受けた。以上のようなメディアスペクタクルの例は、スポーツ競技そのものというよりむしろ、外国の社会や文化を伝える際に起きたものであるが、スポーツ競技そのものでのメディアの問題も多くある。例えば、サッカーの日本代表がW杯前の親善試合などでいい結果が残せずにいると、日本のメディアはこぞって監督解任を要求するかのような記事を書きたてた。しかし、親善試合というのはテストマッチという意味合いが強いものが多く、そもそもそのような試合に結果を求めること自体がお門違いなのである。また、監督の本心をよく知ることもなしに選手起用などの戦術的な部分を批判していたのも問題があると思う。確かに、日本を代表するチームへの期待から多くのことを要求する気持ちも理解でき、そのような批判によってチームが向上することもあるかもしれない。しかしその時に人々に大きな影響を与えるメディアが十分な調査と確かな認識を持って情報発信しなければ、多くの人々が情報を鵜呑みにしてしまうかもしれないという危機感を伴わなければならないと思う。

私はサッカーライターを志す者として、現在メディアが抱える問題に目を向けて情報発信の際には自身の意見を十分に吟味し、情報が人々に与える影響の大きさを意識しながら情報発信していきたいと思う。

大学のレポートをのせます。



私はスポーツマンシップを端的に言うと、決められたルールの中で勝利のために最大限のパフォーマンスを出そうとする姿勢であると思う。

 しかし、正直なところどうしても自分の中で答えを出せない部分がある。それは、スポーツの持つ競技性と遊戯性を備えなければスポーツマンシップとは言えないのか、ということである。

 私はサッカーをプレーするのも観戦するのも好きなのだが、サッカーを観戦しているとスポーツにおける遊戯性について実に多くのことが見えてくる。例えば09-10シーズンのUEFAチャンピォンズリーグでのFCバルセロナ対インテルの試合を例に取ってみると、前者は言わずと知れたポゼッションサッカーを展開する超攻撃型のサッカーを常に貫き、対する後者はこの対戦の2nd.legの試合でひたすら守備のブロックを固めて、攻撃をまるでしようとしないかのようなプレーを90分間し続けた。この試合の結果、1-0でFCバルセロナが勝利を収めたものの2戦のトータルスコアにおいてインテルが上回り、勝ち進んだのだった。この試合の後にFCバルセロナの選手たちはインテルに対して、「彼らはサッカーをする気がなかった。」などと批判した。

 私はサッカーにおいて勝利のためには、相手のストロングポイントを消すために守備をしっかり固めてカウンターを狙いに行くという戦い方は必要であるし、悪いことだとも思わない。なぜならチームによってストロングポイントは違い、攻撃力が自分のチームより高い相手に対して打ち合いになるような展開では勝ち目がないからである。守備的に試合に臨むチームは自分たちと相手のストロングポイントを比較することによりリスクマネージメントを行っているのは、勝利を求めるならば当たり前の行為なのである。

 ここで問題になるのは個人を取り巻く環境や文化によって、サッカーに対する考え方それ自体が違うということなのである。スペイン人たちはより攻撃的で美しいスペクタクルなサッカーを求めていて、守備一辺倒なサッカーをすればスポーツマンシップに反しているなどの批判をしばしば口にする。一方イタリア人たちは最小得点でより合理的に勝つことを求めているのである。(インテルはイタリア人が少ないチームであるが、モウリーニョ監督の率いるインテルはイタリア色をかなり濃く出していた。)いわば、サッカーに遊戯性を求めるスペイン人と競技性を求めるイタリア人の意見の相違は、サッカーにおけるスポーツマンシップを考える上で非常に分かりやすくも、結論を出すのが難しい問題を提起しているのかのようである。

 私は、スポーツに対する考え方、求めるものが個人個人で違うのだから、世界共通のスポーツマンシップなどは存在しないと思う。しかし私自身は、ルール内とはいえ勝利に徹したプレーは、ファン(観客)として不満を抱くことも少なくない。