今日は、阪神・淡路大震災から28年になります。

我が家は兵庫県南東部にあります。

忘れもしません。偶然ですが地震の揺れの少し前にふと目覚めました。

午前5時46分。”ゴー”という音が響き渡りました。今考えれば地鳴りなんですが、「あぁ、朝早くからダンプカーが走ってる・・・」って思っていました。

が、次の瞬間、前後左右上下の激しい揺れ。私は大学まで東京で暮らしていたので、地震には慣れていたつもりでしたが、経験を遥かに超える揺れでした。

とっさに当時2歳になる娘に覆い被さって、妻の名前を叫ぶのがやっと。

地震の怖さを知っていたので、寝室には一切家具は置いていませんでした。なので、娘に覆い被さる必要はなかったのですが、そういう判断すら出来ないほどの揺れ。

食器棚から皿が飛び、宙を舞っているのが薄暗い中でもわかりました。

常夜灯(いわゆる豆球)が消え、カーテン越しに外がピカピカ光っていました。

電線がショートしているのか、それともよく言われる”発光現象”なのかはわかりません。

揺れはどれくらい続いたのでしょうか。ものすごく長く感じました。

ようやく揺れが収まったと同時に、私は玄関に向かい玄関扉を開けました(地震で歪み開かなくなっていたら大変ですから)。

そして備え付けの懐中電灯と家族の靴を取って寝室に引き返し、食器の瓦礫の山に埋まっていた電話機を引きずり出して千葉県の実家に電話。その時はすぐに繋がり、父に『全員無事』を伝えました。父は既に起きていて、NHKラジオを聞いていたらしいです。ラジオでは速報は流れたものの被害の大きさはわからず、こちらからの電話には「きょとん」という感じでした。以降、電話は全く繋がらなくなりました。

ここまですんなりと対応できたのは、ひとえに”教育”のおかげでした。東京住まいの時に、東海地震の可能性が盛んに叫ばれており、学校教育で地震避難訓練とか心得を叩き込まれていましたので。

自宅は新築マンション(入居して半年/泣)だったからか全く損傷なしでしたが、近隣の木造家屋は倒壊もしくは傾いたりしていました。RC造りでも古い建物は倒壊していました。外に出た時の土煙の匂い(ホコリくさい)とガスの臭いは、今でも忘れられません。

高架道路(国道)の橋脚が座屈し、代替路になる橋も通れないとの情報があり出社を断念(被害実態がわからず、なんとか会社に行こうとしていた社畜な私・・・)。

午前8時頃、電気が復旧しテレビがつきました。

「・・・。」

なんて酷いことに。映し出されていたのは、最寄り駅が、停まっていた電車ごと倒壊している姿と炎上する神戸でした。

近所にある公衆電話から、会社に連絡がついたのは昼過ぎでした(10円玉を握りしめて長い行列で・・・)。

我が家の被害は食器全滅くらいで済みましたが、同じマンションの住民の方は倒れてきたタンスで頭から出血されていたり、電子レンジが飛んで(!)壁をぶち破ったりとか話していました。

電気は当日に復旧し、ガスはかろうじて止まらなかった。ただ、水道は一週間断水しました。

支援が整った(?)のは、やっぱり3日後くらいからでしたね。それからは『なんとか3日間頑張れ』を目標に、自活のための災害備蓄品を備えています。

数日が経って、”静岡県警察”のパトカーを見かけたときは泣きそうになりました。

色々なところから応援に来られていました。今でも感謝しかありません。