ツレズレ雑記

あり得ない会社というのは、実際に存在する。

本当に驚いた。

せっかくなので、記録を残しておこうと思う。

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散る桜

桜散ってるよ!早いね! ブログネタ:桜散ってるよ!早いね! 参加中

私は早い 派!

本文はここから


ものすごく久しぶりの日記なので、手慣らしに軽いテーマで。

桜、散っていますね。

もう一回くらいお花見をしたかったのですが、できなくて残念だったので「早い」派です。

毎年思うのですが、お花見って基本仕事があると土日しかできないので、

見ごろが土日にかかってくれると、あまり早いと感じないのですが

火曜日くらいに満開で、木曜金曜が雨で散ってしまうと「もう散ってる!」と思いがちですね

とはいえ、ソメイヨシノは散りましたが、八重桜は結構まだ綺麗なので

まだまだお花見は楽しめそうです。


お花見って、単に綺麗な見ごろの桜を見て楽しむだけじゃないですよね。

通勤途中に桜を見ても、「綺麗だな、春だな」と楽しくなりますが、それだけじゃ物足りない。

やっぱり「誰とみるのか」はとても大切だと思います。

同じく美しい見ごろの桜でも、一人でお散歩していても勿論綺麗だし楽しいです。

でも、やっぱり、特別美味しいお酒や食べ物がなくても、大切な人と並んで桜を愛でるのが

私にとっては「お花見」です。

友達みんなでわいわい楽しむのも好きですが、お花見は文字通り桜を見たい派なので

できたら、大切な人と、のんびり歩きながらゆっくり桜を眺めたいです。


そんな私のお気に入りのお花見場所は、鎌倉の段葛。

でも、今は関東を離れてしまったので、近所の川沿いの桜を楽しみました。

桜って、上を見るか、下を見るかで見ごろが違いますよね。

上を見る場合は文字通り「満開」の頃。

下を見る場合は、花吹雪で桜の花びらのじゅうたんや水面に浮かぶ花いかだを

楽しみたいので、その場合は満開を少し過ぎたくらいが綺麗ですね。

でも、下を見る場合は、踏まれると色が悪くなってしまうので本当に見ごろは一瞬ですが。


そう考えると、桜が散りはじめるのは必ずしも悪いとは限らないのかもしれませんね。

桜は散リ際も、お花見は楽しめる。

次第に青みが深くなるやわらかな空。薄紅の花吹雪。

足元に時折見える、山吹や菜の花の黄色や菫の紫。雪柳の白も良く映えます。

更に時間がたって、紫がかった空には朧月がよく似合います。

春爛漫のこの時は、まさに、春宵一刻 値千金。

そんな時期は、どれだけ長くても、短く感じてしまうものなのかもしれませんね。

桜散ってるよ!早いね!
  • 早い
  • そうでもない

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自分に苛つくこと

自分に対してイラッとすることある? ブログネタ:自分に対してイラッとすることある? 参加中
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自分にいらいらすることは、健全な大人ならままあることだと思う。

「どうしてこんなことを」「自分は、もっとできる。こんなはずじゃない」という

思いがあるからこそ、いらいらするのだ、と思うからだ。

「どうせ、自分はこの程度」という考え方もなくはないだろうが、うっかりミスは

誰にでもある。それに対して、舌打ちの一つもしたくなり、自分に苛々するのは

ごく健全な社会人として普通の反応だろうと思う。


逆に、何をやっても「自分は悪くない」というある意味うらやましい開き直りをするのは

あまり、健全な大人とは言い難いのではないだろうか、とさえ思う。


私自身についていえば、小さなうっかりミスには大していらいらしない。

あまりにも、初歩的なミスを犯すと、情けなさに悲しくなることは、あるけれど。


自分自身に一番苛々するのは、「見通しの甘さ」についてである。


少し考えれば、十分予測可能な状況に対して、自分の見込みの甘さで痛い目を見るとき

自分に対して苛々する。

「少し考えれば、わかるだろう?なぜ、こんなに甘いんだ」

そう言って、自分に叱咤激励することは、たまにある。


たとえば、いつも使う通勤電車を誤って反対に乗ってしまったり、あるいは乗り過ごしてしまったり。

それ自体には、あまり腹を立てない。「ああ、疲れているのかな?」と考えて、

今日は早めに眠ろうかな。と思うのがせいぜいである。

しかし、その結果、スイカの残高が足りなくなり、改札を抜けられなかったら苛々する。

「いくらチャージされているか、常に把握しておけば、こんな無様なことにはならなかった」

という、自分の甘さへの怒りである。

これは、ときどきある。


そんなことを言ったところで、うっかり、忘れてしまうこともあるのだから仕方ない。

しかし、甘い自分に腹が立つ者は立つのである。

どちらにせよ、仕方ない。


苛々するのは、当然であり、ごくごく健全な反応だ。

問題は、それを、どのように処理するか、であると思う。

簡単にいえば、自分へのいら立ち、どうしようもない状況への対処の仕方が

その人を表すのではないか、と私は考えているのだ。

大人としての成熟度、と言い換えてもいいかもしれない。


子供であれば、何か失敗をしてしまったとき

「ボクは悪くない!」または「わたしは悪くない」といっても許される。

とはいえ、せいぜい、小学生までだが。

中学生から高校生くらいにかけて、思春期特有の苛々に悩まされる。

行き場のないあてのない怒りやいら立ちを抱えるのだ。これも、まっとうな成長だが

自分で自分の感情をうまく処理する方法は見えてこない。

まだまだ、大人としての成熟度は未熟であるからだ。

これが、大学生になると、ある程度まで制御できるようになる。

しかし、社会に出ていないので、まだ、考え方は甘い。

社会に出ているか、出ていないか、で何が変わるのか。とおっしゃる向きもあるだろう。

特に、短大や大学を出て、家事手伝いののちに専業主婦になった人にこういう話を

すると、軽く逆鱗に触れかねない。

このブログを読んでいらっしゃる方に、そういった方がいらして不快感を感じたら申し訳ない。

しかし、私は、社会に出ているか否かで明確に違いがあると考えている。

それは、どこか。

大学までの生活、というのは、確かに、沢山のことで悩んだり理不尽な目にあったりする。

それが、社会人と比べて軽いものであるとは考えていない。そこは、私も重要だと考える。

しかし、明確な違いは、「何のための努力なのか」が社会人と学生では明確に違うと思うのだ。

学校での努力は、知識を深めるための勉強のための努力である。

勉強が嫌いな人にとっては、もちろん苦痛だ。しかし、今後の自分のためでもあるのが

勉学であり教養であると思うのだ。言葉づかい、計算、社会や理科的素養。これらがないと

教養がない、とされ、恥をかくのは自分自身である。

恥をかかないためにも、勉強し、教養を身につけるのは、結果的に自分のためだと思う。

そのために、わざわざ、「授業料」を支払って、勉強させてもらっているのである。

なにより、勉強や教養は、やればやるほど、成果に現れる。やっただけの結果が見合ってくるのだ。

もちろん、何もしなくてもいいレベルの天才は除く。私がいうのは、あくまで、普通の人のことだ。

勉強に費やした時間だけ、結果は返ってくる。基本的に、そうなっている、と思う。

社会人になれば、違う。

自分の知識や時間を労働として提供し、その対価をもらうのだ。

対価をもらうためには、所属した会社が利益を上げねばならない。

そのためには、理不尽なことがたくさん出てくる。

努力がそのまま結果に跳ね返ってくることは非常にまれだ。

努力しないほうがいい、のではない。努力した甲斐はあるにせよ、報われることは勉強に比べれば

はるかに少なく感じられる。

努力は、報われることも、もちろんあるが、「努力が必ず報われる」とはならないのが仕事だと思う。

その理不尽さの中で、あるときには勉強より楽しく、あるときには勉強ではありえない理不尽さに

涙しながら、みんな、働いているのだ。

その空気を知っているのと知らないのとでは、差があるのが普通なのではないか、と思う。


話がずれたが、とにかく。

当然起こりうる理不尽なことを受け流すことができるのが、大人としての成熟度を測る一つの目安に

なるのではないだろうか。


私は、そう、考えている。


苛々して、周囲に当たり散らすのは、大人として成熟していないのだ。

ときどき、カっとすることは、誰にでもあるが、自業自得の苛々を周囲にぶつけるのは

頂けない。

ましてや、そんな人が上司では、部下はそれこそ理不尽に耐えねばならないのだから。


まあ、そうはいっても、どうしてもいらいらしがちなことはある。

苛々する自分に苛々していては、悪循環だ。

だからこそ、やはり、感情を制御し、苛々を流すスキルが重要になってくる。

特に、こうも暑くては、最初から不快指数が高いのだから苛々しがちなのは否めない。


そんなときは、言葉通り、一度クールダウンして、冷たい水で顔を洗ったり

冷たいものを飲んだり、ほっと、一瞬、気を抜くのが大事だ、と思っている。


クールダウンして、冷静さを取り戻したら、苛々しても仕方ない、と流すスキルが生きてくる。


願わくば、苛々しがちな中にあって、一服の清涼剤足り得るような、感情制御を身に付けた

大人として、社会にいたいものだ。


現実の私は、結構怒ってしまったり、落ち込んでしまったりしがちである。

ときには、怒ることも必要だと思っているけれど。

怒り方も、なるべく理性的に。感情に流されず。クールダウンしたまま

意見を述べられるようになりたいものである。


ああ、道のりは、遠いなあ。


暑い暑い夏の午後。

そんなことを考えながら、パソコンに向かうのも、たまには悪くないものだ。

太陽と月

太陽と月、たとえられるならどっちがいい? ブログネタ:太陽と月、たとえられるならどっちがいい? 参加中

私は 派!

本文はここから

便宜上、私は月派になっているが、本当の答えは「どちらでもない」である。
HN 月に焦がれる狼、が太陽に例えられたい、というのはおかしな話になるので
とりあえず、月派にしてみたが、別に、どちらにもたとえられたいとは思わない
というのが、本当の答えである。

太陽と、月、という対比は面白い。
因みに、太陽のような人、や、月のような人、というのは、どちらも女性を
形容する場合に使うような気がするのは気のせいだろうか?
そうでもないか。

太陽のような、月のような、という日本語なら、別にどちらも褒める
形容詞になるのかもしれないが、英語になるとちょっと違ってくる。
Sunnyなら「陽気な」だが、Lumaticなら「狂気の」になる。
月に狂う狼男を筆頭に、月は闇をつかさどり、人の心を狂わせるので
ある。
日本でも、太陽は、特に、女性を太陽に例えることには特別な意味があった
時代がある。
平塚らいてう(らいちょう)を筆頭に日本のフェミニズム運動の創始者たちにより
刊行された青鞜には「元始、女性は太陽だった」から始まる有名な一文が
掲載され、女性の地位向上、男女平等論、平和運動といった運動が始まる。
この世界をあまねく照らす天照大神は神の中でも最上位であり、女性である。
因みに、影が薄いが、月読命という月の男性神もいる。

これが、ギリシア神話になると、太陽神アポロンは男神、月の女神はアルテミスで
女性になる。日本と逆だ。

話が脱線したが、女性を太陽に例えることは、女性の地位向上の象徴であった
時代もあるわけだ。
男女雇用均等法が施行され、看護婦は看護士と名前を変えて、実際に男性も増え
男女に間に仕事で格差はなくなりつつある。女性社長や、女性管理職も
少しづつではあるが、増えてきている今からは、想像もできないほど、女性の地位が
低かった時代もあるのである。それも、そう遠くない、戦後のことだ。

私自身、フェミニズム運動とは一線を画して付き合いたいと思っているし
女性至上主義になるつもりは毛頭ない。

しかし、「女の子なんだから、おしとやかに」と言われて反発するおてんば娘がいるのと
同様に、「男なんだからしゃきっとしろ」と言われて反発したくなる草食系男子もいるのだろう
から、その意味においても、男女平等、というのは、悪いことではないと思う。
しかし、差別的な意味ではなく、個人差も含めて向く職業、向かない職業はあるだろうし
現実問題、男性のほうが筋力に優れているのは確かで、力では女性はかなわない人が
多いだろうし、どんなにがんばったところで、子供を産む力を持つのは女性だけである。
これら区別はなくならないし、それは仕方のないことだとも思う。
そもそも、染色体という遺伝子DNAからして違うのだ。同じ生き物としてみるのは
限界がある。白人も、黒人も、黄色人種も、DNAはさほど変わらないだろう。
しかし、男性ははっきりY染色体をもち、女性はX染色体を二つ持つのだ。
これほどはっきり違うのであるから、同じ種ではあるけれど、まったく同じにするには
無理がある。
多少の差異はあるが、だからこそ、わかりあえないけれど、面白いのではないだろうか。

太陽のような人、月のような人、からは外れてしまうが、
太陽は陰と陽ならば陽、月は陰。太陽は男性を表し、月は女性を表すという考え方もある。
一方、あまねく大地を照らし、恵みを与える太陽を女性になぞらえた天照大神の例もある。
どちらがどちらでも構わないが、男性と女性、太陽と月、明るくまわりを照らす存在と
やさしく夜の憩いを司る、ミステリアスな存在。
どちらも、とても、魅力的であることに間違いはない。

冒頭にも書いたが、私自身は、どちらにも当てはまらない。
Cry for Moonのまま、手に入らない存在にあこがれて吠えて足掻いている姿が
今の自分にはちょうどいい、と思っている。
なりたい自分になかなかなれず、あがいている姿そのままである。
ちょっと、いや、かなり、中二病が入っているかもしれないが。

太陽のようにも、月のようにもなれず、必死であがく自分、というのも悪くない。
そんな大層なものに例えられて、満足する自分にはなりたくない。
という青臭い心を、持ち続けていられたらいいな。と思っている。


太陽と月、たとえられるならどっちがいい?
  • 太陽

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