市にたいなら勝手に市ねばいい。それを止めようとする人は救済できるのか?
だけれどもその市にたい人の存在が頭の中に入ってきた時点でその人を救済しなければ、しないといけないのかというストレスが発生するわけで有害である。よって新たな市にたい人が発生するかもしれない。
自分に目を当てると自分は絶対弱者男性だ。そして治らない病気も複数持っている。だけれども持ちたいような物は何ももっていない。
しかし、自分は自ら市に至る行為によって問題が解決するとは思わないので市のうとは思わない。
たとえ市んでも生まれてからその市に至るまでの苦痛で溢れた記憶の過程がリセットされるわけではないのである。
市んだ時点でその状況から離脱できるし記憶を想起するための入れ物も外形も消滅するわけであるが、苦しんだ過去の自分が救済されたのかと思うと?である。
「過去の自分を供養する」という儀礼行為はナンセンス的である。しかし、自分は苦しみに溢れた空間に留まり続けて苦しみと対面し続ける方がすべてを終わらせるより意味のあることのように何故か思えるのだ。
いつか救いが来たり、悟り的な境地に必ずしも到達するというわけではない。そして死後の世界というものがあるのかと思うかというと自分は無い派だ。
結論を言うと市にたいと思ってるような状況に陥っている時点で詰んでいるということだ。おのずから市んでも問題は解決していない。自分的には何故絶望→市のうという流れになるのかも相関がないように思えるのでよくわからない。
そして、生き続けるという選択肢についてもいつか向き合ってきたことに対する回答が得られる可能性もあるが自●を考えるような人間が生き続けたところで世界は苦難で満ちているだけだ。
だけれどもそれを終わらせたところで結局何故苦しいのに自分が生まれてきたのか存在理由、宇宙の中の自分の小ささ、存在価値などの疑問は残りづけてこの世に対する未練が残るように思える。
だから市ななきゃいーじゃん!という綺麗事を言うつもりはまったくなく、何が言いたいのかというと一見自●という選択肢が残されているようにみえて選択肢は0なのだ。絶望である。
そう考えると快楽主義や破壊的衝動に向かう人もでてくるのもわかるような気がする。幸せな気持ちの物質をたくさん感じて悩みが解決した後すべてを終わらせれば今まで述べてきた問題も解決したように一見は思える。
だけれどもそのようなシステムによる救済のようなものを自分は"偽"の救済だと思う。理由は簡単で本質的には解決していないからである。
そして「子供やパートナーのために生きる」、「人に必要とされることに喜びと生きがいを感じる」というのも戯言で人間は生まれて骨となる過程に意味を無理矢理見出してるだけである。
そう考えていくと絶望は深まるばかりだ。
だけども市んでもその絶望からは逃れられない。ここが鍵だ。問題と向き合うなら生きた方がいい。市んだらなんかモヤモヤが残る。
それでもいいなら良いが自分的には相関性がまったくその行為と行為に見出せないから市ぬのは問題を終わらせたいとしても意味がわからない。
問題を棚上げするなら人のために生きて無理矢理意味を見出せた気になって自分を嘘で固めよう。
終わってる。終わらないが。
