サブカル系の影響を受けすぎて、毎朝わざわざ「死にたい。」とツイートしてるひとに「うるせぇ、死ね。」っていうと「お前が死ねよ。」と言われる現象はなんなんですか?死にたくないなら「死にたくない。」とツイートしてくれ。というか、死の概念はそんなに承認欲求程度で語っていいモノではないでしょ。
あとそういうひとたちが「ガロ系」や「ねじ式」を知らないのマジでなんなの?大森靖子や神聖かまってちゃんがサブカルだと思ってます?お前はサブカルですらない、感受性が少し高いだけの一般人ですよ。わかったら、さっさとソラニンに憧れてバンド組んだあとにライブもせずにしょうもない恋愛にうつつを抜かせ。バッカスの初心者用のテレキャスを買ってインテリアにしろ。不本意な顔して小さな恋のうたのギターをコピーして寝ろ。
そういえば、好きな女の子のタイプを言語化するゲームをしていたのですが、高校のときのお友だちから「お前はいまもあのときの〇〇〇ちゃんみたいな系統の子しか好きになっていない。いまはそこに少しだけ地雷要素が合わさっただけ。」と言われて号泣しました。確かに指摘されて気づいたけど、わたしの理想って12年前くらいから変わってない気がする。要するに、一目惚れの記憶とか体験がそのまま好きな要素になっているということで、このことは秘密にしておこうと思います。
基本的にクソどうでもいいな、と思うことでも1mmくらいの同情や何かしらの起伏があると「全然好き」に変わる瞬間があるんですよね。これを世間では「天邪鬼」と表現するんですけど、本当にやめて欲しいわたしが。心境としては根底に「好き」はあれど、それらに付帯するコンテンツが「どうでもいい」という構造になっていると思うんです。だから、視点や距離感を変えると一方では「好き」、他方では「どうでもいい」が存在するんです。観測するまでは事象の結果が同時に存在するというのはおかしい、という視点から「シュレディンガーの斜構」と命名します。
最近政治に関心があるのでいろいろ調べたりしているのですが、ことYouTubeを見ているとアルゴリズム的にフィフィが無限に出てくるショートの構造が完成されてしまった。寝起きでYouTube開いたときに干からびたラクダを見なきゃいけないわたしの気持ちも考えて欲しい。海外出身のタレントに「日本は日本人ファーストであるべきだ」と主張されるのはなんかすごい時代だと思う。あまりに当然だけど、それを理解できない人間が一定数存在することはかなりやばいと思う。
昨今の日本社会では、自国の民族のために活動をすると何故か批判の的にされるケースがある。よく叫ばれる多様性とは、許容して認めることではなく、本質的に選択肢を持つ、ということではないだろうか。そもそも「許容してあげる」という立場、かなり対等ではない気がするのはわたしだけですか?
話は逸れるけど、同様に「可哀想」って概念もかなり上から見下ろす概念だとわたしは思ってしまう。アフリカの現状をみてどう思いますか?、という質問に「かわいそうだと思います」と回答しないと形式的にバツになるような道徳観にかなり不快感を覚えます。だから、わたしは当時から「仕方ない」という価値観で「天邪鬼」の市民権を得てきました。
だって、わたしがガオレンジャーになりたい年頃から無限に経済支援をしてきて、何億何兆という資本投資をしているのにも関わらず、アフリカは豊かになったかと言われたらかなり怪しい。(部分的には発展しているとは思います。)何十年に渡って支援をしてきて想定される成長が出来ないまたは見込めないというのは、もはや経済支援が要因ではなく、そこに根付く土着的な文化や価値観が資本主義に沿わない、ということではないだろうか。それを「可哀想」と形容することのなんと盲目なことか。こうしてみると結果論ではあるけれど、それらはもはや必然的であって「そんなの当たり前、仕方ないじゃん」と思うのがそこそこ適切だと思ってしまう。
これが義務教育の敗北です、ざまあみろ。
び(17)