考えるというのがどれだけ厭なこと辛いことであるかというのを私はしばしば考える。人の思考がずっと鈍化し、社会が原始のように微小な集団に還元されれば人はどれだけ幸せであろうか。
人はしばしば私に頭がいいと言った。人はどれだけその言葉の重みを知っているだろう。私はその言葉を受けて今も自分で自分が頭がいいと考えてしまっている。こう考えている時点で私は頭が悪い人間なのであるというのはまさに明らかである。自分は頭が悪いとわかっていながら頭の三分の一くらいは自分が頭がいいという観念で埋まっている。もはや強迫観念である。
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私は神がいないとわかっていながら、しばしば天罰や天祐(天の祝福という意味らしい。天罰の対義語だ)というものを信じている(信じてしまう、いや恐れているという言い方が最も適切であろう)し、運命(これは私の文脈では世界の未来が既にすべて決まっているということを指している)なんてものが存在しないなどと信じていながら、いや信じているからこそであるか、あのときこうしていれば(これは努力とかではない。あのとき道に落ちていたチェーンを拾ってうちに持ち帰っていなければ……というたぐいのものである)今は違ったかもしれないという象徴的なターニングポイントを、人生を送っている瞬間に作り、後で思い返している。
神はいない。当たり前のことである。しかしこう書いているあいだ、私は神を冒涜した罪でのちに天罰を受けるのではないかと恐れている。さきほど「頭がいい」という言葉の作る強迫観念について述べたばかりであるが、この「神さまが見ている」という言葉の作る強迫観念というのも、俺に死ぬまでつきまとうまさに呪いのようである。もしも俺が文系であれば、あるいは俺があほであれば、あるいは俺がヨーロッパのクリスチャンの家に生まれていれば、あるいは俺がチンパンジーとして生をうけていれば、この呪いは存在しなかったかもしれないと私は思う。しかしこれらの選択肢は正直今の私の望むものではない。俺は、とりあえず今はこのままでいるのがいちばんよいとおもっている。
そういえば最近よく考えるのだが、悪いことしたやつが死後罰せられるのならば、生きている間に天罰が落ちる必要はないはずであるし、生前の刑罰は無用であるはずである。あるいは天罰や刑罰を食らった人間は死後の刑が弱められるべきである。
というか死後罰せられても魂にその記憶がなくなってしまっては転生してもまた悪いことをしてしまうだろう。地獄というのは何の意味があるのだろう。或いは地獄に落ちた魂は二度と転生することがないのだろうか……
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先日浪人が決まった。本当に人生のクソである。あーあ。
母が金(300万かかる。)の心配をしてばかりいる。金の話をするときの母の顔は曇り放しである。「300万っていったら一生の学費だよ!?」と言う。たいへん申し訳なかったと思う。これはけっしてわたくしの嫌味ではない。わたくしの本心である。
俺の勉強って何だったんだろうか…
普通に高校のいっさいのくびきから解放されたいっていうか早く**いって誰も俺のことを知らない場所で親に必要以上の出費をさせず親や祖父母ときちんと時間を共有しきちんと孝行して不安にさせることもなく親不孝で自分が後悔することもなく新しい仲間とともに新しい自分で新しい生活をしたい…
しかしやはり両親や祖母(と犬)と時間を共有できた(できている)というのはとてもありがたかった。両親と祖母には感謝である。いま一緒に過ごしたおかげであと心配なことは介護と葬式と墓だけである。
そういえば先輩に「報われるのが今ではなかっただけだ」と言われたのは大変救われた。
しかし、自分のことを救えるのは自分しかいないと自分でわかっていたのに先輩に助けを求めるようなメールを送ったのは非常に申し訳のないことだった。結果的には先輩に救われたのだが……自分のことを救えるのは自分しかいないとわかったからこそ私は以前の彼女を振ったのであった。自分に自信があればこそ人に依存する。人との距離感をとれるようになるのも自分に自信があって初めてである。
しかしふたたび私は依存への道を歩き始めていると先輩との一件で私は知覚した。
とりあえず、いままでのようにLINEの返信をずっと遅らせて(未読スルー/既読スルーというやつだ)、模範的な回答を考えて、先輩との距離があまり近くならないようにしようと思う。間違っても先輩に童貞的に恋しないように。