「名も無い日」
監督 日比遊一
主演 永瀬正敏(長男)
オダギリジョー(次男)
金子ノブアキ(三男)
本作の監督でありカメラマンである日比遊一の自伝的映画。
作品中の主人公の実家も監督自身の実家。
次男 章人(オダギリジョー)の訃報を受け、カメラマンの長男 達也(永瀬正敏)がニューヨークから生まれ故郷の名古屋に帰国する。
次男は精神を病んだ上での孤独死であり、事故なのか、自殺なのか、その死因も命日もわからない。命日がない=名も無い日?
監督が原作から撮影まで一人のせいか、説明不足で人物の相関図がわからず。
主人公が無口すぎて?またはカメラマンの特性か、心情がセリフでなく、場面で表現される。
同じ場所でも現在の場面(荒廃している)、過去の場面(穏やかな日常がある)が交互に差し込まれる。
その分、想像力は刺激されるが。
さすがに撮影力は圧倒的で、場面、場面は辛いシーンですら美しく、見応えがあった。
名古屋の熱田神宮のお祭り(尚武祭)の白い提灯は幻想的で美しい。
兄弟3人での買い物の楽しい思い出(お箸と箸置きを買う)が回想される。
そして独りっきりの食卓でみんなのお箸と箸置きを並べる章人。
思い出の中に生きている章人が悲しい。
次男の死を受け止めることができず、彷徨う達也。
答えのひとつが三人の祖母(草村礼子)に語らせた
「あっくんの真実はあっくんにしかわからない」
そして息子を亡くした母 木内みどりに語らせた
「前に進まないと」
監督の個人的な体験を描いているだけに未だ、監督の中で消化しきれていないのだろうか。
章人からの手紙など、内容には触れることなく、もどかしさが残るところもあった。
普通の映画だったら、章人からの説明的な手紙を読んで、泣きのシーン(役柄的にはカメラのシャッターを切って)でエンド(ありきたりですか?)
ただ現実には遺された人々は自問と後悔を抱え続けながら、生きていく。
そこに少しでも光がありますように。
遺された人々の喪と再生の映画でした。
脇に
真木よう子
今井美樹
木内みどり(亡くなられています。撮影自体は3年前でした、合掌)