257.本音の嘘
親友とも連絡を取らずに、ほぼ塞ぎ込んでいる状態の日々が続いた。
今思えば、親友がいたからこそ外に向いていた気持ちかもしれない。
唯一、私が出向く場所と言えば、週に1度の英会話。
店員とのやり取りさえもビクビクと怯えを隠せず、買い物をすることもなく私は家と英会話教室の往復を繰り返していた。
そんなある日の英会話の授業。
いつものように講師と会話を重ねる授業というよりおしゃべり。
英語だと不思議に話せた。
楽しかった。
なのに、一瞬にしてそれを講師が裂く。
「もっと早く話せませんか?」
講師が私のとろい話し方にダメ出しをする。
「元々、日本語でもとろいんです…」
「あと、もう少しスピードアップで上手くなれます」
何だかズキズキと胸をさす。
よく分らない胸の痛み。
「それともう一つ。あなた、感情ないです。人形みたいです」
この日から、私は一度も英会話には行かなかった。
そして、完全な引きこもり生活が始まる。
どのくらい経っただろうか。
6月ももう終わろりかけている。
経つ日を数えることもせず過ごした私に6月の終わりを知らせたのは、突然鳴り出した携帯。
親友からだった。
「どう?」
「最低かも」
「そっか…」
「そっちは?」
「似たようなもんかな」
言葉少なく、間を繋ぐ。
「また浮気?」
「え?!」
「どうせ、女遊びやろ!」
「ま、まぁね…」
私たちの恋愛話に浮気は避けられない。
物心ついた私たちの恋愛に浮気がなかった事はない。
「よ~飽きもせずにやるわ」
「飽きるからやるんじゃない」
「暇つぶしなら、それはそれでいいんじゃない?」
「ホンマに、それならいいやと思える事が怖いわ」
「で、ご本人は今どちらに?」
「さぁ?女のところじゃないのー」
「えらい今日は冷静やな」
「もうえぇわと思って…」
「それは、別れの決意?!」
「怒ったら何て言いよったと思う?」
「逆切れか!」
「『俺は彼女にした覚えはない』やって」
「あはは、言いそう!子供みたい」
「せのり、今どんな気分?」
「…それでもしがみ付いて居たいかな、今は」
「そっか…うち、別れたら泣くかな?」
「悲しくないん?」
「何か今なら楽に別れられるような気がしてる」
「麻痺してるだけなんじゃないの?」
「あぁー、殺したい」
「また物騒なこと言い出したよ!この子」
「あかん、殺したら犯罪やから消えろ!」
「それ、一番えぇよな」
「そう、目の前から消えてくれたら仕方ない思える」
「てか、記憶から消えてくれたら幸せやな~」
「恋愛したことも存在すらも抹消できたらな」
「てか、相手の女からも記憶消したいな」
心無く、言葉だけが飛び交っていた。
消えろ…その言葉だけが妙に重くのしかかって。
「お願いやから消えてくれ!」
怒りという感情を乗せることで晴れる心もあるかもしれない。
「女がおるのに、別の女と会うとか意味わからん」
「女おるんやから、別の女を好きになるとか意味わからん」
「てか、話すくらいどってことないけど、好きになるほど話し込むなっちゅ~ねん!」
「そんな時間あるねんたら、もっと会えよ」
「何で放ったらかしやねん」
「てか、ホンマ消えてくれ!」
「ウチらの何があかんっていうん?」
「な~んもしてないで」
「何が足らん?」
「ぶっちゃけ、ウチらモテるやん!」
「何で選んだ男はあんなんなん!」
「消えろ!頼むから消えてくれ」
「繰り返し繰り返し繰り返し」
「今度こそって…何度思った?!」
「どうせ、不っっっ細工な女なんやろうな!」
「振られろ!今すぐ振られろ」
「ほんで、戻ってきたらえぇねん」
「ウチらみたいなえぇ女おらんで!」
「ほんま、意味わからん」
「振られる理由がわからん」
「愛が冷めた…」
「何それっ!何それっ!知ってる?」
「さぁ?冷めるって何?!」
「冷めたことなんて一度だってないよ」
「しゃ~なしに諦めて、やっとでつかむ恋がこれ?!」
「あれ?もしかして始めから愛されてない?」
「ありえる」
「愛された~い」
「てか、ホンマ消えろ!」
「記憶のソコから消えろ」
「…もうどうでもいいや」
「所詮!所詮!」
「あいつらパセリや」
「これからパセリ見るような目でみたろ」
「パセリって呼ぼう!」
「そろそろ寝るか!」
時に、本音が嘘であることもある。
「せのり、結構元気っぽいな」
「元気になった、が正しいかな」
「まだ、連絡まってるん?」
「うん、一生消えることはないからね」
「そやね、目の前に在るものやからね」
「確かなものやから、今はさ」
「連絡あったらどうするん?」
「嘘のない本音を話したい」
「私が聞いてやれたら、せのりも次の恋ができるんかな?」
「何となく、話したいとは思ってるけど自分の問題のような気もする」
「そろそろ出て来れそう?」
「ノリでね…」
「そうノリで」
「イェ~イってノリが出せたら引き止めるものもなかったのかも」
「深い付き合いなら出んくても分るよ」
「そう?」
「ウチを誰やと思ってんのさ」
「考えとく」
言葉を並べ、感情を乗せる。
私たちの言葉は、本音のような嘘だった。
もしかしたら、嘘のような本音だったかもしれない。
「ウチ、今何考えてると思う?」
「考えてるようで何も考えてない」
「…正解」
何で分ったのかなんてことは聞かなかった。
私は感情なんて伝えられない人間なんだ、と考えていたところだから。
もう伝えることにも疲れた。
言わなきゃ伝わらない。
言っても伝わらない。
だったら、嘘で演じよう…。
少なくないでしょ、世の中そんな人間ばかりだから。
もう少し場繋ぎをば…
10月から更新するとか言っちゃってたので、管理画面とにらめっこ中です。
で、久々とあって何も言葉が浮かばないので、またダラダラ日記記事にしようって事で…すみません。
- ジェネオン エンタテインメント
- トレインスポッティング 特別編
言うても書くことがないんですが、ちょこっと部屋で目についた映画の話なんてしてみようかなと…。
実は、映画ってそんなに興味がありません。
映画というものは誘われて観るものという変な偏見があって、他人の価値観を映画によって盗み見るものなのだと思っています。
何を感じるかただそれだけの切っ掛けに過ぎず、映画を娯楽にはしてきませんでした。
『トレインスポッティング』
初めてみたのは高校生の頃だったと記憶しています。
動機はとても不純です。
当時、キムタクが某雑誌のインタビューで最近見た映画は?という質問に対し、この映画を「ヤバかった」とコメントしていたことが切っ掛けでした。
否、少し違っていました。
その雑誌を読んだ後、レンタルビデオ屋へ向かったのですが、ビデオレンタルがなく、初めてこれにふれたのは、日本和訳された小説でした。
それから、数ヵ月後くらいたってビデオ店の隅で見つけ見たのが最初でした。
映画の冒頭から衝撃でした。
人の心の穴を突くような言葉が冒頭で投げかけられるわけです。
*冒頭シーンをYouTubeで見つけました。(和訳なし)
http://www.youtube.com/watch?v=JpejbWOWvBU
そして絶頂から始まるこの映画は、絶望へと転落していく。
否、絶頂はまやかし…。
絶望感を感じつつもどこかでそれを否定しているかのようで、だけどやっぱり抜け出したいという思い…。
絶望感を絶頂にかえるのは、ドラック。
どんな悲しみもドラックさえあれば紛れた。
どんな孤独もドラックさえあれば感じない。
これでいいじゃないか…良くはない…葛藤。
映画の中でこんなセリフがある「ビタミン剤が犯罪だったのならやっていた」。
私がこの映画からもらった言葉は「選択」だ。
自分が何を選ぶのかということ。
選ばされているんじゃない、選ぶんだということ。
普通へのこだわりを捨て、普通を選択する自信だ。
人生を考えた時、これでいいのかと立ち止まる。
時に寄り道をし遠回りをする。
良いとわかっていても反発したくなる時もある。
私は、この映画のDVDを購入しました。
もう数え切れないほどみています。
それは、私が立ち止まった数でもあるのですけどね…。
最後に見たのは、つい最近です。
その時は立ち止まったからではなかった。
流れゆく時を止めたかったのかもしれない。
確信した。
私にはまだ未来を選択できない。
追記
今、何気にカウンタを見て驚き!20万超えてました。いつも本当にありがとうございます。
本編もう少し先延ばしです
本編はもう少しお休みします。
数ヶ月も間が開いてしまうと、人の興味は徐々に薄れてゆくとは分かっていても、なかなか手をつけられない状況下にいます。
それでも毎日100人前後の人が訪れてくれていて感謝しております。
ほんと、更新はいつになるかもわからないので、出来ればRSSリーダーなんかを利用してくださいね。
ではでは、私の今現在を少しばかし記事にしてみます。
ただの日記です。
本編では、彼と再会して半年くらいたってから仕事をやめています。
それから現在までずっと家事専門でした。
周りはいいます「家事も立派な仕事だ」と。
ですが、自分はどこか社会からはみ出ているような気になるんですよね。
そこに拘りを隠せず自らニートを名乗ることでどこか救われる気がする。
立派なんかじゃない!ダメ人間なんだって…誰もケツを叩いてくれる人がいないから。
いくつか面接などを受けましたが、やる気のなさが伝わったのかすべて落とされました。
どこかでホッとしている自分もいたりして、働きたいのか働きたくないのかよくわかりません。
相変わらず周りは「無理をしなくてもいい」といいます。
私が外に出ることは無理なのかと問いたくなる。
社会に不適合な人間なのかと問いたくなる。
自分にはなにができるだろう。
自分はなにがしたいのだろう。
沢山考えた数ヶ月でした。
実は、先々月末から仕事を始めました。
動き出したのは先々月の頭で、1ヶ月経ってやっと仕事にありつけたという感じです。
職種は自称ライター。
ライターにも色々種類はあって、する仕事内容も違いまよね。
私がやっているのは、web上の書き物です。
webライターなんて名乗っている人もチラホラ見かけたりしましたが、多分それに属していると思います。
初めて与えられた仕事はコラムでした。
5本書かせていただいて、先日web上にアップされました。
何だか小っ恥ずかしさと嬉しさで気が狂いそうでした。
納期に追われたり、ダメ出しされたりと大変なこともあったけれど、形になったときの充実感は爽快でしたね。
そのコラムが終わって少ししてから、新しい依頼を受け今に至るわけですが…。
もう、いっぱいいっぱいです。
というより、許容範囲超えてますね、多分。
原稿2回分ほど遅れを取っているんですが…ブログ書いてる場合じゃないんですよね、実は。
1日1・2時間できれば~って話だったんですが、とんでもないです。
1日15・6時間くらいやってます。
毎日、毎日パソコンの前に座って、おケツが痛いです、泣きそうです。
それでも遅れてますからね…。
ま、そんなわけで、ブログが書けませんって話なんですが…詰まらない記事ですね。
日記…ですからね…フリも落ちもありませんよ…。
考える余裕なしです。
実は、本編の8割くらい哲学や精神学をやんわり織り交ぜたりなんかしてるわけなんですよ。
「これって有名な哲学ですよね」って、めっちゃ哲学に詳しい人なんかに指摘されると恥ずかしい粗末なものですけど、何か感じ取ってもらえていたら嬉しい限りです。
今回の記事にそんなもんは一切含まれてませんし、そんな難しいこと考えている余裕はないです。
今もどう締めようかと考えていますが、ダラダラダラダラ…。
そうそう、友達に仕事を始めたことを伝えたんですよ。
その時の会話をこの記事の締めにしたいと思います。
「へ~、あんたらしい仕事選んだな~。向いてるんじゃないの?!」
「う~ん、向いてんのかな?」
「何で~さ~、知識も豊富やし文章書くのも、まぁウチよりは全然上手いやん」
「ウチ、ちょっとやってみて判ってんけどさ~、ウチには無理があるかもしれん」
「そう?」
「少なくとも自分がやってるブログの数十倍の人の目に触れるわけやん」
「そうやな~」
「誰かの為に文章を書いて、それが一人でも多くなくちゃいかん」
「まぁね」
「世間が求めている事を文字にするわけ」
「ふむ…」
「世間が欲しがってる知識が必要なわけ」
「ふむ…」
「世間が…ね!」
「…あんた…ニートやん!!!」
ニートがライターになると、結構つらいです。
自分の世間知らずっぷりを身に染みて感じた1ヶ月。
「なぁ、今、世間ってどんな感じ?」
「結構適当」
「やったらチョロイかもな」
「だからこそ難しいんやん!何にも興味を示さない…」
友達からみた世間はこう見えているようです。
私からみた世間は、早すぎて見えません。
もう少しのんびりいきたいものです(更新が出来ない言い訳じゃないですよ)。
【ネタバレ御免】ゲド戦記を見てきました
本編更新を前に、ワンクッションおいてブログ記事でも上げてみようかと思い、ゲド戦記を見てきたこともあり、感想なんぞ書いてみようかなとキーボードを打っております。
ジブリ作品は大好きで、ほぼ観ているのではないでしょうか。
観た作品に関しては、1回にとどまらず何度も観ている作品ばかりです。
何度も観る、観るたび変わると言うのがジブリの魅力じゃないかな、なんて勝手に思っている次第です。
私よりも先に、ゲド戦記を観た従姉妹から「意味が解らなかった」と報告を受けます。
この子もジブリが好きなので、その言葉を聞いてかなり観る前からテンションは下がり気味。
で、観た感想はというと、「もう、いらないかな…」でした。
先に言っておきますが、私は原作を一切しりません。
親友と観にいったわけですが、予告上映が終わったあと、一呼吸おいて始まったゲド戦記。
「ねぇ!ねぇ!これ、もう始まってるの?」
開始5分ほどして、親友にそう聞かれました。
親友を疑わせたのは、映像の荒さ。
世界名作劇場って昔アニメでありましたが、そのくらいの勢いでした。
ジブリと言えば、名前さえない脇役にも個性があると言われるほど細かく、葉っぱ一枚生きているほどに描かれているものというのが、私の印象なのですが…。
静止画に近かったです。
かと思えば、主人公の顔の表情だけには力が変に入っていて、怖い。
途中主人公をみていて「AKIRA」を思い出してしまいました。
所々に手抜きか?!と思わせる作り…。
街並みなんかはジブリっぽさが出てましたけどね。
主人公が父親から奪い取った剣が、何故か男性の急所に見えてきて笑いを堪えるのに必死でした。
クライマックスでの、空と海(?)は、流石に「おっ!」と思うような綺麗はありましたけどね…なんだか残念な気分になりました。
ダラダラと進むストーリー、戦記と名をうつ割にマッタリとしすぎています。
何が始まるのかわからず(原作を知らないせいか?)の前半を終え、テレビCMでもおなじみの少女が草原で主題歌をフルコーラス歌いきる。
後ろに座っていた子供が「ママ~歌ってもいい?」って言っちゃうくらいの、歌いきりっぷりでした。
この時点で、ストーリー的にはさっぱりでした。
主人公が父親を殺して影に追われていること、ゲドの旅が何なのか、竜の存在などなど…。
ここから戦記?らしくなってくるわけですが、ふと横を見ると親友は熟睡しておりました。
肘掛から肘を滑らせ、ガク~ンなってました。
映画が終わって親友が言った言葉は「前フリ長っ!!」でした。
映画が終わってエンドロールがながれる頃、「意味が解らない」と思ったのは言うまでもない。
何が伝えたかったんだろうってのは、ジブリに対しては似合わない疑問だと私は思っている。
自分で意味を見つけ出すことこそジブリだと思っているが、映画を見終えて感想がなかったことに驚いた。
親友と話すことでジワジワとやっとで持つことの出来た感想。
以下、映画を見終えて親友と話したものです。
「主題歌歌ってるところから寝てもうて、起きたらクモが出てきてて、何であぁなったのか解らんねんけど」
「あぁ、多分寝てなくても解らんのとちゃうかな…」
「結局、影ってなんやったん?」
「主題歌の歌詞って知ってる?」
「心を何にたとえよう~やろ」
「つまりそういう事なんじゃないのかな~と…」
「孤独…?」
「…うん、とすると、映画の中盤でフルコーラス歌った説明がつく」
「あぁ、世界観と少年の心理描写ってとこか~」
「なんとなくやけど」
「友達があれは、尺足りんからフルコーラス歌ったんやで~言うとったで」
「あはは、かもな!でも、逆ちゃうんかな?あれなかったら影の意味が全く理解不能や」
「そう言われてみればそうかもな」
「そう、そう言ってしまえばそう!な~んか、主人公見ててグレた一番下の弟思い出したわ」
「親への反抗?!」
「何でそんなことするの!って怒った時に『別に~』で応えるような抜け殻の若者」
「『別に~』って言うやつには、多分この映画見ても『別に~』なんやろうな」
「んま、ウチも『別に~』やけどな」
「ウチも!」
「この世に生かされた命でいつかは逝くわけで、孤独を感じつつそれでも他人と向き合って生きていく意味って哲学じゃん。意味が解らなかったこそ、この映画のテーマでOKなんじゃない?考えるか考えないかは個人の自由っつ~ことで」
「ふむ…」
「当たり前のことを当たり前に片付ける人間なんてショボイよ」
「まったくやな!」
「命を大切になんて当たり前じゃん!って思った奴とは、ウチ多分仲良くはならんわ」
「こんな『別に~』の映画でぶっちゃけここまで話掘り下げれてることに吃驚してる」
「ジブリはナンダカンダでいいねぇ~、意味探し」
「てか、ゲド戦記はその意味を探すヒントさえ見当たらんのやけど…」
「ウチ、ちょっと思ったけど、ゲド戦記の原作云々はおいて置いて、伝えたいことなら『ハウルの動く城』と『千と千尋の神隠し』観てる方が解りやすいんちゃうかな?」
「なんで?」
「心の闇と真の名ってのは、ハウルと千に出てきたキーワードやからね」
「確かに!」
「光と影、本当の自分ってのは忘れちゃいけない大切なものってことやね」
「でもさ、やっぱり生きる事を放棄して行き続けるときもあるよね…」
「常に一生懸命ではいられんよ…」
「心、何に例える?」
「考えただけで孤独を感じるわ」
「でもさ…そんな孤独な心で人を愛するんやね…」
「くっさいこと言うな~」
「でも、主人公を救ったのは愛やと思うけどな~」
「そうそう、ジブリお得意の自己犠牲でね」
「あんたが言うと重いな~、自己犠牲って」
「自暴自棄になりやすい奴が言うセリフじゃないな」
「そうそう、強く清い人間が言うて初めて素敵な言葉になるもんや!」
「その強さは…」
「はぃはぃ、もうえぇよあんたが哲学語りだしたら長い!」
ということで、話は脱線してゆきましたとさ。
まとめるのが面倒だったので、ダラダラと会話形式で書いてみました。
さて、ゲド戦記を観て何か感じられましたか?
- 寺嶋民哉, カルロス・ヌニェス
- ゲド戦記・オリジナルサウンドトラック
256.心の傷
一人考え込む日が続いている。
四六時中。
暇さえあれば、考えた。
夢中になれることがないという事が、私に考える余地を与える。
気づけばほおづえをついている。
鼻から音が耳に伝わるほどの息が漏れている。
思考と行動はバラバラだ。
そう思いながらも、体はピクリとも動かず、私は自分を観察している。
目で見るものに対し、私は何を見ているのだろうかと考えてみる。
視界には携帯が微かにぼんやり見える。
多分、私は携帯など見ようとはしていない。
何故人は去っていくのだろうか。
そう思ったとき、母親の顔が浮かんだ。
彼のことを考えているのに何故母親なのだ。
大きく息を吸い込みかき消そうとした。
大嫌いだ。
感情が暴走を始めている。
大嫌いだなんて嘘、私はそんなこと微塵にも思ってはいない。
そう思う私が、唇を噛んでいるのにまた気づく。
ゆっくり噛む力を緩めた。
考えちゃだめだ、良からぬ事を考えてしまう。
良からぬ事?どちらが?暴走する感情?それとも、否定する私か?
また、定まらぬ視線で考え込んでいる自分に気づき。
誰にアピールするわけでもなく、今まで何も考えてはいませんでしたよと言わんばかりに、そうっとそうっと徐々に体を動かす。
電車の中で居眠りをしてカクンッとなってしまったサラリーマンのように。
人には多分、心にその場その場に対しての免疫があると思うのだ。
心が傷つかない免疫。
だからこそ、人はその時その時に判断を下す事ができる。
イチイチ動く心に対処し傷ついていたら、何もできはしない。
例えば、嫌な事を言われたとして、チクリと胸が痛んだとしても泣く・怒る・改めるなどなど人は傷つかない選択をする。
それでも傷ついていることに変わりはないと思うかもしれないが、私の思う「傷つく」とはもしかしたら違っているのかもしれない。
嫌な思いをすること胸が痛むことと、心の傷とは私は違うと思っている。
それは、私個人の痛みの判別なのだけど、心が感じる痛みが違う。
私が言う傷は、残る。
ずっとそこにある。
ふと思う、私は心の免疫があったにも関らず、いつ傷ついたのだろうかと。
頭の中には、母親が消えずずっととどまり続けている。
あの人は今いったいどんな生活をしているのだろうか。
生きているんだろうか。
何年も連絡をよこさず、それでも母親なのだろうか。
もしかしたら再婚しているかもしれない。
もし、今連絡があったとしても、困るんだろうな。
母親って何だろう?
私はあの人に対して、何を求めたらいいんだろうか。
離婚しても母親は母親…だったら、私はあの人にどんな風に接すればいいんだろうか。
今、連絡があったとしてもお隣のおばさんにしか思えない。
母親が母親だったころ、私はどんなだったっけな。
思い出される母親はとても怖かった。
何度も殴られた、家の柱に縛られた、押入れに閉じ込められてそこで食事を取ったこともあった、冬の寒い日にパンツ一枚裸足で玄関に放り出され締め出された事もあった、包丁を突きつけられたこともある。
だけど、思い出される母親の顔はとても笑顔だ、笑っている。
どんな怖い顔をして怒っていたかなんて覚えてはいない。
中学生の頃まで続いてていたそれを、私は思い出せない。
思い出す母の笑顔は、いったいいつのものだろうか。
いつ何処で何をした時の母の笑顔か判らない。
ただ、顔のアップだけを映した写真のようにいくつもの笑顔を思い出すことができる。
怖かったな、何故こんなにもヒステリックになるのだろうかと不思議でしかたなかった。
幼かった頃、母親には悪魔が取り付いているのかもしれないと本気で思っていたこともあった。
当時、テレビでやっていたアニメのセリフを心の中で唱えたりした。
「エロイムエッサイム、エロイムエッサイム」
それが、悪魔祓いの呪文だったかは定かではない。
子供心に何となく善くなるような気がしていただけだ。
そういえば、あの頃どんな嫌な事があったって傷つくような事はなかった。
悪い子だと言われても、良い子になれるのだと信じて疑わなかったし、アホだとかうっとおしいなどと罵られようが、ショックだった事は確かだが次の日には母を求めていたように思う。
「お母さん、お母さん…」
何を求めてたっけな…思い出せないや。
胸の痛みに我に返る。
どれくらい母親のことを考えていただろうか。
あの頃は感じなかった胸の痛みが、今私の心にある。
私は側にあったクッションをイジイジと弄り倒していたようだ。
クッションはよれ、しわくちゃになっている。
何故人は去っていくのだろうか。
不意にまたそこに戻る。
断片的な感情は私を困らせた。
否、判らないフリをしているだけなのかもしれない。
認める認めないとかじゃない。
もう終わってしまうからなのかもしれない。
心の傷が消える瞬間。
彼が終わりにしようとした日を思い出す。
騒ぐほど私は傷つかなかった。
そもそも彼は傷つけるような事など一つもしていない。
ただ、恋が終わった、それだけの事。
泣いて、叫んで、あと何をしたっけな、それでもスッキリしなくてまた泣いてみた。
色々考えて、自分が可哀想だと思った。
過去を穿り返して、また同じだったと可哀想に思う。
胸が痛かった。
その痛みは今も私の中にある。
傷つけたのは自分だったのかもしれない。
私は確かに傷つかないように試みた。
だけど、傷つかないと心が忘れてしまうから…。
心は何度だって傷つける事ができた。
そういえば、そんな思い出が凶器となる。
また母親の笑顔を思い出した。
何故今までこんな事を忘れていたのかな。
母親が私に言った。
「せのちゃん、一緒に死のうか?」
私は母に「嫌だ」と言った。
その時の母の笑顔はを永遠だと思ったんだ。
その笑顔が今私の心を傷つける。
もう終わってしまった戻らないものだということ。
傷ついた心は時が癒してくれるという。
傷ついた心を癒す人が現れるという。
自分の胸の痛みを感じて、それは違うかもしれないなと思う。
だって、私が凶器を握らなければ今すぐにだって終わってしまうものだから。
心を傷つけるか傷つけないかは、私が選ぶ。
あの頃を思い出して、可哀想だと自分に同情するのだ。
傷をつけ癒してもらうために…。
その相手は他の誰かじゃ意味のないことで、心の傷はもしかしたら誰かを思い自分の為にあるのかもしれない。
私は思う、傷を大切にしたいと。
ただ、心に刺さったままのナイフもある。
彼が一度抜いてもう一度刺した。
私にはそれが抜けない。
触るだけでも痛い。
多分、このままの状態が一番いいと思う。
これだけは、何故あるのかさえも意味がわからない。
抜いて欲しいと思う。
ナイフを抜いて、穴を埋められる男はまだ現れてはいない。