こんにちは、ちえママです。

 

先日 浜松町の彼

 

時間は過去から現在に流れて…いない!? 物理学者の明快解説!

 

なぜ私達は過去と未来を感じられるのか

 

解説  物理学者 松浦 壮

 

時間は過去から現在に流れている。時間は逆行しない。驚くべきことに、これらの常識が、物理学では通用しない。物理学の世界では、時間の逆行を禁止していないのだ。
なぜ私たちは、物理法則によって決まっていないはずの「時間の方向」を感じるのか? この疑問は、時間とはなんだろうを上梓した物理学者の松浦壮氏が本の中で明快に解説している。今回、松浦氏が、そのエッセンスを改めてわかりやすくまとめて、この疑問に数式を使わずに答えてくれた。

本当に、時間は戻らない…のか?

私たちが思い描いている時間には、ひとつの大きな特徴があります。  

時間は逆行できない。

ある意味、これこそが時間の一番印象深い特徴かも知れません。本記事ではこの性質について考えてみたいと思います。

この特徴の原点は、身の周りの出来事が持つ「一度起こったことは取り返しがつかない」という特性にあります。その原因を時間の性質に求めているわけです。

実際、現実に起こる運動には間違いなく方向があります。地面を転がるボールは摩擦のためにスピードを落として止まりますが、止まっていたボールが摩擦によって動き出すことはありません。人は年と共に老いますが、年と共に若返って子供に戻る人はいません。

これを最もシンプルに説明する方法は、「時間が進む方向はもともと定まっているのだ」と仮定することです。これは、常識に合致するシンプルかつ効果的な仮定なので、誰もが直感的に正しいと思うはずです。

 

物理学の世界では「時間は巻き戻せる」!

どうか驚かないで下さい。この直感に反して、ニュートンの運動法則や、有名な相対性理論や量子力学、場の量子論も、時間の逆行を禁止しません。

時間を反転させるということは、「t」という時間パラメータを「−t」に置き換えることに相当します。実際、「t」が−10から+10まで増えるとき(現在の10秒前から、10秒後に進むとき)に、「−t」は+10から−10まで減る(現在の10秒後から、10秒前まで戻る)ので、この操作は時間を反転させています。

ところが、この操作を施しても運動法則の形は変わらないのです。ということは、もしある運動が運動法則通りに起きたとしたら、それを時間反転させた運動もまた、同じ運動法則の下で許される運動ということです。以下で具体的に説明します。

 

「巻き戻し」は映像の「逆再生」と同じ

たとえば、重力が働いているときのボールの運動を運動法則に基づいて解析すると、「加速しながら下向きに移動する」という答えと「減速しながら上向きに移動する」という答えを同時に返します。前者は「自由落下」を表し、後者は「投げ上げ」を表しているのですが、これらは運動が始まった時点でのボールの速度の向きが違うだけで、どちらも現実に起こり得ます。

そしてこれらは、互いに「時間反転」の関係にあります。ボールが落下する最中に時間が反転したとしましょう。映像の逆回しをイメージすると良いでしょう。すると、ボールのその時点での速度は上向きに変わり、ボールは減速しながら上昇します。これは「投げ上げ」と全く同じ現象です。時間を反転した現象は現実にも起こるのです。

この事情は物体の個数が増えても同じで、どんなに物体の数が増えようと、どんなに複雑な運動をしていようと、時間をさかのぼるような運動もまた運動法則の予言のひとつです。

ということは、止まっていたボールが摩擦力によって加速される現象も、年と共に人が若返って子供に戻る現象も、別に運動法則に違反しているわけではありません。

 

じゃあ、なぜ現実には起きないのか?

ところが、現実を見るとこれは非常におかしいわけです。

物体の運動を支配する基本法則が時間を逆回しにした運動を許しているのに、なぜ現実にはそのような運動が起こらないのか? これがこの問題の本質です。

可能性はふたつ。運動法則は正しくて、その枠内でこの現象を説明できるか、または、運動法則が間違っているかです。

私も含め、多くの科学者は前者を支持しています。つまり、時間に本来方向はないのだけど、運動の性質によって不可逆な現象が起こるために実質的に方向があるように見える、という立場です。ここではその心を説明したいと思います。

 

鍵は「場合の数」と「カオス」にあり

この問題を理解する鍵は「場合の数」「カオス」にあります。論点をクリアにするために、次のような単純化したセッティングを考えてみましょう。これは、後で考える真空容器中に放出された気体のモデルです。

今、部屋の床を100×100のマス目に区切り、そのマス目に10個の荷物を置きます。ただし、ひとつのマス目には1個の荷物しか置けないとしましょう。床が容器、荷物が気体分子の代わりです。荷物の種類は区別しないことにすると、置き方は全部で何通りあるでしょう?

一見、高校の数学に出てきそうな問題ですが、ざっくり言って、3の後に0が33個並ぶ程の巨大な数になります。これが「荷物を部屋に置く全ての場合の数」です。一方、その荷物を部屋の中央にある特定の10マスの中に置くような場合の数はもちろん1通りです。

もし、この部屋の中に適当に荷物を置いたとして、それらが偶然特定の10マスに固まっている確率は、全パターンの中の1通りの置き方が実現されるような確率なので、34桁という巨大な数分の1となります。これはほとんど実現しないと言って良いでしょう。

 

こんなゲームを考えてみよう

さて、このマス目と荷物を使ってこんなゲームをしてみましょう。まず、10個の荷物を中央の特定のマス目に置きます。そして、全ての荷物について前後左右をランダムに決めて、荷物をその方向に1マス動かすのです。ただし、移動先が壁のときは跳ね返って反対側に移動するものとし、移動先に荷物があるときはその場に留まることにします。このプロセスを何度も繰り返すとどうなるでしょう?

簡単に想像できるように、10個の荷物はすぐにバラバラになり、ひとたびバラバラになった荷物が再び1ヵ所に集まることはまずありません。仮に起こったとしても、気が遠くなるほどのステップを繰り返したあげくに1回起これば奇跡、というレベルです。

ポイントは、荷物の移動がランダムであること、そして固まっている状態を実現する場合の数に比べて、バラバラな状態を作る場合の数が桁違いに多いことです。

1回のステップで上下左右のどちらに動くかはランダムに決まるので、「荷物が固まって置かれていた」という初期情報は、ステップが進むごとに少しずつ失われていきます。これは、画像に何度も薄いモザイクを入れると最後にはノイズになってしまうのと同じことです。

 

荷物が再び集まることは、「ほとんど」あり得ない

結果として、長時間経過した後の荷物の状態は、部屋の中に適当に荷物を配置したときと区別が付かなくなります。このときにどんな状態が実現されるかは単純に確率の問題です

先程計算したように、荷物はほとんど100%の確率で部屋中にバラバラに散らばり、1ヵ所に固まることはほとんどあり得ません。1ヵ所に固まっていた荷物がバラバラに散らばり、元には戻らない。現実世界に見られるような不可逆現象が起こったわけです。

大切なので強調しますが、この不可逆性を導くために、荷物の動きがランダムであることが本質です。もし、荷物が互いに干渉せず、単純に最初に動いた方向に動き続けて、壁に跳ね返って戻ってくるような規則正しい動きをすると、10個の荷物は一定時間後に概ね同じ場所に戻り、それを周期的に繰り返します。ランダム性をなくすと、不可逆性がなくなってしまうのです。

気体分子の動きもランダムなのか?

さて、先程、このゲームは気体分子のモデルと言いましたが、ゲームの理屈は本当にそのまま気体分子の運動に当てはまるでしょうか? 室温で1気圧の気体は、1リットルあたり1兆の100億倍という膨大な数の分子で構成されています。

加えて、今回は分子の速度も考慮に入れなければいけないので、分子を部屋の中に配置する場合の数は、たった10個の荷物しか考えていない先程の比ではありません。「分子を部屋の中に適当に配置したときに1ヵ所に固まる確率」も絶望的なまでに小さくなります。

場合の数に関しては、先程のゲームと同様、「バラバラになる場合の数が圧倒的に多い」と言えます。

では、気体分子の運動はランダムでしょうか? これはとても微妙です。先程のゲームでは、最初の配置が決まっていても荷物の動きにランダム性があったので荷物の位置が予測不可能になったのですが、気体分子は運動法則に従うので、最初の状態が完全に決まっていればその後の運動は完全に決まります。

これはランダムと言えるのでしょうか? もしランダムでないのなら、規則正しく動く荷物のように、気体分子が周期的に元に戻ってしまうようなことはないと言えるでしょうか?

 

「カオス」のいたずらは秩序をランダムに見せる

ここで重要になるのが「カオス」という性質です。この現象が初めて認識されたのは、1961年、気象学者のエドワード・ローレンツが天気の変化を単純化した模型を調べていたときのことです。

ローレンツは、ある時刻の気象条件をほんの少し変えただけで、その後の天気の移り変わりが大きく変わり、本質的に予測不可能になることがあることに気が付きました。しかも、そのときの天気の変化は周期性を全く持たず、ランダムな変化と区別が付かなくなるのです。

これはありふれた現象です。たとえば、空気中の落ち葉の落ち方はカオス的で予測不可能です。3つ以上の天体が重力で引き合っているときに起こる複雑な運動も、カオス的であることが分かっています。

誤解してほしくないのですが、これらの例も、最初の条件が決まれば後の時間変化は法則によって完全に決まります。それにもかかわらず、多数の物体が複雑に絡み合うと、物体の集まりがカオス的な性質を持ち、実際に起こる現象は擬似的にランダムで予測不可能になってしまうのです。

 

時間は「可能性の方向」に進む

気体の例に戻りましょう。実際の気体分子の運動は運動法則に従っているので、最初の状態が決まっていればその後の運動は完全に決まります。しかし、気体分子は互いに衝突し合うことによって常に位置や速度を変えています。

これは、カオスが生じる典型的な状況です。結果として、気体分子の運動自体は運動法則によって完全に決定されているにもかかわらず、実質的にランダムな運動と区別が付かなくなります

となると、先程のゲームと同じことが起こります。すなわち、気体分子はほぼ100%の確率で最も場合の数が多い「容器全体に広がる」方向に変化し、その逆は起こりません。運動がカオス的であれば、たとえ運動法則が逆回し可能でも不可逆現象を説明できるのです。

 

時間の方向は、運動の性質にすぎない

いずれの場合も、たとえ背後にある運動法則が決定論的でも、「整った状態」か

ら「バラバラな状態」への変化が起こると二度と元には戻りません。ここでは詳しい定義にまでは立ち入りませんが、このバラバラ度合いを数値化したものが「エントロピー」です。私たちがいつも見ている「時間の方向」は、「エントロピーが増える方向」に他なりません。

このように、「時間の方向」はむしろ運動の性質で、その背後にある(と思われる)時間そのものに由来を求めなくても説明できます。私たちが普段目にしている、反転できない時間とは、多数の物体が複雑に絡み合い、可能性が多い方向へ一方向に進んでいくプロセスそのものなのです。

 

私たちが感じる「時間」の本質は?

もうひとつ触れておきたいのは、私たちが日頃感覚として捉えている時間との関係についてです。私たちは五感で世界に触れるときにも、考えているときにも時間を感じます。このような「感性が捉える時間」の方向が、これまで考えてきた「運動と共にある時間」の方向と一致するのはどうしてでしょう?

このことを本格的に議論しようと思うと、生理学や心理学にも言及しなければいけなくなるので私には荷が重いのですが、最低限言えるのは、これが記憶とその参照にまつわる話であろうということです。

そして、その前提の下で、人が感じる時間とエントロピーが増える方向に進む時間が同じになる理由が必ずあるはずです。

 

脳は、外の世界と自分の感覚を「記憶」する

本質を抜き出すために、脳の機能を単純化して、記憶を蓄える「メモリ」と判断をおこなう「演算装置」だけを考えましょう。メモリは、外部からやってくる情報を蓄えます。これが記憶です。そして演算装置はメモリにアクセスして、蓄えられている情報に基づいて何かしらの演算をおこないます。これが判断に相当します。

もうひとつ、私たちは、風景や音の記憶と同時に、「こういうことを見た・考えた」という記憶を持っています。これは判断の記憶へのフィードバックです。単純化するなら、演算装置はメモリの参照だけでなく、演算した結果をメモリに蓄える働きを備えているということです。

こういう働きが自律的に起こるような仕組みがあったとすると、メモリには外部から得られた信号と、判断の結果が積み重なった形の情報が一方的に蓄積します。

たとえば目から入ってきた木の映像が、意味を伴わない形としてメモリに蓄えられたとしましょう。この段階で、メモリの情報量が増加します。その情報にアクセスした演算装置は、その形と、「木」という名前付きで記憶されている別の情報の両方を参照して、意味のなかったその形が「木」という名前であると判定し、メモリにフィードバックします。これによって、メモリの中の形には「木」という名前がリンクされ、さらに情報量が増えます。

このように、記録と判断の双方がメモリの情報量を増加させます。この状態のメモリを参照した演算装置は、「判断をおこなうことで情報が増加した記録のある情報」という、入れ子構造になった情報を入手することになります。

 

感覚的な時間の流れも、エントロピーの方向へ

あくまで門外漢の物理学者である私の考えですが、私たちは、この入れ子構造を時間の方向と感じているのではないでしょうか? より単純な言い方をするなら、メモリに蓄えられた情報量の一方的な増加を時間経過と判定しているのではないでしょうか?

情報が増加すると、その場所は整然とするので、エントロピーは減少します。ところが、世界のエントロピーは一方的に増え続けますから、メモリ単体でエントロピーが減少したとしても、メモリを含む自然界全体のエントロピーは確実に増えますし、何より、メモリの情報量を増やす操作そのものが外部のエントロピーを増やします。

ということは、メモリの情報量が増える方向を時間と捉える限り、それは自然界の時間方向と必ず一致するということです。人が感じる時間と物理的な時間が一致するのはこのためではないか、というのが私の予想です。

もしこの予想が部分的にでも正しいとしたら、たとえば記憶と判断の間の関係が薄くなるような病気を持つ人の時間感覚は、大多数の人の時間感覚と随分違っているだろうと予想できます。心理学や生理学を専門とする方と議論すれば面白い結論が得られるのかも知れません。

こういう方向性も、将来的に面白い可能性を含んでいるのだろうと思います。

 

ー・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-

面白いなぁ!

ほぼ理解できる文章。

 

 

新橋では いいえ日本でも珍しい、

生ピアノ付きカラオケ

で歌えるお店。

 

おいしいお酒に、山盛りおつまみ。

ママがあなたの歌にピアノで寄り添って、

至福の時間を過ごせます。

音楽の大好きなあなた。

百聞は一見にしかず!

生演奏のピアノ付きカラオケ

で歌う

初めての体験を、

ぜひどうぞ~。

 

ピアノバーせんのつぼ

東京都港区新橋3-6-13  IKENO‐3 急な階段の3階

 Tel  03-3507-8088

月~金曜日 18時から24時まで 

         土曜日    12時(要予約)から23時まで