今回紹介する本は
ブレイディみかこさんの
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー
Yahoo!ニュース | 本屋大賞 ノンフィクション本大賞受賞、60万人が泣いて笑って感動した大ヒットノンフィクションが待望の文庫化!
人種も貧富の差もごちゃまぜの元底辺中学校に通い始めたぼく。人種差別丸出しの移民の子、アフリカからきたばかりの少女やジェンダーに悩むサッカー小僧……。まるで世界の縮図のようなこの学校では、いろいろあって当たり前、でも、みんなぼくの大切な友だちなんだ――。優等生のぼくとパンクな母ちゃんは、ともに考え、ともに悩み、毎日を乗り越えていく。最後はホロリと涙のこぼれる感動のリアルストーリー。
1年ほど前に同著者の
「両手にトカレフ」という本を読んだのですが
その本は「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」で描けなかった物語だったようで
若干読む順番を間違えてしまったなと思いつつ、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」を読み終えた後にもう1度「両手にトカレフ」を読み直しました。
それくらいブレイディみかこさんの本は面白くもあり学ぶことも沢山あるため、何度も読み直したくなる。
というのも、ブレイディみかこさんは1996年(当時31歳)からイギリス・ブライトンで生活しており、アイルランド人の夫と中学生の息子の3人で暮らしているのですが、「アイルランド人と日本人の血を持つ息子をイギリスで育てる」という環境の中だからこそ抱く想いや悩みというのが細やかに描かれており、すごく引き込まれます。
特に今回の作品はノンフィクションであり、息子や友人たちのイギリスでの中学校生活を描いたもので、ブレイディみかこさん自身も
『正直、中学校の日常を書き綴ることが、こんなに面白くなるとは考えたこともなかったです』
と本の冒頭で書くくらい、自他共に認める面白さでした。
日本での暮らしでは(少なくとも僕が生活する環境下では)あまり感じることがなかったレイシズムや貧富の差の問題というのが
未だにイギリスでは顕著であり、特に東洋人のブレイディみかこさんとその血を受け継ぐ中学生の息子だからこそ抱える悩みが存在する。
それは2人だけの問題ではなく、近所や学校には多様な人種・生い立ちの人たちがいるため、周りの人達のことも考えながら親子共々逞しく成長していく様子を、この本を通じて見守っている気持ちになりました。
海外で生活したことのない、そしてまだ子供を持たない僕にとって、人生の教科書のような本でした。
いつか子供が生まれて中学生くらいになったら真っ先に読ませたいと思います(母親にはすぐお薦めした)。
そんな人生の教科書のような本の中で、印象に残った文をいくつか紹介していきます。
つまり、シンパシーの方はかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力しなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。
今の時代、エンパシーは人間が最も求められる力の一つのような気がします。
ここにあるように、シンパシーは生まれ備わったものか幼い頃に培われたものだと僕も思っていて、自然に出てくるものであるがゆえ自分がどれだけ「他人にシンパシーを感じることができるのか」には限度がある。
僕の周りにも「何でここまで人に優しくできるんだろう」って思うくらい優しい人は沢山いますが、きっとそれは生まれ備わったものか小さい頃に自然と培ったもので、僕が努力して同じようにシンパシーを感じようとしても多分その人のようにはなれない。
でも「ああ、俺はシンパシーを感じることができない薄情な人間なんだ」と諦めるのでなく、自分と違う立場の人々が何を考えているのかを想像しようとする力は子供であろうが大人であろうが今からでも身に付けることができる。
だから、たとえ今自分がどんなに性格が悪かろうが、悪人であろうがエンパシーを感じようと努力することはできる。
その努力が近年実ってきたからこそ、男女差別や人種差別にようやく人々が目を向けるようになってきたのかなと(未だに差別は残っているが)。
マルチカルチュラルな社会で生きることは、時としてクラゲがぷかぷか浮いている海を泳ぐことに似ている。
多様な人々、多様な価値観が存在する社会にはそれだけ地雷を踏んでしまう可能性も多いということ。
ちょっとした一言で他人を不快にさせてしまったり、傷つけてしまったりする。
イギリスで生活するブレイディみかこさんだからこそ、そして経験者だからこそ説得力がある。
相手を傷つけないために、多様性を知る必要があるのかもしれません。
子供たちには「こうでなくちゃいけない」の鋳型がなかった。男と女、夫婦、親子、家庭。「この形が普通」とか「これはおかしい」の概念や、もっと言えば「この形は自分は嫌いだ」みたいな好き嫌いの嗜好性さえなかった。そうしたものは、成長すると共に何処からか、誰かからの影響が入ってきて形成されるものであり、小さな子供にはそんなものはない。あるものを、あるがままに受容する。幼児は禅の心を持つアナキストだ。
この本の真骨頂であり、芯の部分。
まず、著者が息子の生活を見守る中で子供たちからも学ぶ姿勢を怠らないところが素敵だなと。
「子は親の背中を見て育つ」とよく言いますが、子供から学ぶことも多いんだよと教育されている気持ちになります。
大人になるにつれて否が応でも様々な知識・情報を得るようになる。それらに良くも悪くも大人たちは影響される。
でも子供たちは影響されるものが少ない。固定概念がないゆえに大人たちよりも公平な目線で物事を捉えることができる。
我々大人たちはもう無垢な子供に戻ることはできないけれど、子供たちから何かを学ぶことはできるし、子供たちから大事なものに気付かされることも多い。
親子には様々な形・関係がありますが、親→子という一方通行的な関係ではなく、お互いがリスペクトし合える対等な関係でありたい、そう思わせてくれる一冊でした。
実は本作には続編があるそうなので、近々読んでみたいと思います。
では、また。
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