最初のひと言が重かった
オンラインカウンセリングの画面越しに、彼女は小さく頷いてから口を開いた。
「最近、毎朝起きるたびに思うんです。あの頃に戻りたいって」
声のトーンは平坦だったが、その言葉には確かな重みがあった。画面の向こうで、彼女は少し俯いている。
ダイキ「あの頃、ですか」
クライエント「はい......転職する前の自分に」
彼女の名前は仮にサヤカとしよう。42歳。IT企業のプロジェクトマネージャー。転職してから3ヶ月が経っている。
ダイキ「転職して、3ヶ月くらいでしたよね」
サヤカ「そうです。もう3ヶ月も経ったのに、全然慣れなくて......」
彼女は言葉を切って、少し間を置いた。
サヤカ「前の職場では、こんなことなかったんです」
その言葉が出た瞬間、彼女の表情がほんの少し歪んだ。
「できる人」だった過去
ダイキ「前の職場では、どんな感じだったんですか?」
サヤカ「ずっと順調でした。入社して2年目にはプロジェクトリーダーを任されて、5年目には部署で一番若いマネージャーになって......」
彼女の声に、ほんの少しだけ誇らしさが滲んだ。
サヤカ「周りからも頼られてたし、上司からの評価も高かったんです。『サヤカさんに任せておけば安心』って、よく言われてました」
ダイキ「それは、すごいことですね」
サヤカ「......でも、今は全然違うんです」
彼女は画面から視線を外した。
今の自分が「できない」
サヤカ「新しい会社では、何をやってもうまくいかないんです。システムの使い方も違うし、社内のルールも違うし、人間関係も一から作り直しで......」
彼女は深く息を吐いた。
サヤカ「この前なんて、簡単な資料作成で3時間もかかっちゃって。前の職場だったら30分で終わってたのに」
ダイキ「前の職場だったら、30分......」
サヤカ「そうなんです。で、その資料を上司に見せたら、『うちのフォーマットと違いますね』って言われて。もう、恥ずかしくて......」
彼女の声が少し震えた。
サヤカ「ミーティングでも、みんなが当たり前のように使ってる社内用語が分からなくて。質問するのも恥ずかしいし、でも分からないまま進んじゃうし......」
ダイキ「......それは、しんどいですね」
サヤカ「前の自分だったら、こんなこと、なかったのに」
その言葉が、また出た。
戻りたい場所
ダイキ「サヤカさん、『前の自分に戻りたい』って、具体的にはどんな自分なんでしょう?」
サヤカ「......それは」
彼女は少し考えてから答えた。
サヤカ「仕事がスムーズにできて、周りから頼られて、自信を持って働けていた自分、です」
ダイキ「なるほど」
ダイキはゆっくりと頷いた。
ダイキ「その『前の自分』は、いつ頃の自分ですか?」
サヤカ「転職する直前......ですね。去年の秋くらい」
ダイキ「去年の秋の、サヤカさん」
サヤカ「はい」
ダイキ「......その頃のサヤカさんは、どんな気持ちで毎日を過ごしてましたか?」
その質問に、サヤカは少し戸惑ったような表情を見せた。
サヤカ「どんな気持ち......?」
理想化された記憶
ダイキ「たとえば、朝起きたとき、どんな気持ちで会社に向かってました?」
サヤカ「それは......」
彼女は少し考え込んだ。そして、ふと何かを思い出したような表情になった。
サヤカ「......そういえば、あの頃も、結構しんどかったかもしれません」
ダイキ「しんどかった?」
サヤカ「はい。毎日残業続きで、休日出勤も多くて......。体はすごく疲れてました」
彼女は少しずつ、記憶を辿るように話し始めた。
サヤカ「それに、人間関係も、実は......複雑でした。派閥みたいなのがあって、板挟みになることも多くて」
ダイキ「そうだったんですね」
サヤカ「あと、上司との関係も......。評価はしてくれてたんですけど、プレッシャーもすごくて。『サヤカさんならできる』って言われるたびに、『できなかったらどうしよう』って思ってました」
彼女は、少し困ったような笑みを浮かべた。
サヤカ「......あれ? 私、前の職場のこと、すごく良かったって思ってたのに......」
防衛としての「前の自分」
ダイキ「サヤカさん、今、何か気づいたことありますか?」
サヤカ「......前の職場も、実はそんなに完璧じゃなかった、ってことです」
ダイキはゆっくりと頷いた。
ダイキ「そうですね。人は辛いときほど、過去を美化してしまうことがあります」
サヤカ「......そうなんですか」
ダイキ「今の環境が不安だと、『あの頃は良かった』って思うことで、自分を守ろうとするんです」
彼女は少し驚いたような表情を見せた。
サヤカ「自分を、守る......?」
ダイキ「はい。『前の自分に戻りたい』って思うことで、今の辛さから目を逸らすことができるんです」
サヤカ「......」
彼女は何も言わずに、じっと画面を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
サヤカ「じゃあ、私が『前の自分に戻りたい』って思ってるのは......」
ダイキ「今の自分と向き合うのが、怖いからかもしれません」
その言葉に、彼女の目に涙が滲んだ。
喪失と向き合う
サヤカ「......怖い、って言われると、確かにそうかもしれません」
彼女はティッシュで目元を拭った。
サヤカ「転職して、全部失っちゃったような気がして。これまで築いてきたもの、信頼も、実績も、居場所も」
ダイキ「......うん」
サヤカ「新しい会社では、私は『できない新人』なんです。前は『できる人』だったのに」
彼女の声が震えた。
サヤカ「それが、本当に......辛くて」
ダイキ「『できる人』だった自分を、失ったんですね」
サヤカ「......はい」
ダイキはしばらく沈黙を保った。そして、ゆっくりと問いかけた。
ダイキ「サヤカさん、なぜ転職しようと思ったんですか?」
サヤカ「......それは」
彼女は少し考えてから答えた。
サヤカ「前の会社、このまま続けても、これ以上成長できないなって思ったんです」
ダイキ「成長......」
サヤカ「はい。やることがパターン化してきて、刺激もなくなってきて......。このままだと、『できる人』として安定はしてるけど、新しいことに挑戦する機会がないなって」
ダイキ「なるほど」
サヤカ「それに、新しい技術にも触れたかったし、違う業界のやり方も学びたかったんです」
彼女は少しずつ、自分の言葉を取り戻していくようだった。
トランジションの中にいる
ダイキ「サヤカさん、今のサヤカさんは、人生の大きな転換期の真ん中にいるんだと思います」
サヤカ「転換期......?」
ダイキ「はい。心理学では、これを『トランジション』と呼びます」
ダイキは少し間を置いてから、続けた。
ダイキ「トランジションには、3つの段階があるんです。最初は『終わり』の段階。これまでの自分や環境との別れです」
サヤカ「......」
ダイキ「次が『中立圏』。古い自分でもなく、新しい自分でもない、宙ぶらりんの状態です」
サヤカ「......今、まさにそれです」
ダイキ「そうですね。そして最後が『新しい始まり』。新しいアイデンティティを手に入れる段階です」
サヤカ「新しい、アイデンティティ......」
ダイキ「今のサヤカさんは、『中立圏』にいるんです。『前の職場のサヤカさん』は終わったけど、『新しい職場のサヤカさん』はまだ始まっていない」
彼女は、じっと考え込んでいた。
サヤカ「......だから、こんなにモヤモヤしてるんですね」
ダイキ「はい。でも、それは自然なことなんです」
「できない」を受け入れる
サヤカ「でも、毎日がしんどくて......。早く前みたいに『できる人』に戻りたいって、つい思っちゃうんです」
ダイキ「前みたいに、ですか」
サヤカ「......はい」
ダイキ「サヤカさん、ちょっと考えてみてください。『前みたいに』って、具体的にはどういうことでしょう?」
サヤカ「それは......前の職場で評価されてた頃の自分、ですかね」
ダイキ「なるほど。でも、その『前の自分』は、新しい職場では成立しないんじゃないですか?」
サヤカ「......」
ダイキ「前の職場で『できる人』だったのは、10年以上の経験があったからですよね」
サヤカ「......そうですね」
ダイキ「システムも、ルールも、人間関係も、全部知ってたから。でも今の職場では、それが全部リセットされた」
サヤカ「......はい」
ダイキ「だとしたら、『できない自分』を受け入れることが、新しい始まりへの第一歩かもしれません」
彼女は、ハッとしたような表情を見せた。
サヤカ「『できない自分』を......受け入れる?」
気づきの瞬間
ダイキ「はい。今のサヤカさんは、『できない新人』として、ゼロから学んでいる最中なんです」
サヤカ「......」
ダイキ「それって、実はすごく勇気のいることだと思いませんか?」
サヤカ「勇気......」
彼女は、少し考え込んだ。そして、ゆっくりと言葉を紡いだ。
サヤカ「......そうか」
ダイキ「どうしました?」
サヤカ「私、『できる人』に戻りたいって思ってたけど......それって、また安全な場所に逃げ込みたいってことだったのかもしれません」
彼女の声に、少し力が戻ってきた。
サヤカ「『前の自分』に戻るってことは、成長を諦めるってことなんですよね」
ダイキ「......」
サヤカ「私、転職したのは、新しいことを学びたかったからなのに。『できない自分』が嫌で、『できる自分』にしがみついてたら、何も学べないですよね」
彼女は、少しずつ自分の言葉で答えを見つけていた。
サヤカ「......『できない』を認めないと、『できる』にはなれないんだ」
ダイキはゆっくりと頷いた。
ダイキ「そうですね。今のサヤカさんは、『できない』からこそ、学べるんです」
サヤカ「......はい」
彼女の目から、涙がひとすじ流れた。でも今度は、苦しみの涙ではなかった。
過去は戻る場所じゃない
ダイキ「サヤカさん、『前の自分』は、戻る場所じゃないんです」
サヤカ「......戻る場所じゃない」
ダイキ「はい。過去は、そこにあり続けるものです。でも、私たちは前に進むしかない」
サヤカ「......」
ダイキ「『前の自分』を懐かしむことはあっても、そこに戻ることはできない。そして、戻る必要もない」
サヤカ「......そうですね」
彼女は、少し寂しそうに笑った。
サヤカ「『前の自分』って、実は、私が作り上げた幻想だったのかもしれません」
ダイキ「幻想......」
サヤカ「はい。都合の悪いことは忘れて、良かったことだけ覚えていて......。で、それと比べて、今の自分はダメだって落ち込んでた」
ダイキ「うん」
サヤカ「でも、本当は......前の自分も、今の自分も、どっちも私なんですよね」
彼女の声に、静かな諦めと、同時に新しい決意のようなものが混ざっていた。
今の自分を見つめる
ダイキ「今のサヤカさんは、どんな自分ですか?」
サヤカ「......よく分かりません。まだ」
彼女は正直に答えた。
サヤカ「でも、少なくとも『できない自分』から目を逸らすのはやめようと思います」
ダイキ「どうやって?」
サヤカ「まず......分からないことは、ちゃんと質問する。恥ずかしいけど」
ダイキ「うん」
サヤカ「それから、前の職場のやり方と比較するのもやめます。『前ならこうだったのに』って思うたびに、自分を責めてたから」
彼女は少しずつ、具体的な行動を口にしていった。
サヤカ「あと......『できないこと』を記録してみようかな。で、少しずつ『できること』に変えていく」
ダイキ「それ、いいですね」
サヤカ「小さなことからでいいから。1日1個、新しいことを覚えるとか」
彼女の表情が、ほんの少し明るくなった。
未来への小さな一歩
ダイキ「サヤカさん、今日の対話で、何か変わったことはありますか?」
サヤカ「......はい」
彼女は少し考えてから答えた。
サヤカ「『前の自分に戻りたい』じゃなくて、『今の自分から始めよう』って思えるようになりました」
ダイキ「それは大きな変化ですね」
サヤカ「まだ不安だし、しんどいことも多いと思うけど......でも、ちょっとだけ、前を向けそうな気がします」
ダイキ「うん」
サヤカ「『前の自分』は、理想化された幻想だったんだって気づけたのが、大きかったです」
彼女は、ゆっくりと深呼吸をした。
サヤカ「あと......『できない自分』でいることを、許せそうな気がします」
ダイキ「許す......」
サヤカ「はい。今の私は、ゼロから学んでいる最中なんだって。だから、できなくて当たり前なんだって」
彼女の声には、少しの安堵が混ざっていた。
対話を終えて
サヤカ「ダイキさん、今日はありがとうございました」
ダイキ「こちらこそ。今日のサヤカさんは、とても大切なことに気づかれたと思います」
サヤカ「......はい」
彼女は、少し照れたように笑った。
サヤカ「まだまだ、これからなんですけどね」
ダイキ「そうですね。でも、『今の自分』から始める、って決めたこと。それはすごく大きな一歩だと思います」
サヤカ「ありがとうございます。また来週、お願いします」
ダイキ「はい、お待ちしています」
画面が消える前に、彼女は小さく手を振った。その表情は、最初に会ったときよりも、ずっと柔らかかった。
『前の自分』は、戻る場所ではない。そこから学び、今の自分を生きるための、大切な記憶なのだ。