【 魔法の言葉】
彼女は図書館にいる

学習スペースのある3階のフロアで窓側の席を見渡す
平日の午前10時   窓側の席はPC使用者向けで 座席2つおきに先客で埋まっている   せめて1つおきなら1人は座れるのに……彼女の口元が少しゆがんだ    結局フロア中央の8人がけの机に端から2つ目に席をとった

パソコン作業のサラリーマン ペンを器用に回しながら参考書を眺めている受験生  鼻をすする音すら響きそうな静かな息の詰まりそうな空間     彼女は緊張していた

彼女はバックからボールペンと方眼5㍉の学習ノートを取り出し 右斜め上にスマホを置き大きく深呼吸をする  ここに来る前に1階の閲覧コーナーで立ち読みした ココロの本に載っていた 「息を吸って  息を吐いて と心で言いながら深呼吸している事に集中する」を実行してみたらしい 「常に頭の中で何人もの自分が言い合いをしている状態を取り払う」という一節が彼女の気持ちをゆさぶったのだ

深呼吸をゆっくりと5回して 方眼ノートを開き 彼女の名前を書き始めた  それは 小学1年生の子が漢字の宿題をやるように 一文字一筆ゆっくりと ハネ・トメ・間を丁寧に  文字を打つ事はあっても書く事がなくなった彼女の字は 緊張からか久々すぎてかあまりにぎこちない   彼女自身が1番驚いただろう   マスを空けずに繰り返し繰り返し書いていく  姓と名を何度も     

ページの半分がようやく埋まり始めた頃 同じデスクの逆端に 耳にイヤホンをした学生が座った  学生は電卓をパシパシと叩きながらノートにペンを走らせる  この空間には響き過ぎる音だが当の学生の耳には届かない  ただ広いフロアにパシパシとなり続ける     彼女は頭の中に出てくる幾人もの自分のリベートと格闘しながら 学生の電卓にも押されている   ペンを置き前を向いて大きく深呼吸をする ゆっくりと吸って吐く これを5回    

何とか1ページを書き埋めた  姓と名で5文字それを66回
1時間あまりかかっただろうか
書き終わった名前だけが書かれたページを見返し 深くゆっくりと1度だけ深呼吸をして 席を立った

2階の閲覧フロアで 持参した本を読むつもりだったが そのまま図書館を後にした



彼女はスマホでボランティア募集を検索している  教育・介護・医療・環境等募集は様々あるようだ    彼女は1つの団体の募集に要項に従ってメールで応募した「ボランティア経験はないのですが、まだ募集していますか」メールは正常に送信されたらしい    それから彼女は別の募集を見つけた 一週間後の1日だけ時間も任意の募集だった   その募集もメール対応出来たが 彼女は電話をかけた
「経験はないのですが…」「ありがとうございます!助かります!是非よろしくお願いします!」電話の受け手の声は彼女には衝撃だった  え?あたしでいいの?あたしだよ?役に立つかわからないよ?彼女は心がふわっと持ち上がって 体の中から温風が流れ出したような不思議な感覚を覚えた  とても久しぶりの高揚  電話の相手とのやり取りがとても心地よくて自分の声が弾んでいておかしくなった   「では、当日よろしくお願いします!」  

なんの事はない 相手はボランティア募集なのだから 当然といえば至極当然  しかし彼女はほっとしていた  
こんな風にやり取りできるんだ あたしはまだ誰かと会話を交わせるかもしれない 目をあわせて話すことができるかもしれない こんな自分でも迎え入れてくれる場所はまだあるのかもしれない  まだどんな相手かもどんな所かもわからないのに 今の彼女にとってはそんな事は二の次なのだ   これまで彼女を押しつぶしてくる得体の知れない塊が ゆっくりとふやけていく 体の中の鉛が一瞬気にならなくなった