中山勘解由家範~死して尚お家を隆興させた飯能の猛将!!

天正18年(1590年)4月6日、豊臣秀吉は箱根湯本の早雲寺に本陣を置くと、21万の軍勢で小田原城を包囲します。前田利家・上杉景勝率いる北国勢は4月20日松井田城本丸に迫り、松井田城代・大道寺政繁が降伏、続いて厩橋城、箕輪城が陥落した。4月27日には江戸城が陥落、大道寺政繁の道案内により武蔵松山城、河越城、岩付城が陥落、6月14日には鉢形城は城主北条氏邦の義弟・藤田信吉の説得で開城、北条氏邦が捕らえられた。

前田利家は鉢形城を開城させたが、鉢形城の調略に時間が掛り、秀吉から八王子城は力攻めするように指示されます。すると北国勢は八王子城を15000にて包囲した。この時城主の北条氏照は小田原城に入っており、小宮曲輪に狩野一庵、山頂曲輪に横地監物信吉と大石照基、中の曲輪には中山勘解由、狩野主善一庵、近藤曲輪には近藤綱秀、金子家重らを配し将兵約300名と近隣の領民合わせて3000名が籠城していた。包囲した前田利家は降伏を勧告するために使者を送り出したが、城側は拒否し使者を切り捨てた。

6月23日の深夜から早暁、大道寺政繁ら降伏した元北条勢を先陣して攻め掛り、近藤綱秀、金子家重ら250の将兵が打ち取られた。その後御主殿が攻められた。御主殿に居た氏照の室・比佐殿と侍女らは自刃した上で御主殿下の滝に身を投げ、その血は城山川を三日三晩赤く染めたといわれています。

残る要害部には歴戦の将・中山勘解由家範がいました。中山氏は武蔵七党の丹党加治氏の出であり、加治氏が現在の飯能市中山に移り中山氏を名乗った。中山勘解由家範は高麗八条流馬術の名手であり、一騎当千の兵、三方ヶ原の戦いにも北条氏の援兵として参戦したとの伝承があります。中山勘解由家範を初め残りの20人ほどの将兵は奮戦し前田方も30余名が討死、相当の死傷者が出た。しかし上杉勢にも攻め寄せられ衆寡敵せず妻と共に城を枕に自刃して果てた。時に43歳辞世の句は

「吹毛の剣を提起す 凡聖斉しく蹤を潜む 清風明月を払い 明月清風を払う」

とあり禅の境地を詠んでいる。

実はこの時、家範は家臣数名とともに嫡男の照守と弟の信吉を府中方面に落ち延びさせたのである。家範の壮絶な死は関東全域にきこえ、これを聞いた徳川家康は草の根をわけても家範の二人の遺児を探し求めよと命令した。二人は見つけ出され家康のもとに引き取られたのです。

嫡男の照守は21歳であった。父と同じく高麗八条流馬術の名手であり、徳川家康・秀忠に仕え、関ケ原の合戦では、秀忠とともに上田城攻めに参陣し上田七本槍と言われた武功を残し、最終的に3500石の大身の旗本となりました。鬼平犯科帳に出てくる鬼勘解由とはこの照守の孫になります。

また弟の信吉は15歳であった。初めは家康の小姓として仕え徳川頼房の守役となり、伏見城在番の際に刀泥棒を捕まえたり駿府城大火の際に頼房を救出したりした。その後累進して多賀松岡城主2万石に加増され水戸藩の筆頭家老となった。頼房の後嗣として徳川光圀を水戸藩2代目藩主に推薦したのはこの人であり水戸徳川家の礎を作りました。ドラマ水戸黄門に出てくる中山備前守はこの人がモデルです。

また、中山照守の曾孫に黒田直邦が出る。直邦は母方の同じ丹党の黒田氏の外祖父の直相に養育され、黒田氏を継ぎ享保3年には沼田城3万石の大名にまでなりました。この人の養子の直純は土屋家が改易になり廃城となった久留里城を再構築して、上総久留里藩を立藩した。久留里藩は9代続いた黒田家の治世のもと大いに発展しました。

猛将中山勘解由家範の子孫は家範の事績で栄達しました。中山家の墓所は飯能市の能仁寺にあり丹党黒田氏のお墓もあります。