「すべての死は犬死である」といった人物がいる。

しかし、この言葉には前提条件がつく。

それは「歴史を忘却した時」という条件だ。

歴史を忘却した時、人の死は犬死となるのだ。

歴史とは人間とその共同体がその生死のすべてをかけて紡ぐ壮大な物語である。
人間は無意味には耐えられない生き物だ。
人間はどうしても意味や価値を求めてしまう。
だからこそ、人間は人生に物語を求める。

自分が産まれる前、無数の祖先たちが家や郷土や国を守りながら生きて死んでいった。
自分が死んだ後、無数の子孫たちが自分と同じように家や郷土や国の中で生きて死んでいく。

歴史とは、祖先と自分と子孫が皆で紡ぐ物語であり、大事な約束のようなものだ。
多くの祖先たちが大切に育ててきてくれたものを、受け継ぎちゃんと守って、子孫に受け渡していく。
その約束が守られてこそ、歴史という物語がその輝きを保つ。
そして、その物語が一人の人間の人生に豊かな意味を与えてくれる。

なかには「歴史なんかに意味を与えられたくない!自分の人生には自分で意味を与える!」という人間もいるだろう。
しかし、一人の個人とはそんなに強い存在ではない。
そもそも、人間の人間たる所以である「言葉」とは共同的で歴史的なものなのである。
歴史上の無数の祖先たちが共同で編み上げてくれた言葉の体系を覚えることによって、人ははじめて意味や価値を知り、真の人間となる。

「自分で自分の人生に意味を与える」という人間は自分がいつか死んでしまうということを忘れているのかもしれない。
自分が死んだ後、自分の人生の意味や価値を思い、語ってくれる他者がいなければ、人生の意味など空虚な妄想に過ぎなくなってしまう。

人生の意味とは一人で生み出せるものではない。
それは多くの他者との共同作業の中で育んでいくものだ。
そして、その他者の中にはすでにいない祖先やまだ産まれていない子孫も含まれる。
幾重もの世代の連なりが共同で紡ぎあげていくのが、歴史という物語であり、その物語こそが、人生の意味の源泉なのである。

歴史にもいろいろある。
家の歴史、郷土の歴史、国の歴史、人類の歴史。

恐らく「人類や郷土の歴史は認めるが、国の歴史だけは拒否する」という人間もいるだろう。
しかし、国語や風土や気質を共有していない全人類における歴史物語は成り立ちがたく、狭い郷土の中だけ閉じてしまう歴史では壮大さに欠ける。
そもそも、人類や郷土の歴史は認めて、国の歴史だけは拒否する理由が不明確である。

誰にでも、自分を産み育ててくれた、家族や故郷への愛着の念はあるだろう。
そうであれば、国に対してもその愛着を抱いても何の不思議もない。

あるいは人間、齢を重ねて大人へと成熟してくれば、愛着だけではなく、感謝の念すら抱くようになるだろう。

自身を生み育ててくれた、ネーションへの愛着と感謝の念が、「愛国心」の基盤である。
そして、その愛国心は、自分たちのネーションによるネーションのためのステート(政府)を希求するであろう。

「国の歴史を受け継ぎたい」という愛国心は、自分たちの政府を持ちたいという国家意識に繋がるのだ。

しかし、国の歴史を拒絶する戦後の日本人は、自分たちの政府を持つという意識=国家主権意識を失ってしまっている。
憲法9条と日米安保によって、国際社会の厳しい現実から目をそらし、どっぷりと平和ボケに浸かってしまっている。
自らの力と気概による自主独立を放棄して、アメリカによる平和と安全という「奴隷の平和」に甘んじている。
そのような有り様で70年近くも過ごしてしまえば、日本人の国家意識と歴史感覚が崩壊してしまうのも無理もない。

日本国憲法は、個人の自由と権利を至上の価値として称揚する。
しかし、その個人の自由と権利を至上とする価値観こそが、戦後日本の国家喪失と歴史忘却の根本的な原因なのである。

私的な感情に基づけば「国家のために命をかける」なんて馬鹿馬鹿しく無益なことに思えるだろう。
私的な価値観を最優先する戦後日本で、「国家のため」という意識が消滅したとしても何の不思議もないのだ。

本来、人間とは「私」と「公」の間でバランスを保ちながら生きる存在のはずだ。
私的にはやりたくないと感じても、公的な責任感から、自らの社会的責務を果たす。
誰にでも公と私の間での葛藤がある。
その葛藤の果てに、決断への道筋を与え方向性を示すのが、国家意識であり、歴史感覚なのだ。

だが、戦後日本は公的な価値を唾棄し、私的な価値を賛美し続けてきた。
そして、その代償として、国家意識と歴史感覚が崩壊してしまったのだ。
私的な価値を優先する戦後的なヒューマニズムが「何でもかんでも国家のせい」「政治は信用できないから関わりたくない」「国家なんていらない」といった低俗な政治意識を生み出してしまった。

戦後的なヒューマニズムが国家と歴史を根底から破壊してしまったのだ。


人間はいつまで経っても不完全な存在である。
個人の自由な欲望の発露が豊かで自由な社会をつくるというヒューマニズムも、「平和」を唱えていればいつか世界平和が本当に訪れるという平和主義も、根本的に間違っているのだ。
不完全な存在である人間に、個人の自由な欲望の発露を認めても良い社会が生まれるとは限らない。
欲望と欲望とがぶつかり合い、過度な摩擦を生み出し、社会の秩序を乱す可能性の方が高い。
どんなに「平和、平和」と唱えても、不完全な人間の世界から、戦争が無くなることはない。
むしろ、平和ボケが危機意識を失わせ、他国の侵略を許す結果になりかねない。

戦後的なヒューマニズムとそれに基づく平和主義を我々日本人はいい加減に捨て去らなくてはならない。

人間は誰でも、いつかは死ぬ。
人の死は私的な側面から見れば、無意味な犬死かもしれない。
しかし、公的な側面から見れば、誰の死にも何かしらの意味があり、語るべき物語がある。

個人の感情ばかりを優先する平和主義は、死という誰にも避け難い宿命を忘れさせる。
私的な価値ばかりを称揚するヒューマニズムは、死に意味を与える歴史という物語を忘れさせる。

人間は自身の死を思う時、自らの宿命を意識する。
個人の宿命と時代の運命と深く切り結ぶ時、人生の輝きは絶頂に達する。
時代の運命とは国家の歴史そのものである。
宿命の意識は、速やかに歴史という物語に思いを馳せ、いずれ国家という舞台へと駆け上がろうとするだろう。

「国のために死ぬ」ことを馬鹿にする人間は、人間存在そのものを侮蔑しているに等しい。

死を忘却し、平和ボケの日常に頭まで浸かった人間は、自身の人生そのものをふやけさせ、退屈で実りないものにする。

ひとりの人間の生き様と死に様を美しく物語る心を忘れた世界ほど、退屈で生き甲斐のない場所はない。

そんな世界で80年90生きたとしても、そんな人生は、若くして国のために散った特攻隊の輝かしく鮮やかな人生に比べたら、何の価値もない塵芥のようなものだ。

国を背負い、歴史に繋がる、それは重々しくてめんどくさいことかもしれない。
だが、たった一度きりの人生なのだ。
吹けば飛ぶような軽々しい人生なんか生きる価値もないだろう。
「孤独とは時間の牢獄である」と作家の橋本治は言っている。

また、哲学者の和辻哲郎は、時間意識が人間関係と不可分の相互連関の中にあることを以下のように哲学的に論証している。
過去における人間関係の経験が、未来へ向けての人間関係への信頼と不安の基盤となる。
人間が未来へ向けて積極的に人生を切り拓いていけるのは、過去における充実した人間関係があってこそなのだ。

しかし、孤独はこのような人間の時間意識の成り立ちを弛緩させ、弱化させてしまう。

他者との豊かな関係性を失ってしまった人間は、生き生きとした時間の流れからも疎外され、退屈で殺風景な「現在」という牢獄の中に閉じ込められてしまうのだ。

本質として、人間の生の構造は時間によって成り立っている。
つまり、生き生きとした時間意識から疎外されてしまうということは、人間らしい生のあり方すらも失われてしまうということなのだ。

よって、豊かな人間関係は人間らしい生にとって必要不可欠な絶対条件であり、孤独とは人間の本来的なあり方からの疎外状態だということだ。


そもそも、人間の使っている言葉や人間が生きる場である社会とは共同的な存在である。

長い歴史の中で言葉の意味は共同的に育まれ、その言葉を基礎にして社会が形づくられる。
言葉や社会も人間存在にとって必要不可欠な絶対条件である。

即ち、時間・言葉・社会といった人間存在にとっての欠くべからざる絶対条件は共同的なものなのである。

つまり、人間存在とは本質的に他者との関係性の下に成り立っている存在であるということだ。


個人の自由を至上の価値とする近代的な個人主義はこのような本質的な人間観を見失ってしまっている。
公よりも個を優先し、公を個に従属させるような、人間観や社会観は本質的に間違っているのだ。

公があるからこそ個もあり得るのである。
公から切り離された個が自由な意志に基づいて社会契約を行い国家を構築するといった、社会契約論的な国家観は本質的に異端の思想なのである。

個人の自由を個人の私的な欲望にだけ限定してしまう考えも根本において、異端の思想である。
個人の自由にも欲望にも、私的な側面と公的な側面の両面があるのだ。

社会や共同体に貢献したり、誰かを幸せにしたいといった欲望も、人間には確かに実在するのである。
自由にだって、共同善への自由や義への自由などがあり得るのだ。

こういった公的な欲望や自由こそが人間の人間らしさの証であり、私的な動物的欲望を超える
崇高さなのである。



ヘーゲルも言っているように、人間は他者からの承認を求める生き物である。
他者からの承認への欲望は、三大欲求にも匹敵する、人間にとって極めて本質的な欲望である。

その「承認」には大きく分けて二種類ある。
愛情的承認と社会的承認である。
愛情的承認とは、家族や恋人や友人との親密な関係の中での承認のことである。
社会的承認とは、仕事や社会的活動を通じての社会からの承認のことである。

ところで、ジャーナリストの安田浩一などは、ネット右翼を批判する文脈の中で「ネトウヨは他者からの承認がほしくて愛国活動に参加している」といったことを言っている。
だが、この批判はよく考えたら批判として、まったく的を射ていない。
そもそも承認欲求を伴わないような社会的活動は存在しない。
承認欲求そのものを否定するのは、人間存在の本質をまったく理解していない証拠である。

重要なことは、その愛国活動に伴う承認欲求が、国家や歴史にきちんと繋がっているかどうかだ。
つまり、過去の先人たちや未来の子孫たちからの承認をも、視野の内に含んでいるかどうかだ。



また、これもたまに聴く批判としてこのようなものがある。
「保守とは本来は政治活動や思想というよりも生き方のようなものであり、庶民は安易に政治に口を出すよりも保守的な日常生活に専念すべきではないか」といった批判だ。

確かに保守思想は庶民が安易に政治に関わろうとすることに否定的だ。

しかし、庶民的な生き方とは、国家の歴史・伝統・慣習がきちんと保守された上で成り立つものである。
現代社会のように近代主義的なイデオロギーや文物や巷を覆っているような状況では、庶民的な生き方を貫くことすら、難しい。

また、保守思想とは歴史・伝統・慣習に基づく価値観を正統とし、近代主義的な価値観を異端と捉える思想である。

しかし、現状においては、異端の思想が社会を席巻し、正統なる価値観は窒息させられている。
このような現状に気づく人間は今でも少数である。

よって私は、このような異端による正統の迫害という現状に気づいた人間には、一種の義務が生ずると判断する。

即ち、異端の思想を少しでも押し返し、正統なる価値観に基づく国家を取り戻すことに貢献するという義務が。

政治とはそもそも、価値観の押し付け合いのようなものである。
現状において正統の価値観は異端のそれによって、押し潰されそうになっている。

この現状に気づいた人間には、政治に関わり、価値観の闘争に参画する義務があるのではないだろうか。

もちろん、政治と日常とのバランスは大事である。
日常における庶民感覚を失ってしまっては、正統の思想の本質をも見失ってしまう。

だが、一方で近現代のような危機の時代においては、危機の原因である近代主義的な価値観という異端との闘争に馳せ参じることこそが、保守の使命なのではないか。

少なくとも私はそのように信じる。




人生はたった一度きりだ。
どんな人生だろうとたった一度きり。

孔子も言ったように、人間はいずれ死をリアルに意識したとき自らの宿命を悟るようになる。

そこで人間は自分の人生の意義を問い直す。
その人生の意義は、時代のあり方と密接不可分である。

自分の宿命と時代の運命。
この二つが深く交わり、切り結ぶ時、人生の輝きは絶頂に達する。

保守は、断じて時代からの逃避であってはならない。
単なるノスタルジーであってはならない。

近代に生まれたことも、日本に生まれたことも宿命である。

日本が近代の荒波の揉まれ、本来の日本の歴史・伝統・慣習を失いつつあることも一種の運命である。

しかし、保守はそこで頑として立ち止まり、考え、決意し、行動する。

異端の支配という時代の運命に全力で反旗を翻す。

異端の支配は「宿命、歴史、物語、言葉、共同性」といった人間の人間らしさの根源すらをも破壊しようとしているのだ。
闘わないわけにはいかない。


政治と縁遠い人生もいいだろう。
しかし、危機の時代を生きているのだ
危機の本質を洞察してしまったのだ。

人は皆いつか死ぬ。
人間の死とは孤独なものだろうか?

私は違うと思う。
人間には公と私との両側面がある。
私的な側面から見れば、死とは孤独なものだろう。
しかし、もう一面の公的な側面から眺めてみれば、死すらも共同的、社会的なものなのだ。
生き甲斐だけではなく、死に甲斐も重要なのだ。

保守の死生観とはどのようなものだろうか?

先人から受け継いだ歴史・伝統・慣習という相続財産を大切に守り、発展させて、子孫へと受け渡す。
つまるところ、これこそが保守のあるべき人生であり、生き甲斐であり、死に甲斐であろうと私は思う。


たった一度きりの人生、なかなか闘い甲斐のある面白い時代に生まれた気がしないでもない。
天皇陛下、日の丸、君が代を「国家を象徴している」という理由から拒絶するのは、人間の本性を弁えない愚か者である。

国家はそれを表現する象徴や儀式と不可分なのだ。

そもそも人間とは象徴を操る生き物であり、国家もその象徴の一つである。
人間は価値や意味を求める生き物として、その価値や意味を大小さまざまな事物に託して表現する。
その象徴群に秩序や体系を与えるのが言葉であり、その象徴や言葉に基づき制度を組み立て社会の秩序や体系を整備するのが国家である。

つまり、(価値や意味を表現する)象徴→言葉→国家といった流れで人間の象徴形成能力をまとめて、個人や社会に秩序や体系を与えるわけだ。

この内の言葉→国家という箇所に疑問を抱く人間もいるだろう。
「別に社会に秩序を与える制度が国家である必然性はないのではないか」といった感じで。

この疑問に対しては差し当たり2つの回答を示しておく。

第一に、国家はその他の共同体や制度に比べて、現状において様々な重大な機能を担っているということ。
通貨、法、教育制度、治安維持、インフラの整備維持などなど、ナショナルな枠組によって動機づけられ、運営されている極めて重要な機能が多くある。
それらの機能をこれから別の共同体や制度に委譲分担するのは、非現実的である。

第二に、国家には特に日本国家には、エスニシティ(民族性)という歴史的な来歴があるということ。
ナショナリティは近代において形成されたものとは言い切れず、特に日本においては古代から「日本」というナショナルな枠組が陰に陽に意識され、実際にその枠組に基づく社会制度なども実在してきた。
さらに国語や民族性などの歴史上形づくられてきた文化的なナショナリティも国家という枠組の裏づけとなっている。


人間にも社会にも秩序と体系がなくては人間世界は混沌と野蛮に陥ってしまう。
そして、人間の象徴形成能力に秩序と体系を与えて、社会の安定的な発展に繋げる上で、国家という象徴的な枠組は極めて有効なのである。

よって、国家は少なくとも現状においては人間と社会の安定のために積極的に保守すべき枠組である。

国家とは、国民とその政府である。
国家という枠組を維持するためには、国民の価値観をまとめ上げ、政府の権威をナショナリティによって基礎づけなくてはならない。
国民の価値観をまとまるためにも、政府に権威を与えるためにも、国家象徴や国家儀式が不可欠なのだ。

そして、象徴や儀式は文化的あるいは宗教的な要素を多く含むものである。

そうであれば、皇室の諸儀式が日本最古の宗教である神道に基づくのは当然であり、日本を象徴する旗歌として文化的歴史的な由来を持つ日の丸や君が代が定められるのも当たり前である。


これも当然のことであるが、国家の枠組と制度を記述し規定する憲法は、国柄に基づくものでなくてはならない。
「憲法とは人民を政府から守るための規定である」という社会契約論の考えは間違いなのだ。
国民と政府は対立的に捉えるべきものではなく、国民と政府の両方が一つのまとまりとなって国家が成り立つのである。

ここで重要なポイントは国民の権利と義務の関係である。

社会契約論の考えでは、人民の権利(人権)こそが最優先であり、義務は二の次となる。
しかし、この考えでは国家の秩序と体系を基礎づけることが難しい。
国家のまとまりは長い歴史をかけて徐々に形成されてきたものであり、そのまとまりを基礎づけるのは国民の禁止の体系としての義務なのである。
この義務が守られた上で、許容される自由の可能性こそが国民の権利なのだ。

人権を至上の価値とするのは、人間理性を完璧なものと仮定する間違った人間観である。

人間は誤りを犯す生き物であり、その誤りを正す知恵を示すのは合理的な理性ではありえない。
その知恵は歴史の英知によって示されると判断すべきである。
何故なら、国家の歴史の中には無数の失敗と成功の経験が蓄えられていると考えられるからである。
その歴史の英知を継承している国民が抱く道徳とその道徳に基づく法律こそが、国民が守るべき義務なのだ。

憲法と同様に、民主主義も国柄に基づく民主主義でなくてはならない。
国家とは現代を生きる国民のためだけにあるものではなく、未来や過去における国民をも含む広い意味での国民のための国家であるべきなのだ。
そうであれば、民主主義はメディアに煽られた浅はかな世論によって、左右されるべきではなく、伝統の精神や歴史の英知に基づく長い視野での輿論によって方向づけられるべきである。

そのようなまともな輿論に基づく民主主義と国柄に合致した憲法によってこそ、国家の秩序と体系は正統的に維持されるのである。



ところで、一方でネーション・ステート=国家の輪郭が近代において明瞭となったことも事実である。
それは何故か?

それは近代の様々な変動に対処して、国家の秩序や安定を維持するために、国家の機能の強化が不可欠だったからである。
国内に対しては近代において様々な自由を与えられた国民の経済活動に秩序とまとまりを与えるために、国外に対しては近代のグローバルな流動性に対して国家の平和と安定を保つために。

即ち、近代において国家の重要性はさらに高まったのである。


しかし、一方で近代は国家の中に近代主義的な価値観という有害物をも齎した。
近代主義的な価値観とは、個人の自由、科学的合理主義、進歩史観などである。

個人の自由を至上の価値とすることによって、国家による規制や義務が蔑ろにされ、秩序や安定が脅かされている。
科学的合理主義によって、はっきりとした合理的理由の不明な国家の伝統・慣習が頭ごなしに否定され、破壊されている。
進歩史観によって、人間も社会も未来に向かって完成に近づいていくと過信され、過去が忘却され新しい変化が不用意に称揚されている。

歴史的に形成されてきた国家の秩序と体系が、近代主義的価値観によって蹂躙され壊されているのだ。

近代主義的価値観の行き着く先が、国家的なものの全否定へと繋がるグローバリズムやコスモポリタニズムである。

合理的な市場システムやテクノロジーによる新しい社会変革によって、個人を国家の規制や伝統的慣習から解放して、自由な欲望の発露を社会の発展へ繋げるという発想である。

しかし、この発想には根本的な間違いがある。

それは、人間と社会が未来へ向けて完成に近づいていくという、薄っぺらいヒューマニズムだ。

人間も社会も不完全な存在であり、その科学も当然に完璧なものではなく、人間の欲望とそれに基づく市場システムも欠陥だらけである。
そんな不完全な存在である人間が生み出す新しい変革が、進歩に結びつく証拠などまったくないのである。
むしろ、伝統・慣習という歴史の英知の蓄積を捨て去っているという意味で、近代人は退歩していると言った方がいい。

人間も社会も国家の歴史・伝統・慣習という秩序と体系の基盤があってこそ、安定的に発展あるいは成熟していく存在なのである。

よって、ナショナリズムは近代においては保守主義と表裏一体でなくてはならない。
そうでなくては近代主義的な価値観による国家破壊を防ぐことが難しいからである。



以上、私が国家とナショナリズムと保守主義を肯定する所以である。