霞を食べて死ににいく. -24ページ目

霞を食べて死ににいく.

全ての存在にまつはる(調和)ことができるように、

身魂を磨いていきたいと思います。

自分以外の存在のために命ある限り、

力を尽くしていこうと思います。

日月神示 時節を読む

最近、リンク先の記事を読んでます。
そこで、気になったので(解釈の仕方が違った)、自分の解釈を書きたいと思います。
(何が間違いとかの話ではない。読み方は八通りあるらしいので。)

第二十三帖(一三〇)
 我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそ れが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せ よ。八月の九日、一二


悟りの階梯(仏教)を理解している人なら、わかると思いますが、

ここでいう“我”とはおそらく“自我”のこと。

つまり、自分がなくてはならん、自分があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。八月の九日、一二



悟りの階梯は四向四果で八段階、日月神示は八通りに読める。
これは偶然なのでしょうか?
私には偶然に思えません。
だって一段階進むと、見方が大きく変わってくるからです。

リンク先の所では、我を雅と解釈してました。確かにそれも正しいのでしょう。

私の解釈に戻って、

自分がなくてはならん、自分があってはならず、

ここの意味する所は、無我の境地でしょう。

無我の境地はまさにこんな感じです。

無我の境地という言葉から、自分がなくなると思いがちですが、
それは違います。

言葉でわかりやすく説明するとしたら、
自分という存在と自分じゃない存在が溶け合わさる感覚です。
階梯が進めば進むほど、その感覚が強くなる。
より溶け合わさる感じです。

だから、

自分がなくてはならん、自分があってはならず、

という状態になるのです。



一応、言っておきますが、私は仏教に固執してないです。
阿羅漢果の先があると思います。
私の入り口がお釈迦さまだったので、仏教的な話になってしまうだけです。

宗教の教えに絶対はありません。

むしろ、宗教の教えを絶対として広めようとするのは
その宗教が邪霊に支配されてる証拠でしょう。

つまり、仏教の悟りの階梯自体を疑う必要があるのです。
(これってある意味喧嘩売ってるのか?)


私の結論として、肉体が存在する世界では阿羅漢果まで。
阿羅漢果から先は、肉体のない世界、つまり、魂の世界ではないかと思います。

そろそろ、gooのブログ(自分でやってた)とリンクさせようかな。
批判は勝手にしてて下さい。
あなたが考えるきっかけになってくれればいいだけですから。
良い意味でも悪い意味でも。

リンクさせる前に、お勧めしていたブログがおかしい事になっている事も
記事にしなきゃいけないでしょうね。

死を延ばすことはできても、避ける事はできない。
有意義に時間を使おうと思います。
二転三転してるかもしれませんが、
残りの時間は神様に仕へる事だけを考えてすごそうと思います。

一旦ここで切ります。