最近、リンク先の記事を読んでます。
そこで、気になったので(解釈の仕方が違った)、自分の解釈を書きたいと思います。
(何が間違いとかの話ではない。読み方は八通りあるらしいので。)
第二十三帖(一三〇)
我がなくてはならん、我があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそ れが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せ よ。八月の九日、一二
悟りの階梯(仏教)を理解している人なら、わかると思いますが、
ここでいう“我”とはおそらく“自我”のこと。
つまり、自分がなくてはならん、自分があってはならず、よくこの神示(ふで)よめと申すのぞ。悪はあるが無いのざぞ、善はあるのざが無いのざぞ、この道理分りたらそれが善人だぞ。千人力の人が善人であるぞ、お人よしではならんぞ、それは善人ではないのざぞ、神の臣民ではないぞ、雨の神どの風の神どのにとく御礼申せよ。八月の九日、一二
悟りの階梯は四向四果で八段階、日月神示は八通りに読める。
これは偶然なのでしょうか?
私には偶然に思えません。
だって一段階進むと、見方が大きく変わってくるからです。
リンク先の所では、我を雅と解釈してました。確かにそれも正しいのでしょう。
私の解釈に戻って、
自分がなくてはならん、自分があってはならず、
ここの意味する所は、無我の境地でしょう。
無我の境地はまさにこんな感じです。
無我の境地という言葉から、自分がなくなると思いがちですが、
それは違います。
言葉でわかりやすく説明するとしたら、
自分という存在と自分じゃない存在が溶け合わさる感覚です。
階梯が進めば進むほど、その感覚が強くなる。
より溶け合わさる感じです。
だから、
自分がなくてはならん、自分があってはならず、
という状態になるのです。
一応、言っておきますが、私は仏教に固執してないです。
阿羅漢果の先があると思います。
私の入り口がお釈迦さまだったので、仏教的な話になってしまうだけです。
宗教の教えに絶対はありません。
むしろ、宗教の教えを絶対として広めようとするのは
その宗教が邪霊に支配されてる証拠でしょう。
つまり、仏教の悟りの階梯自体を疑う必要があるのです。
(これってある意味喧嘩売ってるのか?)
私の結論として、肉体が存在する世界では阿羅漢果まで。
阿羅漢果から先は、肉体のない世界、つまり、魂の世界ではないかと思います。
そろそろ、gooのブログ(自分でやってた)とリンクさせようかな。
批判は勝手にしてて下さい。
あなたが考えるきっかけになってくれればいいだけですから。
良い意味でも悪い意味でも。
リンクさせる前に、お勧めしていたブログがおかしい事になっている事も
記事にしなきゃいけないでしょうね。
死を延ばすことはできても、避ける事はできない。
有意義に時間を使おうと思います。
二転三転してるかもしれませんが、
残りの時間は神様に仕へる事だけを考えてすごそうと思います。
一旦ここで切ります。