霞を食べて死ににいく. -19ページ目

霞を食べて死ににいく.

全ての存在にまつはる(調和)ことができるように、

身魂を磨いていきたいと思います。

自分以外の存在のために命ある限り、

力を尽くしていこうと思います。

>>第四帖 (二九五)
 幾ら誠申してもまことは咽喉へつかへて呑み込めぬから、誠の所へは人民なかなか集まらんなれど、今度の御用は臣民 沢山は要らんぞ。何もかも神が仕組みてゐるのざから、人民仕様とて何も出来はせんぞ、神の気概に叶はん人民は地の下になるのざぞ。神示わからねば一度捨て て見るとわかるのざぞ。六月二十日、アメのひつ九のかミ。


日月神示の柱の数だけの人がいれば、十分なのでしょうね。

>>第十一帖 (三〇二)
 今の法律 此の方嫌ひぢゃ、嫌ひのもの無くするぞ。凝り固まると害(そこな)ふぞ。此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。神の国と申すものは光の世、よろこびの世であるぞ。虫けらまで、てん し様の御光に集まるよろこびの世であるぞ。見事 此の方についてご座れ。手引ぱって峠越さしてやるぞ。六月二十五日、あめのひつぐのかみ。



此の道 中行く道と申してあるが、あれなら日津久の民ぞと世間で云ふ様な行ひせねばならんぞ。

この記述はお釈迦さまに通ずる記述だと思います。
中行く道というのが印象的です。


 >>第十六帖 (三〇七)
 火と水と組み組みて地が出来たのであるぞ、地(つち)の饅頭(まんじゅう)の上に初めに生えたのがマツであったぞ。マツはもとのキざぞ、松植へよ、松供 へよ、松ひもろぎとせよ、松玉串とせよ、松おせよ、何時も変らん松心となりて下されよ。松から色々な物生み出されたのぞ、松の国と申してあろが。七月一 日、あめのひつ九のかみ。




>>第二十四帖 (三一五)
 早く早くと申せども、立体の真道に入るは、小我(われ)死なねば、大我(われ)もなき道ぞ、元栄えひらき鳴る神、元にひらき成る神、元津神日の神、極み きわまりて足り いよいよ月の神はらみ交わりさかゆ、成りむつび、神々極まるところ、ひふみ、よろづ、ち、ももと、ひらく、歓喜の大道、神々更に動きひらき栄ゆ。元津神の ナルトの秘密、永遠に進み、いき、ひらき極む。元津大神かくりみ、次になる神かくりみのナルトぞ、富士栄え、火の運動き、うづまき鳴り、極みに極みて、地 また大地動き、うづまくぞ、真理なりて極まり、鏡の如くなり、極まりて、動きひらき、極まりて大道、遂に成るぞ。七月十日、あめのひつくのかみ。



ここにはこれからが書いてある気がします。
ここの記述にある、立体=この世の事、だと思います。

小我、大我の部分は無我の境地でしょう。


>>第二十五帖 (三一六)
 ムからウ生れ、ウからム生れると申してあるが、ウム組み組みて、ちから生れるのざぞ。今度の大峠はムにならねば越せんのざぞ。ムがウざぞ。世の元に返すのぞと申してあろが。ムに返れば見えすくのざぞ。風の日もあるぞ。七月十一日、アメのひつくのかみ。

ム(無)からウ(有)生れ、ウ(有)からム(無)生れると申してあるが、ウム(有無)組み組みて、
ちから生れるのざぞ、
今度の大峠はム(無)にならねば越せんのざぞ。ム(無)がウ(有)ざぞ。
世の元に返すのぞと申してあろが。ム(無)に返れば見えすくのざぞ


矛盾してるように見えるこの記述、無我の境地の事を言っているのでしょう。



日月神示に関する全体的な解釈として

富士晴れとはたぶん、物理的な事を指している事ではない。

二十四帖で少し書きましたが、立体=現界(この世)、の事。

二十五帖で思いましたが、やまと言葉の理解が急務な気がします。

その一字で何を意味するのかを理解する必要がある。

現代の言葉、意味、で理解しようとするのは危険な気がします。

ちなみにムの意味、牛が鳴く。牛の鳴き声が口から出る様子を表した文字です。
のんびりとした人柄。心優しく、周りの人を癒してくれます。

ウの意味、「宇」は「羽」であり、鳥の羽のように自らを多い、かばうのです。 また、はばたくことも表します。
さまざまなことの良い面を受け入れる才能があり、 それを自分のものとして新しいものを生み出す力を表します。

カタカナとひらがなでは意味が違うのですね。
参考にしたのはここです。

昔の外国語は漢字。

ひらがなは漢字からの成り立ちのようなので、これがやまと言葉ではない気します。

わかる方、教えて下さい。