なんやかんやでずっと考えてはいる。
戸籍変更や自身の身体を変えることは具体的に考えてはいないものの、変わりゆく友人を見るとなんだか「前に進んでる」と見えてしまって、「自分も…!」と思ってしまうのだけれど、とにかく第一優先は感情とかうんぬん抜きに「いかに合理的に生きるか」ということのはずだ。
どうにもこうにも自身の身体に嫌悪感、違和感、得体の知れない感情が渦巻いて生活が円滑でない、というレベルなら身体を変えて生きることが合理的であろう。
苦痛を取り除き、いかに"楽に生きるか"を考えた時にトランスすることなら、大いにやればいい。
それは"合理的な"話である。
が、それに比べ自身はどうであろうか??
結局のところ、冷静な判断として女の感性であるのは否めないし、恋愛の仕方こそ恋愛対象が女性で、そのアプローチや感情などが男性の方が近いというのは事実だが、感性とこれまで"女の立場で生きてきた"経験から、女の言ってる気持ちもなんとなく分かる。
結局、男の感性も女の感性も客観視している観が一番強いため、生き方の"合理的"を考えるなら、それは身体を変えることにはおそらくイコールにならない。
男装趣味のレズビアン、という立ち位置が結局近いのだろう。
それでも若気の至りで、遊びのフィールドで周りに気を使わせ、"彼"、"せむくん"と呼ばれていることに感謝と居心地の良さを感じている。
最近、やっと社会的に運動を起こしている方の気持ちが分かるようになってきた。
自身の仕事はずっと登録制の派遣バイトで、登録こそ女で割り振りも女の仕事をこなしてきたわけだが、だいたいの現場がチノパンに、スニーカーに、って感じだったので、女子女子しなくて良かったし、バーテンの時はカムアウトして、パスったりパスらなかったりしながら、"ていとしては"男で就業していた。
ここからも分かる通り、"自身が男であろうが女であろうが、仕事をこなせばそこにジェンダーはとやかく言われない"環境こそが、自身にとっては"合理的な"生き方なのである。
しかし、本当につい最近、もしかしたら自身の人生では初めてだったかもしれない。
「就業の際には男か女か分かる格好をすること」を指摘される経緯があった。
具体的にはシェアハウスの清掃バイト。
これも単発バイトだったが。
推定40~50代のオバちゃんに教わりながら就業、という初日に、服装は清掃が出来る格好、ということでデニムにパーカーの格好だったわけだが、「あなたは化粧しないの?」から入り、「男か女かわからないし、個性を出すような格好は仕事の時はしないこと」というような指摘を受けた。
もっともである。
これはこれで帰ってから冷静に一日を振り返り、受け止めたのだが、"そうか、世の中思った以上に男か女かってヤツは根強いんだな"と改めて感じたのである。
バーテンも単発バイトも、社会らしい社会ではなかったので、(抽象的な物言いだが、イベント関連や工場、バーなどだったためが主な理由だが)、いわゆる"普通の"社会は男や女かは如実である。
やり方は勿論ありそうだけれど。
初めはやはり"常識的に"女の装いをして、徐々に社会に馴染み、信頼が出来てきたら、徐々に中性へと傾いていく、など。
これも勿論、場所ごとに、会社、業界ごとに異なってはくるであろうが。
自身の理想は"お前が男か女かなんて関係ない。きちんと仕事をこなしてくれりゃあ別にそれでいい。"という環境や立ち位置である。
現実的にはそれは飲食店や水商売、個人経営のような場所が色濃いと思うのだが。
"社会での立ち位置で男か女かが仕事に関与すること以上に異常にカテゴライズされることを苦痛に感じている人々がいる"ということを知っているのが結局、"社会的に見て"狭い範囲でしかないから、こういった当事者の選択肢の幅が狭いわけで、社会運動を起こす人たちの意図はここにある、ということがやっと最近になって分かったのだ。
(とはいえ、自身の気持ちは中性、というか男か女かの概念をひとまず払拭して欲しい、が理想だが、実際に社会運動をされている方はむしろ、性別二分化はそのままでいい、という立ち位置で運動していそうだが。)
それが"当たり前"、"そういうもの"という頭に自分自身がなっていたものだから盲目的であったが、冷静に考えたら、たまたま"そういうアイデンティティであった"というだけで、ある種社会的な迫害を受けているのは暴力である。
どんな"個性"であっても迫害されるべきではない。
機会は平等に与えられるべきだ。
こういう意思なのだろう、社会運動をしている方々は。
本当にこういうことなんだと思う。
自身がどんな風に能動的に生きていくか、それを具体的に考えた時に社会とのコミットは不可欠で、そこに平等性が感じられなければ、それはやはり不公平である。
そんなことをちまりちまり。
いい加減、アルバイターでフラフラ遊び歩くのにも限界がある。
なんとなくやりたいことのベクトルは見えてきた。
絵は細々続けるにして就業は福祉を考えたい。
調べなければ、なんだけども。
"能動的に生きる"の本当の意味での実感を掴みつつあると、サラリーマンや会社員も捨てたもんじゃないかもしれない、と思い始めている。
それでも"自給自足"、"ノマドライフ"の夢は捨てきれないのだが笑
それは金稼いでまとまった額が出来た時にぼやくセリフか…笑
ま、なにはともかく、悩むは悩めど、
"生きてる"ってスバラシイ~~~
\(^o^)/
せむおさん
戸籍変更や自身の身体を変えることは具体的に考えてはいないものの、変わりゆく友人を見るとなんだか「前に進んでる」と見えてしまって、「自分も…!」と思ってしまうのだけれど、とにかく第一優先は感情とかうんぬん抜きに「いかに合理的に生きるか」ということのはずだ。
どうにもこうにも自身の身体に嫌悪感、違和感、得体の知れない感情が渦巻いて生活が円滑でない、というレベルなら身体を変えて生きることが合理的であろう。
苦痛を取り除き、いかに"楽に生きるか"を考えた時にトランスすることなら、大いにやればいい。
それは"合理的な"話である。
が、それに比べ自身はどうであろうか??
結局のところ、冷静な判断として女の感性であるのは否めないし、恋愛の仕方こそ恋愛対象が女性で、そのアプローチや感情などが男性の方が近いというのは事実だが、感性とこれまで"女の立場で生きてきた"経験から、女の言ってる気持ちもなんとなく分かる。
結局、男の感性も女の感性も客観視している観が一番強いため、生き方の"合理的"を考えるなら、それは身体を変えることにはおそらくイコールにならない。
男装趣味のレズビアン、という立ち位置が結局近いのだろう。
それでも若気の至りで、遊びのフィールドで周りに気を使わせ、"彼"、"せむくん"と呼ばれていることに感謝と居心地の良さを感じている。
最近、やっと社会的に運動を起こしている方の気持ちが分かるようになってきた。
自身の仕事はずっと登録制の派遣バイトで、登録こそ女で割り振りも女の仕事をこなしてきたわけだが、だいたいの現場がチノパンに、スニーカーに、って感じだったので、女子女子しなくて良かったし、バーテンの時はカムアウトして、パスったりパスらなかったりしながら、"ていとしては"男で就業していた。
ここからも分かる通り、"自身が男であろうが女であろうが、仕事をこなせばそこにジェンダーはとやかく言われない"環境こそが、自身にとっては"合理的な"生き方なのである。
しかし、本当につい最近、もしかしたら自身の人生では初めてだったかもしれない。
「就業の際には男か女か分かる格好をすること」を指摘される経緯があった。
具体的にはシェアハウスの清掃バイト。
これも単発バイトだったが。
推定40~50代のオバちゃんに教わりながら就業、という初日に、服装は清掃が出来る格好、ということでデニムにパーカーの格好だったわけだが、「あなたは化粧しないの?」から入り、「男か女かわからないし、個性を出すような格好は仕事の時はしないこと」というような指摘を受けた。
もっともである。
これはこれで帰ってから冷静に一日を振り返り、受け止めたのだが、"そうか、世の中思った以上に男か女かってヤツは根強いんだな"と改めて感じたのである。
バーテンも単発バイトも、社会らしい社会ではなかったので、(抽象的な物言いだが、イベント関連や工場、バーなどだったためが主な理由だが)、いわゆる"普通の"社会は男や女かは如実である。
やり方は勿論ありそうだけれど。
初めはやはり"常識的に"女の装いをして、徐々に社会に馴染み、信頼が出来てきたら、徐々に中性へと傾いていく、など。
これも勿論、場所ごとに、会社、業界ごとに異なってはくるであろうが。
自身の理想は"お前が男か女かなんて関係ない。きちんと仕事をこなしてくれりゃあ別にそれでいい。"という環境や立ち位置である。
現実的にはそれは飲食店や水商売、個人経営のような場所が色濃いと思うのだが。
"社会での立ち位置で男か女かが仕事に関与すること以上に異常にカテゴライズされることを苦痛に感じている人々がいる"ということを知っているのが結局、"社会的に見て"狭い範囲でしかないから、こういった当事者の選択肢の幅が狭いわけで、社会運動を起こす人たちの意図はここにある、ということがやっと最近になって分かったのだ。
(とはいえ、自身の気持ちは中性、というか男か女かの概念をひとまず払拭して欲しい、が理想だが、実際に社会運動をされている方はむしろ、性別二分化はそのままでいい、という立ち位置で運動していそうだが。)
それが"当たり前"、"そういうもの"という頭に自分自身がなっていたものだから盲目的であったが、冷静に考えたら、たまたま"そういうアイデンティティであった"というだけで、ある種社会的な迫害を受けているのは暴力である。
どんな"個性"であっても迫害されるべきではない。
機会は平等に与えられるべきだ。
こういう意思なのだろう、社会運動をしている方々は。
本当にこういうことなんだと思う。
自身がどんな風に能動的に生きていくか、それを具体的に考えた時に社会とのコミットは不可欠で、そこに平等性が感じられなければ、それはやはり不公平である。
そんなことをちまりちまり。
いい加減、アルバイターでフラフラ遊び歩くのにも限界がある。
なんとなくやりたいことのベクトルは見えてきた。
絵は細々続けるにして就業は福祉を考えたい。
調べなければ、なんだけども。
"能動的に生きる"の本当の意味での実感を掴みつつあると、サラリーマンや会社員も捨てたもんじゃないかもしれない、と思い始めている。
それでも"自給自足"、"ノマドライフ"の夢は捨てきれないのだが笑
それは金稼いでまとまった額が出来た時にぼやくセリフか…笑
ま、なにはともかく、悩むは悩めど、
"生きてる"ってスバラシイ~~~
\(^o^)/
せむおさん
