晩年の祖父 | ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達

晩年の祖父

八月になりました。毎年のことですが、これから六日の広島の日、九日の長崎の日、十五日の終戦の日と続きます。私は昭和29年の戦後生まれですが、やはり八月には特別な感慨を呼び起こすことが多くなります。花火を見ても、青々とした水田を見ても、夏休みの子供たちを見ても……。歴史、戦争、政治、それらを議論するのは、別の機会にしましょう。私にとって、八月が呼び起こす特別な感慨とは「もののあわれ」ですから。

 

このブログでは、『赤道を横切る』を紹介してきました。1936(昭和11)年、鳳山丸を貸し切って、台湾の実業家たちが南洋諸国を周遊した時の旅行記です。それを著わしたのが私の祖父三巻俊夫です。当時の台湾の実業家たちの楽天的な気概、今の時代となんら変わることのない日本人の行動様式を紹介したくて、不定期に掲載してきました。昭和11年当時の三巻俊夫は、まさに絶頂期でした。

 

今日は戦後の三巻俊夫について書かれた小文を紹介したいと思います。昭和56年に三巻俊夫の三女大賀諧子が『台倉会々報』に寄せた『晩年の父』という一文です。時代の激変、戦争と政治の荒波を記述した『平家物語』の書き出しも「もののあわれ」です。300万人以上の日本人同胞が亡くなった太平洋戦争という激動の歴史の片隅で、植民地台湾の発展に人生を捧げた祖父に対する思いを問われれば、やはり「もののあわれ」と表現せざるをえません。

 

文末の川柳。一句目、台湾時代の豊かな生活が戦後は一変し、つつましく暮らしたと言います。祖母が駄菓子屋を営み、その帳簿を祖父がチェックするのですが、台湾銀行時代の癖で一銭でも合わないと我慢できなかったそうです。二句目。「淡水」とは台湾で最も古い淡水ゴルフ倶楽部(現在の台灣高爾夫倶楽部)のことで、祖父はその設立に携わりました。イギリスからゴルフの専門誌を取寄せ、プレーにも大変熱心だったそうです。三句目、戦前から家ではほとんど話をしなかったと言います。外での話好きと、内での無口。これは我が家系の遺伝かも知れません。

 

昭和20年5月31日の台北大爆撃以来、築地町の家が爆風でいたみました。父はそれから変身、毎日のように煉瓦を運んだり、ガラスの破片を片づける姿が目立ちました。北投(台北郊外の北投温泉のこと)に母が疎開しており、家を直す半年間、満員の気動車にゆられたり、トラックに乗せてもらったり、それはそれは大変なことでした。終戦になってからの父は、中国の方もみえ、四月までどうにか過ごせました。帰化しても台湾に残ると申しておりましたが、急に「一週間で引き揚げる」と言われ驚きました。三十数年住みなれた築地町の家も手放すことになりました。基隆の倉庫の中での二泊は、父の涙、涙でくやしさ一杯だったと思います。東京の初台に次兄夫婦が住んでおりましたので、両親と私と弟の四人でそこへ引き揚げました。すぐにはこれといった仕事もなく、台湾協会の発足に力を入れたと思います。週に何日かは協会に行ってましたが、他の日は市電で東京中の路線を何ヶ月もかかって走りまわったり、美術館、動物園、植物園、デパートの催物展、近郊の名所旧跡を何年もかけて楽しみ歩いていたようです。
家にいる時は、朝夕必ずお謡をうたって声を出していました。貸本屋であらゆる本を借りては読み飽きることがありません。百坪の庭を畑にして、地下足袋をはいて、隣組の農家のおじさんを先生にして、野菜作りを教えてもらっていました。何年もたたぬうち、トマト、キュウリ、ナスなどそれは見事な収穫でした。
母は74歳で注射のショックで亡くなり、その後4年足らずで、父もすっかり体が弱り、丸一年寝たきりでした。三番目の兄と私、弟が交代で初台まで通って、夜は寝ずの看病をしました。84歳で亡くなりはや21年たちました。両親は青山墓地で、長兄、次兄夫婦と賑やかに語り合っていることでしょう。
私たちも親孝行したい時には親はなしで、若い頃は何もしてあげられなかったことが、くやまれます。せめて温泉くらいには一緒に行きたかったと思います。
父を偲び、川柳を三つ
 家計簿が一銭あわず夜なべする
 淡水で鍛えた体、長持ちし
 家にいて声を出すのは謡だけ
 とも子