ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達
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麦の穂をゆらす風:答えのないものを問い続ける営為


麦の穂をゆらす風
The Wind That Shakes the Barley
監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァーティ
製作:レベッカ・オブライエン
製作総指揮:アンドリュー・ロウ、ナイジェル・トーマス、ウルリッヒ・フェルスベルク、ポール・トライビッツ
出演:キリアン・マーフィー、ポードリック・ディレーニー
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:バリー・アクロイド
編集:ジョナサン・モリス
2006年 英・愛・独・伊・西合作

題名だけ読んで、ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝を主人公にした連続テレビ小説『マッサン』とか、その主題歌『麦の唄』と、混同しないでいただきたい。確かに「麦(大麦)」という単語に共通点はあるが、『マッサン』はスコットランドだ。『麦の穂をゆらす風』の舞台は、アイルランドだ。

われわれ日本人は、どうしてもイギリスという言葉から、イギリスという国を(勝手に)誤解しているところがある。アメリカ人に「アメリカ(America)」と言ったら通じるし、ドイツ人に「ドイツ(Deutsch)」と言ったら、まあちょっと苦しいが、通じるだろう。

しかし、イギリス人に「イギリス(強いて言えばEngland)」と言ったら、だいたい変な顔をされるはずだ。われわれが、イギリスと言っている国は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国のことであり、通常は連合王国(The United Kingdom)と呼ばれる。いまだにイギリス人は、それぞれの出身地に強い帰属意識があり、「イギリス」などと言われると、むきになって、「いいえ、スコットランドです!」とか「ウェールズだ!」などと反駁されてしまう。

それでも、グレートブリテン島に属する、イングランド、スコットランド、ウェールズならまだ良い(いや、そこにも独立運動は根強く存在しているのだが)。アイルランド島の北側(北アイルランド)」になると、話はさらに複雑に、そしてさらに苦しく、悲しくなる。なぜなら、われわれが「アイルランド出身」として語っている有名人は、ある人は北アイルランド(すなわちイギリス)出身であり、ある人はアイルランド共和国出身だからだ。前者で思い浮かぶのは、フルートのジェームズ・ゴールウェイであり、後者はピーター・オトゥールだ。

アイルランド島というひとつの島が故郷なら、そこの出身者はアイルランド人ではないか。朝鮮半島というひとつの半島が故郷なら、それは朝鮮人ではないか。人間の帰属意識が、複雑で、苦しく、そして悲しいものであることを、われわれ日本人は、どれほど理解できているだろうか。いや、わが日本だって、かつては、それを八州(やつしま)と称したし、さらに北海道や沖縄まで加わっているのだ。

この複雑で、苦しく、悲しい問題は、映画(少なくても興行を目的とした商業映画)には相応しくないテーマだ。エンターテインメントとは、対極に位置している。一方で、それが歓声をもって受け入れられるような場合には、逆に恐ろしい。既にプロパガンダに堕していると言えるだろう。

それでも商業的成功など見込めない作品を作らねばならないと、決然と立ち上がるには勇気が必要だ。ケン・ローチは、21世紀の現在、世界中の映画人を見渡して、そのような決然とした勇気を持っている数少ない映画人だ。自他ともに認める「左翼」映画人である。イデオロギー的に左派という映画人は数多い。しかし、ケン・ローチは、そのフィルモグラフィーすべてが左派である、それも極左と言ってもよいほどの左である。信念を曲げなかったため、脂の乗った40歳代の期間、作品を発表することができなかった。

ケン・ローチがすごいのは、粘り強く彼の信念を支持する人々や組織をまとめ上げ、国際的なシンジケートを作り上げた(犯罪的な意味ではない)ことだ。そして、老境に入ってからも衰えを知らないペースで作品を発表し、90歳になる現在もそれは続いている。

映画の舞台は、20世紀初頭のアイルランド南部の田舎町コーク。実際にコーク出身の俳優キリアン・マーフィーが、主役を演じている。IRA(アイルランド共和軍:Irish Republican Army)で反英活動をするリーダー格の兄と弟(キリアン・マーフィー)の物語。英国軍の凄惨な拷問に屈することなく独立運動を推進する兄の背中を追いながら、もともとは医師志望の秀才青年だった弟も、やがて一人前のゲリラ兵士に変貌していく。

二人の関係に転機が訪れるのが、1921年のイギリス・アイルランド(英愛)条約の締結だ。英国王を国家元首に頂く自治領「アイルランド自由国」が成立したが、この妥協的な解決を良しとするグループと、あくまで共和国としての独立を目指すグループに、アイルランドは分断される。兄は前者に、弟は後者に属することになる。そして、非合法活動の罪で、弟を捕らえた兄は、自らの手で、弟を銃殺刑に処することになる……。

この作品は、「左翼的」と評されているが、絶対的な正義も悪も描かれない。そのかわりに、ゲリラ活動にはつきものの、内ゲバやリンチ、処刑などはこれでもかと描かれる。英愛条約は、政治的妥協の産物だったのだろうか。英愛条約によってもたらされた平穏を良しとした兄は、ニセモノの共和主義者だったのだろうか。兄から離れ、過激な活動に突っ走った弟は、結局ただの狂犬だったのだろうか。

ケン・ローチは、答えを提示しない。ケン・ローチがたどり着いた「革命」とは、答えのないものを問い続ける営為のことだ。「これが正解だ」「これが正義だ」と声高に連呼するのは、すべて、独裁者である。そして独裁者は、すべてニセモノである。「革命」とは、ゴールではなく、プロセスである。正解のない問いを考え続け、行動し続けることは、結局は独裁よりもはるかに平和的であるという逆説。このパラドックスに世界中の人が気づくまで、老いた革命家は戦い続けるぞ! ケン・ローチの鬼気迫るメッセージが、アイルランドの大地を覆う大麦の穂をゆらす風のように吹き抜ける。

 

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第381回定期演奏会


2025年9月6日 14:00
東京オペラシティ コンサートホール
ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」(演奏会形式:1884年イタリア語版・全4幕)
指揮:高関健
フィリポ2世:妻屋秀和
ドン・カルロ:小原啓楼
ロドリーゴ:上江隼人
宗教裁判長:大塚博章
エリザベッタ:木下美穂子
エボリ公女:加藤のぞみ
修道士:清水宏樹
デバルド:牧野元美
レルマ伯爵:新海康仁
合唱:東京シティ・フィル・コーア
合唱指揮:藤丸崇浩
副指揮:松川智哉
コンサートマスター:荒井英治

大変私的なことを書いて申し訳ない。
昭和43(1968)年の夏休み。当時、中学2年だった僕は、夏休みを読書三昧に費やすことに決めた。乱読であり濫読であった。芥川、太宰、安部公房、早川ミステリー、映画に触発されて『ベン・ハー』の原作……枕元に本を積み上げ、まさに獺祭(だっさい)状態であった。(カワウソが獲物の魚を岩場に並べるのを、文人が読みかけの本を枕にして寝ている図になぞらえたもの)

それらの中に、その年に出版され一躍ベストセラーになった『どくとるマンボウ青春記』もあった。今でも思い出す。前景には満開の山桜、遠景には「うすあおい岩かげ」を映す山なみの表紙、あれは北杜夫が学んだ旧制松本高校から遠望されたアルプスだったのだろうか。

僕は『青春記』に夢中になった。北杜夫は松本高校から東北大医学部に進んだものの、文学への思いを断ち切ることが出来ず、自堕落な学生生活を送っていた。そんな自分を、マンの初期の短篇『トニオ・クレーゲル』に重ねる場面。そこに、長い引用が出てくる。14歳の少年ながら、芸術に憧れ、メランコリックなトニオが、同級生で明るく快活な美少年ハンスに魅せられ、親友になりたくてたまらずに誘う場面。

トニオが、熱をこめてハンスに語るのが、シラーの『ドン・カルロス』だ。しかも、トニオは、主人公のドン・カルロやロドリーゴではなく、敵役のフィリポ2世に深く共感すると力説する。「……王様のほうがかわいそうだと思うよ。いつでもたったひとりぼっちで、誰にも愛されていないところへ、今やっと一人の人間を見つけたと思うと、その人が裏切りをするんだからな……」(実吉捷郎訳)。ハンスは、トニオが何を言っているか理解できず、困惑するのだった。

中学2年の僕は、トニオ・クレーゲルに自分を重ね、そしてフィリポ2世にも深い同情を寄せた。悩み多き、そして自意識過剰な思春期を過ごしながら、大学では文学とも芸術とも縁がない、理学部で化学を学ぶこととなる。そして、大企業に就職し、あえて文学にも芸術にも興味がない風を装いつつキャリアを重ねた。

僕は既に古希を迎えている。本当の自分に戻るには、もう遅すぎるのだろうか。合格発表を恐るおそる見に行くような感じで、東京オペラシティに足を運んだ。なぜ、シラーは『ドン・カルロス』を書いたのだろうか。それに触発されて、なぜヴェルディは『ドン・カルロ』を作曲したのだろうか。そして、トーマス・マン(トニオ・クレーゲル)は、なぜ『ドン・カルロ』に深く感動したのだろうか。

僕は、DVDでカラヤン指揮の『ドン・カルロ』(1986年版)を観ている。高関健はプレトークで、師匠であるカラヤンが繰り返し『ドン・カルロ』をとり上げていたと語っていた。『ドン・カルロ』は、公演が難しい演目だ。設(しつら)えが大がかりだ。オーケストラピット以外に、バンダ(別動隊のブラスバンド)も用意しなければならない。カラヤンですら、上演に際しては全4幕の短縮版(今回と同じ)を使用しているし、公演によってはバンダの部分は録音したテープで代用して、予算を削ったこともあったとか。そうまでして……カラヤンもまた『ドン・カルロ』に魅せられてしまったひとりなのだ。

第3幕、マドリードの王宮の書斎で、フィリポ2世が歌う長大なアリオーソ(「ひとり寂しく眠ろう」)。王妃(エリザベッタ)には一度も愛されたことがない。息子(ドン・カルロ)にも裏切られた。そこから、権力者の孤独を嘆き、国家のはかなさにまで思いを致すのである。最初はホルンによって奏でられ、やがて弦パートに引き継がれて執拗に繰り返される、あの音型。日本人である僕の耳には「しょっぼーん」「しょっぼーん」と響いてくる(笑)

フィリポ2世(妻屋秀和)のアリオーソに涙が流れた。「ブラーボ!」。僕だけでなく、会場の何か所からか同時に、声が上がり、しばらく拍手が鳴りやまなかった。

僕は、ずっと自分のことを、孤独なトニオ・クレーゲルだと思い込んでいた。しかし、古希まで馬齢を重ねて、それは単なる自意識過剰だったとようやく気づいた。そして、あらためて北杜夫に感謝した。心に『ドン・カルロ』を秘めて人生を歩むことができて良かった。


 

高島野十郎展:千葉県立美術館


8月31日に放送されたNHKの日曜美術館『寫実(しゃじつ)の極致~それを慈悲といふ~高島野十郎』を観て、どうしても彼の絵を見たくなり、千葉県立美術館に足を運んだ。百数十点の作品が一堂に展示されている、本格的な回顧展だ。なんと、65歳以上は、入場無料であった。

作品を数点鑑賞しただけで、感嘆した。
「なんでも描ける人だな」
アルブレヒト・デューラーに傾倒したとか、ゴッホに影響を受けたとか、岸田劉生に感化されたとか、青木繁らと交流したとか……説明には書かれている。
しかし、それらひとつひとつが真似事の「習作」などではなく、血の通った立派な「作品」として完成しているのだ。

久留米の裕福な家庭に生まれ、明善中学(旧久留米藩校)卒業後、東京美術学校を目指すも親に反対され、第八高等学校(名古屋)理乙(ドイツ語を専修する理系)を経て、東京帝国大学農科大学水産学科に進み、首席で卒業。「なんでも描ける」どころではなく、「なんでも出来る」人だったのだ。大学時代のノートなど、まるで万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の趣きすらある。

一方で、絵画については、正規の教育を受けたことはなく、アカデミア(学閥)とか画壇といった権威主義的な世界には近づかなかった。生前はほとんど無名で、生涯独身を通し、清貧と言うべき暮らしぶりだったという。掘っ立て小屋のようなアトリエにいる時は野良着姿で「晴耕雨描」とうそぶいていたが、街に出る時には紳士然と装い、歌舞伎を愛する通人の面も併せ持っていた。

高島野十郎は、独自の芸術を追求した。生きた時代は20世紀だが、彼の作品からは、モダニズムは感じられない。キュビズムやフォーヴィズムどころか、印象派の匂いすら感じられない。あるものは、デューラーの時代を思わせ、蠟燭の炎を描いた連作などは、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光と陰の世界を感じる。花や静物を描いた作品は、17世紀のオランダやフランドル地方の画家たちの手による静物画のようだ。

それらの作品を「写実」と言って良いのだろうか。月も、花も、炎も、風景も、寺院も、高島野十郎の作品には、どれも迫真の「質感」がある。だが、彼が追求したのは、おそらく20世紀的な社会主義リアリズムとは、真逆のものだろう。表面的な「迫真」ではなく、彼はその底にある内的世界を目指したのだと思う。死後に残された手記には、「写実の極致は慈悲」だと書かれていたそうだ。

その生き様は、『方丈記』の西行にも似ている。慎ましい生活と見せて、独自の美学があり、ダンディズムがある。ゆっくりと、時間をかけて展覧会を巡りながら、僕の耳には、ドヴォルザークの最高傑作といわれる『交響曲第8番』がなぜか聞こえ続けていた。高島野十郎が晩年をすごした千葉県柏の風景に、ボヘミア的で田園的な印象をもつ音楽が、呼応するかのように。


 

存在の耐えられない軽さ:この世界の片隅に


存在の耐えられない軽さ
The Unbearable Lightness of Being
監督:フィリップ・カウフマン
脚本:ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン
原作:ミラン・クンデラ
製作:ソウル・ゼインツ
製作総指揮:ベルティル・オルソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ
音楽:レオシュ・ヤナーチェク
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
編集:ウォルター・マーチ
1988年 アメリカ映画

アルフィー』で予告したように、僕は今『存在の耐えられない軽さ』について、書いている。
『アルフィー』は、『存在の耐えられない……』の魁(さきがけ)となる作品だと思う。しかし、それはバプテスマのヨハネとイエス・キリストとの関係に似て、比較しようとして比較できるものではないことも、確かである。

『存在の耐えられない……』も、『アルフィー』と同じく、女たらしの男が主人公だ。冷戦時代のチェコスロバキアの首都プラハに住む、腕利きの外科医トマーシュ。ロンドンに住むアルフィーを誰も知らないのと同じく、プラハのトマーシュもまた、歴史に刻まれることなく生まれ、死んでいった。そういう意味で、アルフィーもトマーシュも、「この世界の片隅に」に生き、そして死んだ男たちだ。

まず、トマーシュ役のダニエル・デイ=ルイスの演技に注目したい。肉体的な快楽に身を任せているように振る舞いながら、観念の世界でしか生きることができないインテリゲンチャを見事に演じている。この作品の撮影時は弱冠30歳そこそこだが、その後、『ラスト・オブ・モヒカン』(1992年)では、誇り高きアメリカ・インディアンを演じ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002年)では、凶暴な移民ギャング団のリーダーを演じ、ついには、『リンカーン』(2012年)では、ついにアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンを演じることになる。いずれの役においても、役柄が憑依したかのような迫真の演技を見せてくれる。それが自分でも恐ろしくなったのであろう、近年はことあるごとに俳優引退を表明している。

本作品において、女たらしを自認するトマーシュは、「3という数字のルール」を自らに課している。一人の女に夢中になったと感じたら、続けて会うのは3回までにしなければならない。あるいは、長く交際しようと思えば、逢瀬の間隔は、3週間の間をおかなければならない。

トマーシュは、腕の良い外科医だ。「プラハの春」の時、チェコスロバキアがソ連によって制圧された時には、医学会で知己となったスイスの友人が、亡命の手助けをしてくれる。インテリゲンチャであり、人間関係も国際的な広がりを持っていながら、「性愛的友情」においては、そのような子供じみたルールを自らに課して、快楽を追い求めながら、トマーシュは生きている。

ある時、トマーシュは、地方の病院で出張手術をすることになる。田舎町のカフェで、トマーシュは、そこでウエイトレスをしているテレザを、特に思い入れることもなく、いつものように軽い気持ちで誘惑する。ところが、一度きりの逢瀬のはずが、テレサは家出して、プラハまでトマーシュを追ってくる。

トマーシュの魂のパートナーとなるテレザを演じるジュリエット・ビノシュもまた素晴らしい。最初のベッドシーンで、惜しげもなく腋毛をさらしてくれる。生命力に溢れ、性欲に正直な田舎娘を表現するのは、演技力ではなく肉体そのものだというように。一方で、プラハのトマーシュの部屋を訪ねてきた時に小脇に抱えているのが、『アンナ・カレーニナ』である。なんという可愛らしさであろうか。

トマーシュは、テレザの一途な愛にほだされて、結婚してしまう。しかし、他の女性との「性愛的友情」はそのまま継続している。たとえば、女流画家サビナとの関係は、テレザよりもはるかに長い。身寄りもいないプラハに出てきたテレザの仕事探しを、トマーシュは、サビナに頼む。姉御肌のサビナは、テレザを親身になって助けながら、不思議な関係を築いていく。

「プラハの春」を契機として、一度はスイスに逃れたトマーシュとテレザだったが、故郷の大地に根ざしたようなテレザに、スイスの生活は耐えがたかった。二人は、圧政下のチェコスロバキアに戻る決心をする。過去には国際的な名声を得ていた外科医のトマーシュが得た仕事は、なんと窓ふき人夫だった。

プラハでの都会生活に見切りをつけたトマーシュとテレザは、集団農場で暮らし始める。そこで、二人はつかの間の安息の日々を見出すのだった。トルストイの『戦争と平和』において、生と死、愛憎、運命に翻弄され続けたピエールとナターシャが、大団円において、田園生活の中で安息と愛情に溢れた生活にたどり着いたように……。

この世界の片隅に』で描かれていたのは、市井に暮らす、ごく普通の人々だ。ある時は喜び、ある時は悲しみ、ある時は性愛に溺れ、ある時は愛しながらも反発し合い、再び和解して涙を流して抱きしめ合う。それは、激動する世界情勢の嵐の中にあっては、荒海に翻弄される小舟の中の出来事でしかない。

しかし、われわれが生きていることの真実は、その荒海に翻弄される小舟の中にしか存在しないのではないか。ナポレオン戦役を舞台にした『戦争と平和』のピエールとナターシャ。ロシア革命を舞台にした『ドクトルジバゴ』のジバゴとラーラ。プラハの春を舞台にした『存在の耐えられない軽さ』のトマーシュとテレザ。それぞれの主人公、男と女は、なんと気高く美しいのだろう。

トマーシュとテレザの命は、チェコの田舎道で、おんぼろトラックのブレーキが故障したために、自爆事故によって、一瞬の内に絶たれてしまう。その場面は、描かれていない。原作においても、映画においても、その前夜の田舎の安酒場でのダンスパーティーが、印象深く描かれるだけだ。

トマーシュの一生とは何であったのか。外科医として嘱望されたキャリアを奪われたのではない。貧しい衣食住のどん底に突き落とされたのではない。彼は、すべてを「得た」のだ。テレザの愛を得たのだ。悪意も打算もない友を得たのだ。

興行的に大成功した作品ではない。しかし、僕にとっては「珠玉」の名作だ。
 

アルフィー:存在の耐えられない軽さ


アルフィー
Alfie
監督:ルイス・ギルバート
脚本:ビル・ノートン
原作:ビル・ノートン
製作:ルイス・ギルバート
出演:マイケル・ケイン
音楽:ソニー・ロリンズ(主題歌:バート・バカラック)
撮影:オットー・ヘラー
編集:セルマ・コネル
1966年 イギリス・アメリカ映画

予告しておくと、僕はまずこの作品『アルフィー』について語った後、あわせて『存在の耐えられない軽さ』についても語りたいと思っている。
大それたことを言うつもりはないが、2つの作品は、ニーチェの≪永劫回帰≫に触発されているという点において、共通しているからだ。≪永劫回帰≫とは、恐ろしく、美しく、そして崇高であると、『存在の耐えられない軽さ』の冒頭で著者ミラン・クンデラが語っているが、その意味を正確に伝えるには、人間の愚かさ、醜さ、弱さを描くしかないという点で、『アルフィー』と『存在の耐えられない軽さ』という2つの映画は、同じアプローチをしていると思うのだ。

『アルフィー』は、女たらしの男の話である。プレイボーイ、ドンファンなどの言葉もあるが、女たらしが一番ぴったりと来る。アルフレッド(アルフィー)・エルキンスは、典型的なコクニーである。身分社会が厳然として存在するイギリスで、彼はまぎれもない下層民である。喋る言葉はロンドンの下町訛り(コクニー)、話す内容は教養のかけらもなく、職業は運転手である。自慢といえば、自分がトラックの運転手ではなく、ロールスロイスの運転手だというだけだ。身だしなみには気を使っているが、そのいでたちは、うわべだけの、まるでデビュー当時のビートルズだ。

そんなアルフィーが、60年代のロンドン市中を闊歩する。その美しいこと! 当時のロンドンが整然としているわけではない。むしろ逆である。雑然として、混沌として、不潔で、猥雑である。しかし、だからこそ楽園ではないか! 清潔で道徳的な都市のどこに魅力があるというのか。

そのロンドンを舞台に、アルフィーは、タガが外れたごとく、無節操に女漁りを繰り返す。人妻、家出娘、入院すれば看護婦、見舞いに来た同室の患者の妻、金持ちの年上女……。ただし、どの女にも深入りはしない。妊娠しても責任をとらない。出産した女は別の男と結婚させ、また別の女は無理やり堕胎させる。

軽薄で無責任なアルフィーを、若かりしマイケル・ケインが、伸び伸びと演じていて見事だ。人間の愚かさ、醜さ、弱さを徹底的に描くことによって、真実に近づくことができる。それこそ、シェイクスピアに代表されるイギリスの伝統だろう。映画においては珍しいが、『アルフィー』では、「傍白(aside)」の手法が使われる。まるで『ハムレット』の舞台のように、自分の心の内を観客に向かって語りかけてくるのだ。

傍若無人に女たらしの限りを尽くした後、アルフィーにも常識の影が差す。自分の血をひく赤ん坊への愛情であったり、落ち着いた家庭生活への憧れであったり……しかし、それらは無残に裏切られてゆく。

そこで、映画を観ている僕たちは、気づかされるのだ。アルフィーこそ、われわれの愚かさ、罪深さの分身なのだと。常識と聖人君子の皮を剝ぎ取れば、われわれは皆、アルフィーなのだ。古今東西を問わず、王侯貴族だろうが、下層民であろうが、金持ちだろうが、貧乏だろうが、男だろう、女だろうが、変わるところはない。

人間が現世で犯した罪は、死によって許されるのか。あるいは、信仰の深さによって、天国と地獄に振り分けられるのであろうか。ニーチェが提示したように、「個」などは宇宙においては無意味であり、生命は時空を超えて、≪永劫回帰≫を繰り返しているだけなのではないか。だとすれば、われわれは誰もが皆、所詮はアルフィーではないか。

そう考えると、ただのラブソングだと思っていたハル・ディビッドの『アルフィー』の歌詞が、やけに哲学的に胸に沁みてくる。

As sure as I believe there's a heaven above, Alfie,
I know there's something much more,
Something even non-believers can believe in.
I believe in love, Alfie.
Without true love we just exist, Alfie.
Until you find the love 
you've missed you're nothing, Alfie.
When you walk let your heart lead the way
And you'll find love any day, Alfie, Alfie.


もちろん空には天国があると信じているわ、アルフィー
でも、それよりも何かもっと大きなものがあるはず
神様を信じていなくても信じられる何かが
それは愛だと思うの、アルフィー
私たちは、愛などなくても生きていけるわ、アルフィー
でも自分が大切なものを持っていないと気づくことができれば、アルフィー
あなたは本当の愛を見つけられるはず
いつだってあなたは本当の愛を見つけられるのよ、アルフィー、アルフィー

 

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