ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達
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東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団50周年記念特別演奏会:マーラー『復活』


東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団50周年記念特別演奏会
2026年3月31日 19:00
サントリーホール 大ホール
グスタフ・マーラー:交響曲第2番ハ短調「復活」
指揮:高関健
ソプラノ:森野美咲
メゾ・ソプラノ:加納悦子
合唱:東京シティ・フィル・コーア
合唱指揮:藤丸嵩浩
コンサートマスター:戸澤哲夫

東京シティ・フィルの50周年記念特別演奏会も今宵のマーラー交響曲第2番「復活」をもって、大団円だ。
この日、コンサートが始まる前の東京は、風雨の激しい春の嵐だった。
それにもかかわらず、サントリーホールは、東京シティ・フィルを愛するファンで満員だった。
オーケストラがひしめき合う東京で、試行錯誤や方向変換を繰り返しながら、故飯森泰次郎の導きによって、ようやく路線が定まった。
これから始まる次の50年で、東京を代表するオーケストラになると、団員は意を固くしていることだろう。
僕はひとりのファンとして、定点観測を続けるつもりで、末永くコンサートに足を運びたいと思う。

高関健は、プレトークで自らの『復活』愛を語っていた。
大編成のオーケストラ、ソロ歌手、合唱団、最後はパイプオルガンまで登場するこの作品を演奏するには、「予算」も「ハコ(会場)」も必要だ。
それゆえ『復活』を指揮する機会は、それほど多くはないはずだ。
前回のマーラー『悲劇的』とあわせ、高関健は本当に恵まれていると思う。

僕は、演奏を聴きながら、『復活』の意味を考えていた。
『復活』は、ドイツ語の"Auferstehen"、英語では"Resurrection"だ。
言うまでもなく、イエス・キリストの復活である。
日本人は、イエスが磔刑によって死んでから3日後によみがえったという部分にとらわれがちだ。
しかし、イエスの復活は、"Revive"でも"Reborn"でも、ましてやゾンビでもない。
イエス自身が語っているように、それは種子が地に落ちて、再び芽吹き、花が咲き実をつける生命の営みなのだ。

第1楽章の「英雄の葬送」は、確かにハンス・フォン・ビューローの死に触発されたものかもしれない。
しかし、「英雄」は、イエス・キリストに他ならない。第2楽章の得も言われぬ温和な足どりは、僕にとって「エマオへの道」以外の何ものでもない。
第3楽章には、『こどもの不思議な角笛』から『魚に説教するパドヴァの聖アントニウス』が登場する。
聴衆を魚になぞらえるマーラーの諧謔だろうか。いや、マーラーは自身がたどり着いた「真実」を聴衆と共有したかったに違いない。
第4楽章の『原初の光』、そして第5楽章のクロプシュトックの詩による『復活』……この音の洪水こそ祝福でなくて何であろう。

交響曲第2番の初演後、数年後の1897年にマーラーは、自分の出自であるユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。
ウィーンの楽壇で本格的に活躍するためだったと言われているが、そうだったのだろうか。
そんな下世話なことではなく、マーラーは思索の果てに『復活』にたどり着いていたのではないだろうか。
それとも、マーラーは巧妙かつ慎重に、自らの改宗へのプロセスを準備していたのであろうか。

僕は、『復活』を聴き終えて、ブラーボの連呼の中で、東京シティ・フィルの次の50年に向けた門出にふさわしい選曲だったなと思った。
サントリーホールから出ると、雨は上がっていた。


 

赤い殺意:昭和30年代の仙台の貴重な映像記録


赤い殺意
監督:今村昌平
脚本:長谷部慶次、今村昌平
原作:藤原審爾
出演:春川ますみ、西村晃、露口茂
音楽:黛敏郎
撮影:姫田真佐久
編集:丹治睦夫
1964年 日本映画

後にカンヌ映画祭パルムドールに輝く『楢山節考(1983年)』や『うなぎ(1997年)』を監督することになる今村昌平のスタイルが確立したのは、『にっぽん昆虫記(1963年)』と『赤い殺意(1964年)』だと言われる。
左幸子の演技が高く評価された『にっぽん昆虫記』の知名度が高いが、僕は『赤い殺意』こそ今村昌平の最高傑作だと思う。
彼が「基層心理」と呼ぶ地方々々に存在する独特の土着的感性。

そして、人間が動物である以上、逃れることができない生殖の本能。
理性(大脳)に従って生活していると信じている人々が、実は土着感性に縛られ、性欲に翻弄される……これこそ、今村昌平ワールド。彼の言葉を借りれば「重喜劇」だ。

『赤い殺意』の舞台は、昭和30年代後半の仙台だ。
藤原審爾の原作では「とある東京近郊」だったのを、あえて仙台に移している。
東北6県の中心、宮城県の県庁所在地といえども、当時の仙台には「とある東京近郊」とは比べ物にならないほど「土俗」が残っていたのだろう。
凝り性の今村は、撮影前に仙台に住む10数軒の家族にインタビューして、生活の実態を調査したという。
家族観、親戚関係、近所づきあいなど、東京とは異なる仙台独特のそれらを作品に散りばめたいと思ったのだろう。

主人公・貞子を演じる春川ますみが素晴らしい。
『にっぽん昆虫記』の松木とめ(左幸子)が浅黒く引き締まった肉体を持っていたのに対し、『赤い殺意』の高橋貞子(春川ますみ)は白く豊満な肉体だ。
松木とめは、家を飛び出し男性遍歴を重ね最後は売春宿の経営に成り上がる……男を食いながら生きるたくましいメスカマキリ(にっぽん昆虫)だった。
それに対し、高橋貞子は横暴な夫に逆らうこともせず、その夫が出張で不在の夜に押し入った男に強姦され、その男にストーカーのように付きまとわれ、好悪のはざまで男と肉体関係を続ける。
ストーカーの男が自滅的に死ぬと、何食わぬ顔で夫のもとに戻るが、平穏に暮らしているようで着実に自立の道を歩み始める……これまた別種のにっぽん昆虫なのである。

春川ますみといえば、その後、東映の『トラック野郎』シリーズにおいて、やもめのジョナサン(愛川欽也)の妻・松下君江を演じた。
ジョナサンが長距離運転から疲れ果てて帰ってくると、生卵や精力剤を食卓に並べ「お久しぶり~」とベッドに誘う場面は、シリーズの恒例だった。
7人もの子ども(最終的には9人?)を抱え生命力あふれる日本女性を演じて見事だった。
『赤い殺意』の高橋貞子と『トラック野郎』の松下君江は、いずれも豊穣の女神であり、男どもはその魅力の下に膝まづくのみである。

『赤い殺意』は、ロケを多用している。仙台は降雪が少ないから、雪のシーンの撮影はスケジュールが大変だっただろう。
僕は、昭和48(1973)年から4年間、仙台で暮らした。

『赤い殺意』から9年が経っていたわけだが、面影として重なる風景が多い。
貞子の家は、旧国道4号線の広瀬川にかかる広瀬橋の市電の停留所から歩いた東北本線の脇だから、町名で言えば若林あたりだろうか。

市電の車掌が「次はシロセバシ、シロセバシ」と告げるのが、懐かしい。
当時の東北地方の人は、「ヒ」と「シ」、「キ」と「チ」の違いを発音するのが苦手な人が多かった。
その市電も僕が大学時代の昭和51(1976)年には、全廃された。

貞子の夫・高橋吏一(西村晃)が勤務するのは、東北大学の附属図書館だ。
現在は川内キャンパスにあるが、当時は片平にあった。
吏一の出勤風景に、片平の正門が映っている。正門脇の建物から同僚が声をかけるシーンがあるから、大学もロケに協力したのだろう。

貞子が買い物に出かけるのが、藤崎デパートだ。
店内のシーンに、はっきりと藤崎デパートのマークが映っている。
本店は今でも、一番丁と青葉通りの交差する一角にある。
僕もアルバイトで大分お世話になった懐かしい場所だ。

仙台駅の場面は、確かに改札周辺は、昔の駅舎の感じそのままだ。
しかし、営業中の雑踏の中で、撮影は可能だったのだろうか。
そのままを、セットで再現したか、あるいは深夜にロケしたか……まだご存命とされる春川ますみさんに聞いてみたい。

貞子に付きまとうストーカー男(露口茂)は、ストリップ劇場のラッパ吹きという設定だ。
ストリップ劇場といえば国分町だが、確かに広瀬通を見下ろすビルの場面が出てくる。

吏一の実家は、高屋敷(現在の富谷市)という設定だ。
大きな屋敷を構え、養蚕をしている。
今や、仙台市のベッドタウンとして、人口も増えて、様変わりしていると聞く。
昔ながらの養蚕を営む農家は残っているのだろうか。

貞子は妊娠を調べるため、仙台市内から離れた松島の産婦人科を訪ねる。
その帰途、再びストーカーに付きまとわれ、仙石線の客車のデッキでもみ合いになる。
昭和39年当時は、仙石線は蒸気機関車だったのだ。
この場面も、迫力がある。
走る列車の最後尾のデッキを、外から追いかけるように撮影している。
どうやって撮影したのか、姫田真佐久に聞いてみたいものだ。

ラスト近く、貞子はストーカーを毒殺するため、駆け落ちすると見せかけ、東北本線上りの列車に乗る。
しかし、大雪のため列車が立ち往生してしまい、福島で途中下車して近くの温泉宿に徒歩で向かう。
迫力ある雪山とトンネルの場面に登場するのが、二ツ小屋隧道(ふたつごやずいどう)だ。
国道13号の福島と米沢の間は、難所の栗子峠で仕切られている。
今や栗子トンネルが開通し、高速道路も走っているが、当時は冬季通行止めになる道だった。
ほとんど命がけのロケだったと思う。

ジョージ・ルーカスは自身の監督作品『アメリカン・グラフィティ』(1973年)について、単なるノスタルジー映画ではなく、社会史的、文化史的な価値を持つドキュメンタリー的な側面があると語っている。
長々と書いてしまったが、僕にとって『赤い殺意』は、今村昌平の人間観が詰まった芸術作品であると同時に、昭和30年代後半の仙台という地方都市の姿をとどめる貴重な映像資料なのだ。


 

マクリントック:アメリカの建国の精神を思い出そう


マクリントック
McLintock!

監督:アンドリュー・V・マクラグレン
脚本:ジェームズ・E・グラント
製作:マイケル・ウェイン
出演:ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ
撮影:ウィリアム・H・クローシア
1963年 アメリカ映画

シェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』を翻案したとは、ジョン・ウェイン主演の西部劇にしては、ずいぶん大上段に出たものだ。
そういえば、『じゃじゃ馬ならし』の女主人公の名はキャタリーナで、『マクリントック』の方はキャサリン(モーリン・オハラ)だ。
しかし、映画をじっくり観てみれば、キャサリンは、じゃじゃ馬とはほど遠い。
一つの町の全産業を牛耳るほどの大富豪である夫マクリントック(ジョン・ウェイン)を愛しつつ、妻としてのアイデンティティを確立できない未熟な(可愛い)女なのである。
物質的にも文化的にも豊かで上品な東部の暮らしと、西部の豊かな自然と野卑ではあるが大らかなコミュニティの間で揺れ動いている。

監督のアンドリュー・V・マクラグレンは、あらためてアメリカの建国の精神を問いたかったのだと思う。
『マクリントック』は、西部劇とは言っても、派手な撃ち合いは出てこない。騎兵隊とインデアンは登場するが、戦闘場面もない。
ジョン・ウェイン演じるマクリントックのファーストネームとミドルネームが、すべてを表しているだろう。
彼の名は、ジョージ・ワシントン・マクリントックだ。
仲間たちは、皆マクリントックのことを、愛着をこめて「G・W」と呼ぶ。
まさか『マクリントック』から30年あまりの時を経て、G・Wの名を持つ大統領が現れるとは予想もできなかっただろうが(G・W・ブッシュ)。

たとえば「富」の問題。
マクリントックは、広大な土地を「所有」している。
しかし、彼はその広大な土地を「独占」するつもりはない。
東部から移動してきた農民たちを「排除」したりしない。
最後に、彼は娘にこう諭す。
自分が死んだら、広大な土地は娘に「相続」させない。州に公園として寄付する。
その代わりに、娘にわずかばかりの「投資」をする。
成功するかどうかは娘しだいだ。しかし、人生において大事なのは、成功するかどうかではなく、その「過程」なのだと。

あるいは「先住民族(インデアン)」の問題。
マクリントックは、開拓の過程で、コマンチ族と激しい戦いをした。
そこで瀕死の重傷を負ったマクリントックを助けたのは、コマンチの勇者であった。
その後、マクリントックは成功し、コマンチの勇者は酋長となった。
しかし、先住民族は討伐され、居留地という強制収容所に閉じ込められようとしている。
勇者と勇者の間にあるのは、憎しみではない。「敬意」である。
マクリントックは、インデアンに銃と弾薬を渡す。
インデアンは抵抗しても、いずれは制圧されてしまうだろう。
しかし、隷属して生きるより、民族として抵抗し「誇り」をもって死を選ぶことの尊さを勇者は共有しているのだ。

『マクリントック』は娯楽西部劇の体裁をとっている。
2時間の上映時間だが、飽きるところがない。
B級映画を撮り続けてきた、アンドリュー・V・マクラグレンの職人芸だろう。
そして、彼はこの作品で、娯楽の中にメッセージを込める術を会得したのだと思う。
数年を経て、彼の実力は『シェナンドー河』で結実することになる。
以前にも書いたが、僕は『シェナンドー河』を、アンドリュー・V・マクラグレンの最高傑作だと信じている。

 

やはりポール・サイモンは本物だった、ありがとう

 

僕は、14歳の時からだから、もう半世紀を超える年月をポール・サイモンのファンとして過ごしてきた。

彼のアルバム(ベスト盤はのぞく)は、すべて聴いている。

もちろん、1982年5月のあの「伝説の」後楽園球場でのコンサートも、その場にいた一人だ。

 

僕の青春は、と言うよりも、もう僕の人生は、ポール・サイモンと共にあったと言っても過言ではないだろう。

彼が紡ぎ出してきた楽曲は、ありふれた形容詞で申し訳ないが、いずれも珠玉だ。

歌曲としてシューベルトと比肩されることもあり、その完成度の高さからショパンと比較されることもあった。

しかし、ポール・サイモンの楽曲は、今や何者にも比べられない、独自の世界(もっと言えば宇宙)を形成するに至った。

 

野心に燃えてアート・ガーファンクルとポップ・ミュージックの世界に乗り込み、最高峰に到達し、グループの解散を経て、失意やスランプを何度も乗り越え、常に自己と正直に向き合い続けて、80歳代の半ばに至った。

健康上の問題も、近頃、報じられることが増えた。

功成り名遂げた偉大なアーティストとして、静かに余生を送ってほしい……と思っていた矢先だ。

 

そんな老いぼれファンの目を、ポール・サイモンは、ガツンと覚ましてくれた。

今回のイラン攻撃で亡くなった51人(と言われる)の女生徒たちのために1,000万ドルの緊急寄付を行ったのだ。

 

「(この寄付は、イラン)南部のこれらの罪もない子供たちの報道を見た(結果だ)。もし、この戦争で十字砲火にさらされる子供たちがいるのであれば、さらなる援助をする覚悟だ」と、ポール・サイモンは記者会見の席上で、感情を露わにして語った。「いかなる子供も、このような悲劇を味わうべきではないし、いかなる家族も、そのような犠牲によって悲嘆にくれるべきではない」

 

ポール・サイモンは、アメリカ人だ。そして彼は、ユダヤ人だ。彼の発言が、どれほど勇気あるものか、分かるだろう。

功成り名遂げ、裕福な人だからこそ、この踏み絵は、格別の勇気を必要とする行為だったと言える。

それゆえに、ポール・サイモンは、僕を深く感動させてくれた。

 

ありがとう、ポール・サイモン。やはり君は本物だった。

 

市川雷蔵・眠狂四郎シリーズ:帝国の衰亡は一気に訪れる


市川雷蔵 眠狂四郎シリーズ
眠狂四郎殺法帖(1963年11月2日公開)監督:田中徳三
眠狂四郎勝負(1964年1月9日公開)監督:三隅研次
眠狂四郎円月斬り(1964年5月23日公開)監督:安田公義
眠狂四郎女妖剣(1964年10月17日公開)監督:池広一夫
眠狂四郎炎情剣(1965年1月13日公開)監督:三隅研次
眠狂四郎魔性剣(1965年5月1日公開)監督:安田公義
眠狂四郎多情剣(1966年3月12日公開)監督:井上昭
眠狂四郎無頼剣(1966年11月9日公開)監督:三隅研次
眠狂四郎無頼控 魔性の肌(1967年7月15日公開)監督:池広一夫
眠狂四郎女地獄(1968年1月13日公開)監督:田中徳三
眠狂四郎人肌蜘蛛(1968年5月1日公開)監督:安田公義
眠狂四郎悪女狩り(1969年1月11日公開)監督:池広一夫

眠狂四郎シリーズは、大映全盛期に、原作に柴田錬三郎、主役に市川雷蔵を得て、1963(昭和38)年から1969(昭和44)年にかけての足かけ7年間に12本が製作された。
人気シリーズというのは、寅さんシリーズがそうであったように、年2回のペース。だいたいお正月と夏のお盆休み、あるいはゴールデンウィークに公開される。
計画的に製作されるので、プログラム・ムービーと呼ばれる。
プログラムとは「計画どおりに」という意味で、プロジェクトと同義と理解して良いだろう。
すなわち、決められた仕様(内容)・期限・予算を厳格に守って、遂行されなくてはならない。

プログラム・ムービーは、巨匠とか大作とか話題作とは無縁だ。
巨匠たちは、プログラム・ムービーの枠外で、独自の芸術性を追求し、しばしば期限や予算を無視して、映画会社の経営陣を冷や冷やさせる。
映画というジャンルは、芸術でありながら、興行というビジネスモデルから逃れられない宿命を負わされている。
映画会社の経営とは、まさに芸術性と興行成績という二律背反の最適化なのである。

映画会社の経営でカリスマ的な能力を発揮したのが、永田雅一である。
大映株式会社は、太平洋戦争最中の1942(昭和17)年に産声をあげた。
永田は、敗戦直後の混乱期から大映を牽引し、1947(昭和22)年に社長に就任する。
それから、わずか10年ほどで、彼は「大映帝国」を作り上げるのである。

年間100本のペースでプログラム・ムービーを量産しながら、芸術性に溢れた大作・話題作を世に送り出した。
『羅生門』(1950年:黒澤明監督作品:ヴェネツィア国際映画祭グランプリ)、『雨月物語』(1953年:溝口健二監督作品:ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞)、『地獄門』(1954年:衣笠貞之助監督作品:カンヌ国際映画祭グランプリ)、『山椒大夫』(1954年:溝口健二監督作品:ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞)……。
戦後日本の映画界の実力を世界に見せつけたこれらは、すべて大映の作品である。

僕が、心底から感心するのは、永田雅一の経営戦略だ。
黒澤、溝口、衣笠らのビッグネームに世界で通用する作品を撮らせるのと並行して、興行(キャッシュフロー)をしっかりと固めていたことだ。
まさに、プロジェクト・マネジメント、製品開発の極意を見る思いだ。
エンジニアリング・プロジェクトには、もちろん優秀なプロジェクト・マネジャーが必須である。
しかし、プロジェクト・チームには、SE(システムエンジニア)、意匠デザイン、メカ(機構設計)、エレキ(回路設計)、ソフト(ソフトウェア設計)、品質保証、試験運転、ドキュメント(取扱説明書)、マーケテイング、販売戦略など、様々な専門能力が必要である。
これは、映画制作とまったく同じなのである。すなわち、製作、監督、企画、脚本、撮影、音楽、衣装、美術、照明、録音、編集、記録等である。

僕が「大映帝国」と言うのは、映画会社経営の根幹であるプログラム・ムービーを制作するプロジェクト・チームの質の高さである。
プロジェクトの数が10チームでは、年間100本は無理だ。
いくつかのプロジェクトを兼務したとしても、それぞれのファンクション(撮影とか美術とか)のリーダー(主任技師クラス)が10人以上は必要だ。
その下に、さらに技術スタッフが付く。その中で人材を育成し、優秀な者をリーダーへと取りたてていく。
そうやって作り出されたのが「大映帝国」なのだ。

今、角川大映のDVDで『眠狂四郎シリーズ』には、金澤誠が当時のスタッフたちをインタビューした記録が収録されている。
監督、撮影、美術、照明、衣装……それぞれの語りは、往時を彷彿とさせて興味が尽きない。
ブックレットとして、ぜひ一冊にまとめてもらいたい。
特に、市川雷蔵の人となりが語られるところでは、僕は何度も涙を誘われた。

映画というエンターテインメント・ビジネスにおいて、永田雅一が築き上げた「大映帝国」。
しかし、その衰亡は一気に訪れる。
1969(昭和44)年、市川雷蔵死去。
1971(昭和46)年、大映倒産。
皇帝・永田雅一の治世は、20年余で終わりを告げた。
もちろん、大映だけの話ではない。
昭和40年代は、映画というメディアがテレビに取って代わられた。
東映も日活も、経営危機に陥った。
テレビでは放映することができないような、エロ・グロ・ナンセンス路線で対抗しようとしたが、結局は太刀打ちできなかった。
いや、日本だけの話ではない。本場のハリウッドでさえ、映画は斜陽産業になり果ててしまったのだ。

それにしても……と僕は思う。
『眠狂四郎シリーズ』全12作のクオリティーの高さはどうだろう。
プログラム・ムービーを「量産映画」などと訳してはいけない。
質の高いスペシャリスト集団が、一本一本の作品に創造性を注ぎ込んだのだ。

しかし、メディアの変遷は、時代の変化に似ている。
映画を駆逐したテレビも、今や絶滅前の恐竜のようにのた打ち回っているように見える。
どうあがいても、YouTubeのような新興ソーシャルメディアには、太刀打ちできないだろう。
映画界の人材がテレビへと流れたように、テレビ界の人材がソーシャルメディアへと雪崩を打って民族大移動するのだろう。

帝国の衰亡は、絶頂期を迎えた時、一気に訪れる。
映画界がそうであったように、テレビ界がそうであったように。
いや、ローマ帝国がそうであったように、大英帝国がそうであったように、これは繁栄を謳歌する「帝国」の避けがたい宿命なのだろう。

 

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