ALL-THE-CRAP 日々の貴重なガラクタ達
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存在の耐えられない軽さ:この世界の片隅に


存在の耐えられない軽さ
The Unbearable Lightness of Being
監督:フィリップ・カウフマン
脚本:ジャン=クロード・カリエール、フィリップ・カウフマン
原作:ミラン・クンデラ
製作:ソウル・ゼインツ
製作総指揮:ベルティル・オルソン
出演:ダニエル・デイ=ルイス、ジュリエット・ビノシュ
音楽:レオシュ・ヤナーチェク
撮影:スヴェン・ニクヴィスト
編集:ウォルター・マーチ
1988年 アメリカ映画

アルフィー』で予告したように、僕は今『存在の耐えられない軽さ』について、書いている。
『アルフィー』は、『存在の耐えられない……』の魁(さきがけ)となる作品だと思う。しかし、それはバプテスマのヨハネとイエス・キリストとの関係に似て、比較しようとして比較できるものではないことも、確かである。

『存在の耐えられない……』も、『アルフィー』と同じく、女たらしの男が主人公だ。冷戦時代のチェコスロバキアの首都プラハに住む、腕利きの外科医トマーシュ。ロンドンに住むアルフィーを誰も知らないのと同じく、プラハのトマーシュもまた、歴史に刻まれることなく生まれ、死んでいった。そういう意味で、アルフィーもトマーシュも、「この世界の片隅に」に生き、そして死んだ男たちだ。

まず、トマーシュ役のダニエル・デイ=ルイスの演技に注目したい。肉体的な快楽に身を任せているように振る舞いながら、観念の世界でしか生きることができないインテリゲンチャを見事に演じている。この作品の撮影時は弱冠30歳そこそこだが、その後、『ラスト・オブ・モヒカン』(1992年)では、誇り高きアメリカ・インディアンを演じ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002年)では、凶暴な移民ギャング団のリーダーを演じ、ついには、『リンカーン』(2012年)では、ついにアメリカ大統領エイブラハム・リンカーンを演じることになる。いずれの役においても、役柄が憑依したかのような迫真の演技を見せてくれる。それが自分でも恐ろしくなったのであろう、近年はことあるごとに俳優引退を表明している。

本作品において、女たらしを自認するトマーシュは、「3という数字のルール」を自らに課している。一人の女に夢中になったと感じたら、続けて会うのは3回までにしなければならない。あるいは、長く交際しようと思えば、逢瀬の間隔は、3週間の間をおかなければならない。

トマーシュは、腕の良い外科医だ。「プラハの春」の時、チェコスロバキアがソ連によって制圧された時には、医学会で知己となったスイスの友人が、亡命の手助けをしてくれる。インテリゲンチャであり、人間関係も国際的な広がりを持っていながら、「性愛的友情」においては、そのような子供じみたルールを自らに課して、快楽を追い求めながら、トマーシュは生きている。

ある時、トマーシュは、地方の病院で出張手術をすることになる。田舎町のカフェで、トマーシュは、そこでウエイトレスをしているテレザを、特に思い入れることもなく、いつものように軽い気持ちで誘惑する。ところが、一度きりの逢瀬のはずが、テレサは家出して、プラハまでトマーシュを追ってくる。

トマーシュの魂のパートナーとなるテレザを演じるジュリエット・ビノシュもまた素晴らしい。最初のベッドシーンで、惜しげもなく腋毛をさらしてくれる。生命力に溢れ、性欲に正直な田舎娘を表現するのは、演技力ではなく肉体そのものだというように。一方で、プラハのトマーシュの部屋を訪ねてきた時に小脇に抱えているのが、『アンナ・カレーニナ』である。なんという可愛らしさであろうか。

トマーシュは、テレザの一途な愛にほだされて、結婚してしまう。しかし、他の女性との「性愛的友情」はそのまま継続している。たとえば、女流画家サビナとの関係は、テレザよりもはるかに長い。身寄りもいないプラハに出てきたテレザの仕事探しを、トマーシュは、サビナに頼む。姉御肌のサビナは、テレザを親身になって助けながら、不思議な関係を築いていく。

「プラハの春」を契機として、一度はスイスに逃れたトマーシュとテレザだったが、故郷の大地に根ざしたようなテレザに、スイスの生活は耐えがたかった。二人は、圧政下のチェコスロバキアに戻る決心をする。過去には国際的な名声を得ていた外科医のトマーシュが得た仕事は、なんと窓ふき人夫だった。

プラハでの都会生活に見切りをつけたトマーシュとテレザは、集団農場で暮らし始める。そこで、二人はつかの間の安息の日々を見出すのだった。トルストイの『戦争と平和』において、生と死、愛憎、運命に翻弄され続けたピエールとナターシャが、大団円において、田園生活の中で安息と愛情に溢れた生活にたどり着いたように……。

この世界の片隅に』で描かれていたのは、市井に暮らす、ごく普通の人々だ。ある時は喜び、ある時は悲しみ、ある時は性愛に溺れ、ある時は愛しながらも反発し合い、再び和解して涙を流して抱きしめ合う。それは、激動する世界情勢の嵐の中にあっては、荒海に翻弄される小舟の中の出来事でしかない。

しかし、われわれが生きていることの真実は、その荒海に翻弄される小舟の中にしか存在しないのではないか。ナポレオン戦役を舞台にした『戦争と平和』のピエールとナターシャ。ロシア革命を舞台にした『ドクトルジバゴ』のジバゴとラーラ。プラハの春を舞台にした『存在の耐えられない軽さ』のトマーシュとテレザ。それぞれの主人公、男と女は、なんと気高く美しいのだろう。

トマーシュとテレザの命は、チェコの田舎道で、おんぼろトラックのブレーキが故障したために、自爆事故によって、一瞬の内に絶たれてしまう。その場面は、描かれていない。原作においても、映画においても、その前夜の田舎の安酒場でのダンスパーティーが、印象深く描かれるだけだ。

トマーシュの一生とは何であったのか。外科医として嘱望されたキャリアを奪われたのではない。貧しい衣食住のどん底に突き落とされたのではない。彼は、すべてを「得た」のだ。テレザの愛を得たのだ。悪意も打算もない友を得たのだ。

興行的に大成功した作品ではない。しかし、僕にとっては「珠玉」の名作だ。
 

アルフィー:存在の耐えられない軽さ


アルフィー
Alfie
監督:ルイス・ギルバート
脚本:ビル・ノートン
原作:ビル・ノートン
製作:ルイス・ギルバート
出演:マイケル・ケイン
音楽:ソニー・ロリンズ(主題歌:バート・バカラック)
撮影:オットー・ヘラー
編集:セルマ・コネル
1966年 イギリス・アメリカ映画

予告しておくと、僕はまずこの作品『アルフィー』について語った後、あわせて『存在の耐えられない軽さ』についても語りたいと思っている。
大それたことを言うつもりはないが、2つの作品は、ニーチェの≪永劫回帰≫に触発されているという点において、共通しているからだ。≪永劫回帰≫とは、恐ろしく、美しく、そして崇高であると、『存在の耐えられない軽さ』の冒頭で著者ミラン・クンデラが語っているが、その意味を正確に伝えるには、人間の愚かさ、醜さ、弱さを描くしかないという点で、『アルフィー』と『存在の耐えられない軽さ』という2つの映画は、同じアプローチをしていると思うのだ。

『アルフィー』は、女たらしの男の話である。プレイボーイ、ドンファンなどの言葉もあるが、女たらしが一番ぴったりと来る。アルフレッド(アルフィー)・エルキンスは、典型的なコクニーである。身分社会が厳然として存在するイギリスで、彼はまぎれもない下層民である。喋る言葉はロンドンの下町訛り(コクニー)、話す内容は教養のかけらもなく、職業は運転手である。自慢といえば、自分がトラックの運転手ではなく、ロールスロイスの運転手だというだけだ。身だしなみには気を使っているが、そのいでたちは、うわべだけの、まるでデビュー当時のビートルズだ。

そんなアルフィーが、60年代のロンドン市中を闊歩する。その美しいこと! 当時のロンドンが整然としているわけではない。むしろ逆である。雑然として、混沌として、不潔で、猥雑である。しかし、だからこそ楽園ではないか! 清潔で道徳的な都市のどこに魅力があるというのか。

そのロンドンを舞台に、アルフィーは、タガが外れたごとく、無節操に女漁りを繰り返す。人妻、家出娘、入院すれば看護婦、見舞いに来た同室の患者の妻、金持ちの年上女……。ただし、どの女にも深入りはしない。妊娠しても責任をとらない。出産した女は別の男と結婚させ、また別の女は無理やり堕胎させる。

軽薄で無責任なアルフィーを、若かりしマイケル・ケインが、伸び伸びと演じていて見事だ。人間の愚かさ、醜さ、弱さを徹底的に描くことによって、真実に近づくことができる。それこそ、シェイクスピアに代表されるイギリスの伝統だろう。映画においては珍しいが、『アルフィー』では、「傍白(aside)」の手法が使われる。まるで『ハムレット』の舞台のように、自分の心の内を観客に向かって語りかけてくるのだ。

傍若無人に女たらしの限りを尽くした後、アルフィーにも常識の影が差す。自分の血をひく赤ん坊への愛情であったり、落ち着いた家庭生活への憧れであったり……しかし、それらは無残に裏切られてゆく。

そこで、映画を観ている僕たちは、気づかされるのだ。アルフィーこそ、われわれの愚かさ、罪深さの分身なのだと。常識と聖人君子の皮を剝ぎ取れば、われわれは皆、アルフィーなのだ。古今東西を問わず、王侯貴族だろうが、下層民であろうが、金持ちだろうが、貧乏だろうが、男だろう、女だろうが、変わるところはない。

人間が現世で犯した罪は、死によって許されるのか。あるいは、信仰の深さによって、天国と地獄に振り分けられるのであろうか。ニーチェが提示したように、「個」などは宇宙においては無意味であり、生命は時空を超えて、≪永劫回帰≫を繰り返しているだけなのではないか。だとすれば、われわれは誰もが皆、所詮はアルフィーではないか。

そう考えると、ただのラブソングだと思っていたハル・ディビッドの『アルフィー』の歌詞が、やけに哲学的に胸に沁みてくる。

As sure as I believe there's a heaven above, Alfie,
I know there's something much more,
Something even non-believers can believe in.
I believe in love, Alfie.
Without true love we just exist, Alfie.
Until you find the love 
you've missed you're nothing, Alfie.
When you walk let your heart lead the way
And you'll find love any day, Alfie, Alfie.


もちろん空には天国があると信じているわ、アルフィー
でも、それよりも何かもっと大きなものがあるはず
神様を信じていなくても信じられる何かが
それは愛だと思うの、アルフィー
私たちは、愛などなくても生きていけるわ、アルフィー
でも自分が大切なものを持っていないと気づくことができれば、アルフィー
あなたは本当の愛を見つけられるはず
いつだってあなたは本当の愛を見つけられるのよ、アルフィー、アルフィー

 

美しき水車小屋の娘:第12曲『休み』


前曲(第11曲『僕のもの』)で、恋は一気に成就した。主人公は、意気揚々と自分の部屋に戻ってくる。そして、自分の愛器であるリュートを恋人に見立てて、飾りのリボンを結んで、壁に掛けて眺めている。

現代でも、自分のギターのヘッド部分にアクセサリーをぶら下げている人をたまに見かけるが、リュートにリボンを結んで飾るというのは、一般的だったのだろうか。リュートを演奏する油絵はたくさん描かれているが、そこにリボンが描き込まれている作品は、そう多くはない。そんな中で、18世紀のオランダの画家ゴドフリート・スカルッケンが描いたとされる、少年がリュートを弾いている絵には、オレンジ色のリボンが描かれている。

この第12曲から始まって、「緑」という色を巡って恋のかけひきが展開されることになる。主人公は、恋人である美しい粉挽き屋の娘が好きな色を知って、緑色のリボンで自分のリュートを飾るのだが、緑は木の葉であり、森林の色であり、やがて登場する恋敵の狩人を想起させる。まさに色彩が象徴的な意味を演じる「色彩のメタファー」が展開されるのである。

主人公の恋は、確かに成就した。それは、性的な幸福さえ意味していた。しかし、いったん自分の部屋に戻って一人になってみると、主人公はメランコリーに陥るのだ。人間の恋は、動物的な性欲だけに突き動かされているわけではない。大脳皮質の化学反応によって、疑心暗鬼が湧きおこり、不安に苛まれるのである。

ポール・サイモンは『キャシーの歌』の中で、雨の日にひとり恋人を想いながら、同じような心境を歌っている。

....And a song I was writing is left undone
I don't know why I spend my time
Writing songs I can't believe
With words that tear and strain to rhyme....

……僕が(君のために)作曲していた曲はほったらかしだ
なんであんなことに時間を費やしていたのか分からない
曲作りなんてもう信じられない
韻を踏むために言葉を引き裂いたり引き伸ばしたりするなんて……

ああ、人間の知的活動の源泉である大脳皮質の化学反応では、愛に近づけないのだ!
動物に生まれて、発情期に本能にまかせて異性を追いかけるだけなら、なんと幸福なことだろう!

変ロ長調(B-dur、Bb Major)。4/4拍子。速度指定は、Ziemlich Geschwind(かなり速く)。
『休み』といいながら、曲調は決してゆっくりではない。心は揺れ動いている。それは、長調(B-dur)と短調(G-moll)の間で同主調転調を繰り返す。恋に揺れる心情を表現する手法として、20世紀の日本の四畳半フォークソングに至るまで延々と使われ続けている。

僕なりに訳した『休み』は以下の通りだ。

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Pause

Mein Laute hab' ich gehängt an die Wand,
Hab' sie umschlungen mit einem grünen Band –
Ich kann nicht mehr singen, mein Herz ist zu voll,
Weiß nicht, wie ich's in Reime zwingen soll.
Meiner Sehnsucht allerheißesten Schmerz
Durft’ ich aushauchen in Liederscherz,
Und wie ich klagte so süß und fein,
Glaubt' ich doch, mein Leiden wär' nicht klein.
Ei, wie groß ist wohl mein Glückes Last,
Daß kein Klang auf Erden es in sich faßt?

Nun, liebe Laute, ruh' an dem Nagel hier!
Und weht ein Lüftchen über die Saiten dir,
Und streift eine Biene mit ihren Flügeln dich,
Da wird mir so bange und es durchschauert mich.
Warum ließ ich das Band auch hängen so lang'?
Oft fliegt's um die Saiten mit seufzendem Klang.
Ist es der Nachklang meiner Liebespein?
Soll es das Vorspiel neuer Liebe sein?


リュートを壁に掛け 緑のリボンを結んだ
もう歌えない 心は満ち溢れ
どのように詩にすればいいかわからない
心が切なさで痛むときには
軽快な調べでそれを紡ぎ出すことができた
甘い嘆きを歌っていた頃は
悲しみなど取るに足らないものだと信じていた
ああ 今この喜びはなんという重荷なのだろう
この世のどんな音も 包み込むことはできない

愛しいリュートよ どうか釘の上で安らかにしておくれ
風がお前の弦を揺らし
蜂の羽がお前を撫でるとき
怖れの震えが僕を駆け巡るのだ
なぜ緑のリボンをこんなに長く垂らしてしまったのだろう
風はため息のような音を立てて 弦をそっと撫でる
僕の愛の痛みのこだまだろうか
それとも新しい愛の前奏曲なのだろうか?

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求塚:黙示録的な死生観が心にしみる


求塚
能楽 観阿弥・世阿弥 名作集 観世流 『求塚』 
観世能楽堂/NHKにおいて2013年4月28日放送
前シテ・里女 :観世清和
後シテ・莬名日少女の霊:観世清和
ツレ・里女:角幸二郎、坂口貴信

【生死(しょうじ)】……(このように)生死は、迷いのただ中にある我々自身のあり様を比喩的に表現したものでもある。生死の超克は苦の終焉であり、それは涅槃と等値となり、仏教の目指すべき目標とされる。(『岩波仏教辞典 第二版』)

『求塚(もとめづか)』は、数多い能の演目の中で、それほど有名な演目ではないだろう。しかし、僕にとっては、ことさら深い、忘れがたい印象を残す作品だ。そもそも能の描く世界は、現世と死後、夢と現実、亡霊や死者の霊、これらが定番なのだが、その中でも『求塚』は、その救いの無さにおいて、ほとんど空前絶後と言ってよい。

舞台は摂津国生田(現在の神戸)。この地にある「求塚」を訪ねる旅の僧が、若菜摘みをする里女たちと出会う。
この導入は、『マタイ受難曲』の冒頭の「来たれ、娘たちよ」で歌われるコラールを彷彿とさせる牧歌的で明るささえ感じる幕開けだ。これから繰り広げられる凄惨なドラマのプレリュードとして、バッハと観阿弥という二人の天才は、期せずして、同じ効果を意図していたのだろうか。

早春。都へ旅する僧は、途中で「求塚」を訪ねようと3人の里女に道をたずねるが、要領を得ない。やがて、二人の里女は帰っていくが、一人の女が残り、僧たちを求塚の場所に案内し、その謂(いわ)れを語り始める。

昔、菟名日(うない)という若い女に、二人の男が同時に恋をした。二人の男は、何度も諍(いさか)いを起こすが決着がつかず、最終的に生田川の鴛鴦(おしどり)を射た者を勝者にすると決める。ところが、なんと二人が同じ鳥を同時に射てしまう。二人の男の間で、菟名日は困り果て、ついに生田川に身投げる。その遺体を埋めたのが求塚なのだ。そして、菟名日の死を悲しみ、二人の男たちもまた、求塚の前で刺し違えて命を落とした。

ここまで、語ると里女は、求塚の中へと消える。塚の中で、シテは、衣装と面を早変わりし、菟名日の霊として、再び登場する。ちょっと、歌舞伎風の演出だ。やつれた女の面をつけた亡霊は、死後の世界においても二人の男に責められ、鴛鴦が変じて鉄鳥となって、その身を食い荒らし、地獄の鬼も責め苛むと語る。苦しさに耐えかねて柱に縋すがれば、その柱が火柱となって身を焼きつくす。そのような、八大地獄の苦しみを語り終えると、女は再び求塚の陰に姿を消していく……。

なんという救いのない物語だろうか! 無垢な少女・菟名日に何の罪があるというのか! 健康で美しい女性に、男が恋することは、古今東西、人間として自然なことではないか! 

もしや、神は「試す」という行為に怒りを持たれたのだろうか? しかし、結婚という人類普遍の制度は、「試す」ことと「選ぶ」ことにやって成り立っているのではないか? そして、死んだ男たちは、なぜあの世に行った後も、菟名日を責め続けるのか? この世でどれほど苦しんでも、あの世では救済されるはずではなかったか?

室町時代初期の観阿弥・世阿弥親子は、鎌倉時代に興った日蓮宗のオプティミズムよりは、道元の曹洞宗に、より共鳴していたのだろうか。どこまでも、どこまでも、人は問い続けなければならない。それは、真理に到達するための問いではない。問い続けること「自体」が唯一の真実なのだ。いや、それすら僕にはよくわからない。

『求塚』は新約聖書の最後に置かれた『ヨハネの黙示録』の死生観と親和性があるように感じられる。申し訳ないが、それはミケランジェロによってシスティーナ礼拝堂の祭壇壁画として描かれたあの『最後の審判』とはまったく異なる。イエス・キリストが門の前で「お前は天国に行け」とか「お前は地獄に落ちろ」とか、まるで柔道の投げのようなポーズで選別しているシーンは、『ヨハネの黙示録』の真意とはかけ離れたものだろう。

菟名日は、不幸な少女だったのではない。愛に生き、愛に死んだだけだ。誰も八大地獄の苦しみから逃れることはできないのだ。それこそが、『生死(しょうじ)』の理(ことわり)だろう。生の後に、死があるのではない。生と死は、一体なのだ。死によって救済されるなどと考えることは、不遜ですらある。人間は人間として、生を全うし、そして死ぬこと。それ以外に何がある。

能舞台を去り、橋掛かりの先に消えていく人たちの後ろ姿を見送りながら、僕は『求塚』を観て良かったと感謝した。

 

吹けば飛ぶよな男だが:戦後の分水嶺に現れた傑作喜劇


吹けば飛ぶよな男だが
監督:山田洋次
脚本:森﨑東 山田洋次
製作:脇田茂
撮影:高羽哲夫
美術:重田重盛
音楽:山本直純
編集:石井厳
出演:なべおさみ、緑魔子
1968年 日本映画

まず、主演のなべおさみについて語らねばなるまい。
なべおさみほど、カリスマを消し去った喜劇役者が、それまでいただろうか。
いや、その後も含めて、彼のキャラクターは、ある意味では空前絶後だ。
チャプリンを引き合いに出すまでもない。
およそ、喜劇映画で主演を張るような役者は、必ず強烈な個性を持っているものだ。
エノケン、渥美清、ハナ肇、植木等……彼らがスクリーンに登場した時に発するオーラを思い出してほしい。

しかし、「ただの人」こそ喜劇であるというアンチテーゼを、なべおさみは自らの存在で喝破しているようだ。

ハナ肇の付き人から、『シャボン玉ホリデー』への出演でチャンスをつかみ、クレージーキャッツやドリフターズの映画に端役で出演しながら、数年後には主役を射止めている。
付き人時代から、自分の名刺を作って、業界関係者に配り歩いていたという。こんなエピソードも、いかにもなべおさみらしい、小賢しさ、「ただの人」の小者感が現れているではないか。

脚本は、山田洋次との共同クレジットになっているが、森崎東の色が濃い。
すなわち、徹底したアナキズムであり、悪趣味と紙一重のスラップスティックであり、それらの先に忽然と現れる無限の人間愛の境地である。
この作品世界をシナリオとして作り出せるのは、森崎東をおいて、他にはいないだろう。
もちろん、森崎東のカオスのようなシナリオを、作品としてまとめ上げるには、山田洋次のような秀才肌のマネジメント能力が必要だったのは確かだが。

『吹けば飛ぶよな男だが』を傑作たらしめた三要素は、森崎東のシナリオ、山田洋次の監督、そして主役のなべおさみだ。しかし、その「奇跡」を下支えした脇役たちの存在も忘れてはならないだろう。恋人役の緑魔子の人格を押し隠したような演技、犬塚弘の演じるヤクザの窓際族の人情味、ミヤコ蝶々が演じる守銭奴のトルコ風呂(懐かしい響き!)経営者の裏には母性愛が潜んでいる。いずれも、忘れがたい人物造形だ。

チンピラヤクザのサブ(なべおさみ)は、家出少女の花子(緑魔子)を誘って、ブルーフィルム(懐かしい響き!)を撮影しようとする。花子が必死に強姦シーンを拒む姿を見かねて、一緒に逃走するが、金がないので花子をトルコ風呂で働かせる。ヒモ気取りだったサブだが、花子は家出する前の男の子供を妊娠していることが分かる。頭に血が上ったサブは、道ですれ違ったヤクザ相手に喧嘩し、逮捕されてしまう。事件を機に、サブと花子は結婚を誓うのだが、花子は雨の中で流産し、あっけなく死んでしまう。傷心のサブは、船乗りになって日本を離れることにする。船出の日、なぜかトルコ風呂の経営者(ミヤコ蝶々)が見送りに来る。サブが、生き別れた母親ではないかと質すと、言下に否定されるのだったが……。

悪ふざけとも見えるスクリューボール・コメディを主旋律としながら、そこに哲学的な人間観察を絡めるのが、森崎東の常套手段だ。本作品では、それが「1968年」という時宜を得ることによって、小品ながら忘れがたい傑作を生みだすこととなった。

1968(昭和43)年とは、太平洋戦争敗戦から23年目だ。奇跡の経済復興を果たし、東京オリンピック(1964年)を成功させた頃だ。一方で、様々な犯罪(3億円事件など)が発生し、大学紛争の火が全国に燃え広がった時でもある。すなわち、戦後の矛盾と汚物が堆積し、巨大な山が形成されたのだ。その腐敗した山が、さらに成長して巨大な山塊を形成し、バブル崩壊というカタストロフィへと突き進むことになる。

『吹けば飛ぶよな男だが』のメッセージは、強烈なニヒリズムだろう。戦後日本という国は、腐敗物が堆積した山でしかなかった。深く物事を考えることもなくはしゃぎ回るサブは、戦後日本の典型だ。自己主張を忘れた花子は、いまだに女性差別を克服できない日本女性の典型だ。しかし、社会の底辺に澱(おり)のように堆積し、日々を必死に生きる人々に注がれる優しさを忘れてはなるまい。トルコ風呂を経営するやり手ババアを演じるミヤコ蝶々は、どうしようもない男どもを、慈悲の目で見続ける聖母マリアのようだ。

腐敗と絶望が堆積したニヒリズムの山を登り切った山田洋次と森崎東は、分水嶺を越えて、別々の道をたどり始める。山田洋次は、『男はつらいよ』シリーズを得て、国民的大監督の道を歩み、文化勲章を授章する。それは、秀才の到達点のようなものだ。

一方の森崎東は、松竹を退社し、一匹狼となって、ニヒリズムからアナキズムへと思索と模索の旅を続けることになる。鮮烈な作品を何本か残したが、山田洋次のように「巨匠」と呼ばれることは遂になかった。もがき続けた天才の哀しさを、森崎東に見る。しかし、僕は森崎東が好きだ。

 

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