花と蛇2 パリ/静子:宍戸錠の役者魂が心に沁みる

花と蛇2 パリ/静子
監督:石井隆
脚本:石井隆
原作:団鬼六
出演:杉本彩、宍戸錠、遠藤憲一
企画:石井徹 松田仁
製作:新津岳人
撮影:柳田裕男、小松高志
照明:市川徳充
美術:山崎 輝
音楽:安川午朗
2005年 日本映画
石井隆が杉本彩主演で『花と蛇』を発表したのは、2004年だ。
杉本彩の体当たり演技と、なによりその美しいヌードが評判を呼んだ。
今回の『花と蛇2』は、その翌年(2005年)に続編として公開された。
『花と蛇2』は、前作と比べると、認知度はそれほど高くないようだ。興行成績も振るわなかったらしい。
団鬼六の原作から離れすぎて、清楚な人妻・静子が被虐の虜になっていく過程が描けていない……云々。
石井隆の『花と蛇』シリーズは、そもそも団鬼六の原作とは別世界なのだ。
強いていえば、主人公(遠山静子)を鍵にして、性的嗜好という切り口で人間の内面に迫ろうという意図が共通しているといえば言えるのだが。
『花と蛇』の完成舞台挨拶に引っ張り出された団鬼六が当惑の表情を浮かべた程、原作と映画は乖離している。
ところで、世評に反し、僕は作品としては『花と蛇2』の方が圧倒的に上だと思う。
それは、作り手(石井隆)の魂の発露の点においてだ。
どれほどの社会的地位があろうと、どれほどの財産があろうと、どれほどの教養、知性、常識があろうと、どれほどの美しい肉体と顔立ちを持っていようと、人間という動物は、性的嗜好という脳内の暴君に振り回される哀しい存在でしかありえない……これが石井隆が『花と蛇』に込めたメッセージであろう。
『花と蛇』(第1作)では、舞台を日本に設定し、主人公・遠山静子は、完璧な肉体と美貌を備えた世界的なタンゴダンサー。そして、日本を代表する巨大企業の経営者を夫に持つ。アウトラインは、ある程度、団鬼六の『花と蛇』を踏襲している。しかし、原作でははるか年上に設定されていた夫を、美男子の野村宏伸に演じさせた。これで、魑魅魍魎のはずの『花と蛇』の世界が、一転して学芸会になってしまった。
石井隆の映像作家としての魂は、第1作では満たされなかったのだと思う。軽佻浮薄の21世紀の日本を舞台に、淫靡な団鬼六の世界を描くことは、そもそも不可能なのである。あまりにも、あっけらかんとしすぎている。大企業の御曹司を演ずる野村宏伸は、目を覆うばかりの演技だし、政界のフィクサー(石橋蓮司)も、狂犬のやくざ(遠藤憲一)も、なんとも居心地が悪そうだ。杉本彩のヌードだけが、唯一の救いだった。
石井隆は捲土重来を期したはずだ。そして、すべての設定をひっくり返した。新しい舞台はパリだ。アポリネールの猥雑な詩、モジリアニの裸婦、これらこそ『花と蛇』に相応しいと考えたのだろう。
パリの街角に降り立った杉本彩が、本当に美しい。モンマルトルの空を見上げる表情はいきいきしている。それらが、石井隆のインスピレーションを刺激したのだろう。プッチーニの『ラ・ボエーム』の世界を彷彿とさせる、若き芸術家群像。前作ではやくざを演じた遠藤憲一がパリの屋根裏部屋に住む売れない画家、知性と狂気が同居している役どころをとても居心地良さそうに演じている。
そして特筆すべきが、静子の夫である老画商を演じた宍戸錠だ。僕は心の底から感服した。
功成り名を遂げた老画商は、女装癖(異性装障害)である。さらに覗き癖(窃視症)である。マゾヒストであり、独占欲の裏返しとしての寝取られ願望である。まさに性的倒錯(パラフィリア)のデパート状態である。ラストシーンでは、静子を抱こうとして、バイアグラ(勃起不全治療薬)を飲みすぎ、腹上死して果てる……。
石井隆が描こうとした本質は、人間の愛しさと哀しさだろう。それらは、もはや表面的な日常生活では見ることはできない。社会的地位も財産も知性も学歴も外見も……すべては偽りの皮をかぶった幻想である。
真実は、美(杉本彩)というレンズだけでは見えてこない。老醜(宍戸錠)というレンズを合わせることによって、はじめて焦点を結ぶことに成功したのだ。宍戸錠は、この時70歳を越えていた。往年の「エースのジョー」は見る影もない。アップで撮られた頬には、美容整形で注入したシリコンを摘出した手術痕が隠すことなく映っている。僕は、これを美しいと思った。人間という哀しい動物を愛しく感じ、生きるということが心に沁みるとは、こういうことなのだ。
宝島:矜持と怯懦のはざ間で

宝島
HERO's ISLAND
監督:大友啓史
脚本:高田亮、大友啓史、大浦光太
原作:真藤順丈
製作:五十嵐真志、野村敏哉、角田朝雄、福島聡司
製作総指揮:石黒研三、佐倉寛二郎、Luci Y. KIM
出演:妻夫木聡、広瀬すず、窪田正孝
音楽:佐藤直紀
撮影:相馬大輔
編集:早野亮
2025年 日本映画
今年(2025年)も早や師走となった。
戦後80年と盛り上げようとしたのだろうが、どれほど笛や太鼓を鳴らしても、民は踊らなかった。戦後などという時代感はとうの昔に消え去り、新たなる戦前とういう漠とした不安がこの国を覆っている。
そんな今年、邦画界では、奇しくも「宝」を題名に取り入れた2本の大作が封切られた。ご存知のように、一本は『国宝』であり、もう一本は『宝島』だ。
僕はどちらの作品も映画館に足を運んで鑑賞した。今回は『宝島』について書くのだが、最初に断っておくが、興行成績など僕にとってはどうでも良いことだ。人生に残された限られた時間を費やして、老人は映画館に足を運ぶ。時には、自宅でDVDやブルーレイを鑑賞することもあるが、それは作品と向き合い、作品を鏡として自らの魂と対峙するためだ。申し訳ないが、その作品がどこかの映画祭で賞を取ったとか、観客が大勢押しかけただとか、逆に人気が出ずに赤字だったとか、それらに興味はない。ただ、もしも映画の神様という方がおられて、ゴスペル(福音)と呼ぶに相応しい映画を選ばれているのであれば、僕も首を垂れてその場に立ち会い、共に祝福したいのだ。
『宝島』は、戦後の沖縄、特にアメリカの施政権下にあった沖縄が日本に返還された1972年までを中心に描いている。それだけで、とても重いことだ。
僕は以前、浦山桐郎の『太陽の子』について書いたことがある。
歴史というものは、オーソドキシーを身にまとい、マジョリティーによって語られるものだが、その対極にある神話は、古代から常にアウトローであり、マイノリティーであった。『日本書紀』と『古事記』の関係である。
浦山桐郎は、現代の沖縄の神話を描きたかった。そして、神話は常に巫女によって語られる
……そんなことを書いたつもりだ。
『太陽の子』の公開は、1980年。沖縄返還からまだ8年しか経っていなかった。
コザ暴動から本土に逃げてきた若い両親(河原崎長一郎と大空真弓)の愛情を一身に受けて育つ少女ふうちゃんは、まさに沖縄の悲劇と厚い雲間からかすかに射しこむ希望の光であった。映画の神様は、ふうちゃんを良しとされたと、僕は泣いた。
そして、『太陽の子』からさらに20年あまりを経て、NHKで『ちゅらさん』が放映された(2001年)。
『宝島』で監督を務めた大友啓史も、若き日のNHK時代に、『ちゅらさん』に演出のひとりとして参画していた。
ちゅらさんこと恵里を演じた国仲涼子こそ、神話を語る巫女だったのではないか。そして、恵里の母を演じた田中好子は、すべての沖縄の人々を優しく見守る聖母ではなかったか。
では、『宝島』はどうであろうか。
僕は、スタッフやキャストらの矜持を感じた。特に、監督・大友啓史、主演・妻夫木聡。映画人としてこの作品をどうしても撮らねばならぬ、それは単なる使命感ではなく、彼らの魂の矜持のように僕には思えた。
米軍ジェット機が小学校に突っ込み、ナパーム弾が爆発したかのような地獄図となった「宮森小学校米軍機墜落事故」を忘れてはならない。
あるいは、駐留米軍の理不尽と横暴を、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍んできた沖縄民衆の怒りが爆発した「コザ暴動」について、我々はいつまでも語り継いでいかなくてはならない。
怒りが臨界点を突破すると、そこにはリオのカーニバルのような突きぬけた明るささえ現れることを、令和の時代を生きる若者に伝えなくてはならない。1968年の「神田カルチェラタン闘争」がそうだったように、1969年の新宿駅西口地下広場の「フォークゲリラ」がそうだったように。
嗚呼、と僕はここで深く嘆息する。
スタッフやキャストの矜持には深く感じ入る。大友啓史と妻夫木聡の意気や良し。
しかし、上映時間191分を通して、耳には聞こえない不気味な通奏低音のように流れ続ける、虚しさは一体なんだろう。
『太陽の子』や『ちゅらさん』からは聞こえてきた「ゴスペル」が聞こえてこないのだ。
僕は、映画の神様と書いた。
「映画の神様! あなたはこの作品を良しとされないのですか?」
僕は、何度も何度も、そう尋ね続けた。しかし、映画の神様は答えてくださらなかった。無言であった。
オーソドキシーにまみれマジョリティーによって語られてきた歴史を乗り越えるには、勇気が必要だ。
『太陽の子』や『ちゅらさん』が、女神たちによって語られたのは、そのためだ。
『宝島』の広瀬すずは、熱演だった。しかし、戦後80年で蓄積した悲しみのマグマを解き放つだけのカリスマを持ち得たであろうか。女神たり得たであろうか。
繰り返す。男どもは役に立たない。弱きものは、怯(ひる)む。矜持の陰に、怯懦が見え隠れする。映画の神様は、そこを見逃してはくれなかったのではないだろうか。
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第383回定期演奏会
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第383回定期演奏会
2025年11月8日 14:00
東京オペラシティ コンサートホール
メシアン:トゥーランガリラ交響曲
指揮:高関健
オンド・マルトノ:原田節
ピアノ:児玉桃
コンサートマスター:戸澤哲夫
トゥーランガリラ交響曲を演奏するためのオーケストラの設(しつら)えは、なんとも物々しい。
元祖アナログ・シンセサイザーともいうべきオンド・マルトノから始まり、グランドピアノ、チェレスタ、鍵盤型のグロッケンシュピール、ヴィブラフォンが舞台前面を埋める。
一方、舞台後方にはこれまた、様々なパーカッションがずらりと並べられる。
その舞台に、プレトークで高関健と一緒に登場した原田節(たかし)は、ラフなTシャツ姿だった。
失礼ながら僕と同じ(古希くらい)年代とは思えぬ若々しさだ。
好奇心旺盛な科学好きな少年、あるいは野心を内に秘めた若くて優秀なエンジニアのような雰囲気が漂う。
人生をオンド・マルトノという楽器に捧げてしまった、あるいはトゥーランガリアの世界に旅立ってしまった人だ。
大仕掛けであるがゆえに、あまり頻繁に演奏されることのないこの交響曲を、すでに国内外で350回も客演しているという。
いよいよ本番だ。数分間の早変わりで再登場した原田節のいでたちは、魔法使いだった。
ディズニーの『ファンタジア』の中で、『魔法使いの弟子』のミッキーマウスが着ていた、衣装を思い出してもらえばいい。
そういえば、メシアンの師匠はデュカス(『魔法使いの弟子』の作曲者)だったな。
『トゥーランガリラ交響曲』が作曲されたのは、第二次世界大戦直後の時代だ。巨大な戦争が終結して訪れた平和。しかし、ファシズムの終焉は、コミュニズムとの対立の始まりだった。そして、古い価値は腐食し、常識は崩壊を始めた。メシアンは、戦争初期に従軍して、捕虜も経験している。キリスト教に深く帰依していた彼が、あえて異教的なトゥーランガリラの世界観を展開した背景には、戦争と戦後世界への絶望があったからではないだろうか。
「トゥーランガリラ」は、メシアンにとって暗中模索の時期だったのかもしれない。その後、彼は「鳥の声」の採取(採譜)にのめり込み、死の直前にオペラ『アッシジの聖フランチェスコ』にたどり着く。鳥の声を理解することができたという聖フランチェスコに自らの境地を重ね合わせたのだろう。
僕は、メシアンが「トゥーランガリラ」のオーケストレーションにオンド・マルトノを加えた理由が分かるような気がする。キリスト教というガチガチのロゴス(ロジック)へのアンチテーゼだったのではないだろうか。12音という量子化された音階の中で展開されるクラシック音楽は、ロゴスの世界の中でのみ美しく整合している。しかし、その既存の価値観が壊れ始める時、デカルト的な予定調和だけでは表現しきれないパトスが現れてくるのだ。12音階を超越するためには、アナログ回路で組み上げられた不安定なオンド・マルトノという楽器が必要だった……。
そういう考えてみると、グランドピアノとオンド・マルトノは、まさに対極にある楽器ではないか。黒鍵と白鍵によって調律された音階の権化がグランドピアノならば、オンド・マルトノは、境界がなくゆらゆらと漂う妖怪である。
児玉桃はグランドピアノの鍵盤からありとあらゆる技を繰り出して攻撃をしかけるが、オンド・マルトノの原田節はそれらをはね返すのではなく、合気道のようにそれらを受け止めて、音階の段差を自由に飛び回るのである。
「トゥーランガリラ」といえば、若き日の小澤征爾の名盤を思い出す。あの頃の小澤は「魔法使いの弟子」のようだった。小澤のような魔法使いは、最近ではチョン・ミョンフンだろうか。これらの極東出身の指揮者が、西欧文明を牙城であるクラシック音楽という権威に挑戦するには、ロゴスの世界観だけではない、別の武器が必要だったという点で、二人は共通している。
さて、カラヤンの弟子を自認する今回の指揮者・高関健はどうだろうか。バーンスタインはメシアンを振ったが、カラヤンがメシアンを振ったことはあるのだろうか。寡聞にして僕は知らない。クラシック音楽界の閻魔大王のような存在だったカラヤン。その弟子の高関健は、メシアンをどのよう振るのか、興味深かった。
休憩を挟まず一気に演奏される85分におよぶ大曲のフィナーレ。熱狂が最高潮に達した刹那、どこかの観客が感極まってブラボーを叫んだ。ブラボーは、指揮者がタクトを下ろしてからにしましょうね(笑)。
オーケストラは、一糸乱れぬ大熱演であった。そして、高関健の指揮。第二次世界大戦後の混沌、彷徨するメシアンの魂。小澤やチョン・ミョンフンだったら時折聞こえてきたであろう「破」の瞬間。それらを聞こうと耳を澄ませても、どうしても聞こえてこなかった。楽譜に忠実すぎる高関健の特徴だろうか、それともカラヤンの弟子としてクラシック音楽の王道を追求する、面目躍如ということなのだろうか。
ナニワ金融道:欲望のラビリンス

ナニワ金融道
演出:澤田鎌作
製作:山口雅俊
原作:青木雄二『ナニワ金融道』
脚本:君塚良一
出演:中居正広、小林薫、緒形拳、加藤あい、堤真一
音楽:鴨宮諒
エンディング:ウルフルズ「借金大王」
2000年 日本(フジテレビ系列)
中学生には早すぎるかもしれないが、大学生では遅すぎる。社会の仕組みや人間関係について高校で学ぶ「公民」の授業で、教科書として最も相応しいのは、『ナニワ金融道』(青木雄二作、全19巻)だろう。文科系だの理科系だの、どの職業を選ぶにしても、まず社会生活の基本を身につけておかなくてはならない。先生も生徒も、真剣勝負のつもりで、『ナニワ金融道』に向き合えば、これから社会人になろうとする人たちの、「公民」リテラシーは、確実に高まるはずだ。その知識を悪用するかどうかは、本人次第だ。しかし、日本のためには確実に良い方向に向かうと、僕は信じている。できれば、副読本として、『新ナニワ金融道』(青木雄二プロダクション作、全20巻)も、あわせて読んで欲しい。
『ナニワ金融道』には、様々なエピソードが登場する。すべての元は「金(かね)」である。先生はまず、ウルフルズの『借金大王』を教室に流すところから、授業を始めてほしい。さて、『ナニワ金融道』の主人公・灰原達之は、ひょんなことから株式会社帝國金融に入社する。灰原達之はそこで社会の底辺と、さらにその裏にある闇とを、実務(貸した金の取り立て)を通じて学ぶことになる。帝國金融と名前は立派だが、要は、追い込み屋(借金まみれになった債務者をさらに追い込んで暴利を得る)である。
たとえば、企業がプロデュースする映画製作の裏面が登場する。なぜ、映画館に数人しか観客がいないような映画が後を絶たないのか。そこにある前売りチケットの下請けや関連企業への押し込み販売。さらには、その前売りチケットに群がるブローカー達。もっと大規模なイベント(たとえば万博)にも、通底するものがないだろうか。
あるいは、土地取引の様々な要素。埋設廃棄物が売買価格に与える影響。それを悪用した利ザヤ稼ぎが描かれる。森友学園への国有地売却にあたって地下埋設物による汚染を理由に、売買価格が大幅に値引きされたとされる問題。まさか、『ナニワ金融道』を参考にしたわけではあるまい。勉強した知識をどう応用するかは、あくまでも本人次第だ。
新興宗教による高額献金や霊感商法が描かれる。なぜ、多くの人が被害にあってしまうのか。悩みや苦しみを抱えた人が純粋な気持ちで宗教に救いを求めるだけではない。政治、経済、果ては反社会的集団にまで根を張った巨大な利権構造が浮かび上がる。
青木雄二は、自らの経験を踏まえて、もちろん調査研究もした上で、『ナニワ金融道』を創作したのだろう。しかし、誰にでも出来ることではない。やはり、「天才」のなせる業だ。天才の作品には、普遍性と予言性が備わっている。平成の時代に発表された『ナニワ金融道』は、この令和の時代に至っても、古びることはない。いや、その予言性は、政治経済のタガが外れ、底が抜けてしまった令和日本において、ますます的中率を増しているように感じられる。
『ナニワ金融道』は、テレビの長尺のスペシャルドラマとしてシリーズ化された。放送したのは、「楽しくなければテレビじゃない」を標榜していたフジテレビ。そして、主役の灰原達之を演じたのは、今は芸能界を引退している(2025年10月現在)中居正広だ。
帝國金融に入社した灰原達之は、才覚と努力で日本一の金融マンになってみせると誓う。その夢や良し。しかし、ある時は人情に流され、ある時は愛情に負け、ある時は理想を追いすぎて、刑務所暮らしも経験し、立派な前科一犯となる……。『ナニワ金融道』『新ナニワ金融道』あわせて全39巻の大作は、灰原達之という人間のビルドゥングスロマンでもある。
中居正広もまた、日本一のエンターテイナーを目指し、見事にその夢を実現したかに見えた。真偽のほどは定かではないが、彼は決して銭ゲバではなく、被災地への支援やチャリティーにも熱心だったという。しかし、自らが演じた灰原達之が乗り移ってしまったということなのだろうか。フジテレビという舞台で、華やかなステージから奈落に転落してしまった。『ナニワ金融道』に描かれた欲望のラビリンスに迷い、抜け出すことができなくなった男を演じ続けなくてはならなくなった悲劇の主人公ではないだろうか。
嫌われ松子の一生:寓意に満ちた近代日本史

嫌われ松子の一生
Memories of Matsuko
監督:中島哲也
脚本:中島哲也
原作:山田宗樹『嫌われ松子の一生』
製作:石田雄治、佐谷秀美
製作総指揮:間瀬泰宏、小玉圭太
出演:中谷美紀
音楽:ガブリエル・ロベルト、渋谷毅
主題歌:BONNIE PINK「LOVE IS BUBBLE」
撮影:阿藤正一
編集:小池義幸
2006年 日本映画
思えば『嫌われ松子の一生』が公開されてから早や20年が経とうとしている。
時が経つのは早いものだが、神話が神話たる所以は、それが「永遠性」に裏打ちされているところにある。
山田宗樹の『嫌われ松子の一生』は土俗的な神話性を帯びているが、中島哲也はそれをポップアートのような味わいで映像化して見せてくれた。
僕は、『嫌われ松子……』に、ジュディ・ガーランド主演の『オズの魔法使い』のテイストを感じる。
『オズの魔法使い』は、神話を持たないアメリカという国の神話だ。『オズの魔法使い』のメッセージは「家が一番(There's no place like home)」だ。アメリカという国は、「自国第一(家が一番)主義」という宿痾から逃れられない。19世紀に提唱された「モンロー主義」から紆余曲折を経ながら、21世紀におけるドナルド・トランプの「アメリカ第一(Make America Great Again)主義」まで、脈々と受け継がれている。
ならば、わが国の現代の神話たる『嫌われ松子……』のメッセージは、何であろうか。それは、悲しいまでの「非論理性(Illogical)」だろう。観客であるわれわれは、松子の人生を貫く非論理性になぜか共感してしまうのだ。
福岡県の中学教師・松子の人生は、修学旅行中に起きた生徒による窃盗事件の罪を自ら被ったことから暗転する。愛人関係、家庭内暴力、売春(トルコ風呂)、嫉妬、殺人、刑務所、ゴミ屋敷、生活破綻、これでもかと転落し続け、最後は荒川の河川敷で不良中学生によるババア狩りにあって殺される。
しかし、論理破綻し感情のおもむくままに生き、果てしなく転落していく松子の生き様と死に様は、そのまま近代日本史と重ならないか。幕末の混乱と明治維新は、レジームチェンジしただけで、基本的人権とも民主主義とも無縁であった。征韓論から始まり、日清戦争から日露戦争を経て、満州事変、日中戦争、見込み違いの三国同盟から太平洋戦争へと突き進み、遂には壊滅的な敗北を味わう。われわれは、松子の一生を笑えるであろうか。
『嫌われ松子……』は、過去の近代日本史のアナロジーであるだけではない。もっと恐ろしいことに、それは映画が公開された2006年以降の未来までをも予言していたことだ。『新約聖書』が、イエス・キリストや使徒たちの事跡をたどるだけでなく、「黙示録」によって未来までも見通していたように。
2006年から2025年だけを振り返っても、『嫌われ松子……』の黙示は、少なからず具現している。1990年代から続く、日本経済の没落傾向は、もはや止めようもない。国力の尺度である「民度」の劣化は、手の打ちようがない。近代国家を謳いながら、実生活においては土俗性から逃れられず、常に感情論に左右され、道徳を振りかざしながらも、一皮むけば、性風俗においても、公序良俗においても、下劣な行為が跡を絶たない。排外的な言説を垂れ流す政党が支持を集める一方で、大規模な詐欺犯罪集団がアジトを他国に建設しても恥じるところがない。まさに、厚顔無恥である。
松子を演じる中谷美紀には、鬼気迫るものがあった。それは、ひとりの女性(松子)を敷衍(ふえん)して日本民族を描いていたからではないか。絶望的な悲しみに直面すると、無意識のうちにピエロ(ひょっとこ)顔をしてしまう松子。それは、国際会議などで、自国の立場を言明しなければならない場面で、日本人が陥りやすい怯(ひる)みと同じではないか。
ラスト近く。なにもかも失った松子が、夕焼けの荒川土手に佇むシーン。美しい……。松子のゴミ屋敷の安アパートがあったのは、江戸川区だろうか。江戸川区側から荒川を眺めれば、西に向かうことになる。故郷の福岡を遠望しているのだろうか。いや、没落しようとする祖国・日本の落日を見ているのだ。
