せっきーのgdgd日記

せっきーのgdgd日記

脳性麻痺で自立生活をしているおぢさんの日常生活を綴ります。

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仕事や個人的なゴタゴタ、そしてFacebookでのやり取りに追われて二年近くも留守にしてしまいました。

 

正直なところ、何か煮詰まってる感じがします。

今の自分にとって、したいこと、しなげればいけないこと、してはいけないこと。

あれこれ考えていると、出来ていないことが多くて絶望的になったりもします。

 

でも、それは決して悪いことではない気ががしています。

人それぞれ悩みは必ずあって、それをどう処理するか。

誰かに話したいけれどオープンにできない、またはしたくないこともあります。

 

ならば、後にさえ引きずらなければ、ひとりで自分の心をのぞき込む時間もあっていいのかなと。

 

どこで読んだかは失念してしまったけれど「まったく悩まない時間を持つよりも、例えば10分間と時間を決めて、その時間は自分のことで悩む時間を持つ人の方が、結果的に前向きな生き方が出来ることが多い」と読んだ記憶があります。

 

表現としてはアレかもしれないけれど、自分の気持ちや過度の欲求に喪を服す時間があってもいいのかも。

今まではスローペースの更新でしたが、あまり間隔が空いてしまうと流れが途切れるので、出来るだけ更新頻度を上げようと思っています。
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前回は高校を卒業したけれど仕事が見つからず、東京都心身障害者福祉センター(以下、都身障)の職能課に通い始めて、そこで本格的にパソコン(富士通FM-8)を使い始めたというところまで書いた。

職能課からFM-8の使用を許されてからは、午前中は和文タイプ、午後はFM-8で簡単なプログラムを組むという毎日で、その合間に当時はまだ少なかった障害者のプログラマー養成をやっているところを見学したりしていました。
神奈川県座間市のアガペ作業センターや埼玉県所沢市の国立職業リハビリテーションセンター(以下、国リハ)等、当時障害者のプログラマー養成をやっていたところはあらかた見学して回った。
でも、場所が遠かったり、対象者の最終学歴の要件が大学卒だったりとなかなか条件が厳しかった。

そんなところに飛び込んできたのが、日本チャリティプレート協会(当時は財団法人、現在は特定NPO法人)が当時新宿一丁目に本部に併設する形で、障害者のプログラマーを養成する訓練所の話だった。
当時は既に日本チャリティプレート協会本体からは独立した「財団法人 肢体不自由者職能訓練センター」(現・一般財団法人 障害者職能訓練センター)という別組織になっていた。
まあ、当時の同期生や先輩後輩と会って話すときはみんな「チャリプレ」って呼んでいるけれども。

ここでチャリティプレートについて簡単に説明すると、元々は米国発祥で、特定の番号や文字と紛失時の連絡先として日本チャリティプレート協会の住所や電話番号を刻印したキーホルダーのこと。
それを付けたクルマなどのキーを紛失すると、そういうものを付けていないキーなどより返却率が高くなる。
そして、キーホルダーの製作や紛失時の連絡先業務で収入を得て、職業訓練や各種福祉団体への寄付金交付などの業務に使うという仕組み。
詳細は日本チャリティプレート協会のウェブサイト http://www.jcpa.net/jcpa/ を参照して欲しい。

説明が長くなりすぎたけれど、肢体不自由者職能訓練センターが次年度の訓練生を募集しているという情報が入ってきて、ダメモトで受けてみようということになった。
当時は今と違って障害者にITを習得させる訓練所も少なくて、一般企業の障害者雇用率も低かったので、まずセンターが就職先を斡旋して、そこに就職できれば就職先からの委託という形で訓練を行っていた。
当時の就職先は今では考えられないほどの大企業がたくさんあって、運良く自分もある大手電機メーカーに潜り込むことが出来た。

当時は今と違ってパソコンが一般業務に使えるほどの性能を有していなかったので、いわゆる汎用コンピュータのプログラミングを勉強することになった。
肢体不自由者職能訓練センターは当時、日立製作所の「M-220D」という汎用機を導入していた。

M220D


当然ながら汎用機は堅牢なOSを持っていたけれど、スペックだけ見れば今のスマートフォンよりも低いものだった。
要は性能よりも「24時間365日止まらない」という信頼性が要求されていた。
今でもリアルタイムでお金を取り扱う金融機関等では汎用機の需要が高いし、汎用機を作り続けるメーカーもある。ぼくの前の職場もそうだし。

端末にしても、汎用機本体とのやり取りをするだけの機能しかなかったけれど、その分堅牢な造りになっていて、1台数十万円もする代物だった。
そういう高価な端末はそうそう人数分揃えられないわけで、訓練所にも5台しかなかったし、就職した会社の情報システム部にも4台ぐらいしかなかった。

今でこそ就職すれば自分用のPCが貸与されることが多いけれど、それって結構最近になってからのこと。
チャリプレから斡旋された職場には27年間在籍したけれど、その27年間はITの変遷、つまり大型汎用機による大量集中処理からクライアントサーバーシステムによる分散処理、そしてインターネットの普及やクラウドコンピューティングによって再びサーバーによる集中処理になる過程を見てきた27年間だった気がする。

いつもより長くなって申し訳ない。
この続きはまた今度。

前回から1ヶ月近く間隔が空いてしまったので、前回のおさらいを兼ねつつ。

高校を出て仕事が見つからず、当時早稲田にあった東京都心身障害者福祉センター(以下、都身障)に相談に行き、ケースワーカーから残酷な事を言われつつも、都身障にあった職能課で訓練を受けることになったわけです。

今まで地元の一般の学校でやってきたぼくとして、自分以外の障害者との初めての出会いでもありました。
入所式の時、カルチャーショックに襲われたことを今でも覚えています。
それでも日々を重ねていくうちに同世代の入所生とも仲良くなって、訓練の休憩時間中やお昼休みに屋上でキャッチボールをしたり、近くのラーメン屋に行ったりしたものです。

当時はまだ和文タイプや写植が全盛の頃で、午前中は簿記などの勉強をしつつ、午後は和文タイプの操作を習得していました。

都身障の職能課という所は基本的に三ヶ月の入所期間の間に職場を見つけて、退所していく方が殆どでしたが、ぼくは三ヶ月で仕事が見つかるような障害ではなかったし、未だにプログラマーになる夢を捨てきれなかった。

そうこうしているうちに職能課にあったパソコンを使わせてくれるようになりました。
職能課にあったのは富士通のFUJITSU MICRO 8(以下、FM-8。余談ながら富士通のパソコンの機種名には頭にFMが付いていますが、それはこのFUJITSU MICROの略というわけです)。

 

fm-8.jpg

 

このFM-8、当時としては大変意欲的なマシンで、CPUを2個も積んでいたんです。

モトローラの68A09(1.5MHz)と6809(1MHz)。

このモトローラ6800系は当時の8ビットCPUとしては、非常に高機能なもので「究極の8ビットCPU」と呼ばれており、後にマイクロウェア社のOS-9と呼ばれるOSとの組み合わせで完全なマルチタスクを実現していたのです。

もっとも当時はそこまでの要求もなく、またパソコン用OSという概念もなかったため、当時の商用プログラムはハードウェアを直接アクセスするものが殆どで、そういうプログラムを組む人からは不評を買っていました。

 

おっと、話が横に逸れました。

ひょんな事からFM-8を使わせてもらえるようになったものの、上に書いたように今みたいな高機能なOSもなく、ROMに焼き付けられたBASIC言語を習得するのが当たり前の時代だったので、FM-8のそばに置かれたBASIC言語の解説書を読みながら、簡単なプログラムを組む程度でしたが。

この続きはまた今度。

前回の続きです。

一般の高校を出ても就職出来なかったぼくは、身体障害者手帳や療育手帳の発行や義肢・補装具の処方・適合判定だけでなく、当時は直接障害児(者)のリハビリテーションや職能訓練を行っていた東京都心身障害者福祉センター(以下、都身障)に相談に行くことに。

前回書いたように「コンピュータのプログラミングをやりたい」と都身障のケースワーカーとの面談で切り出したら、あっけなく「高望みが過ぎる」と一蹴されてしまった。
実のところ、ぼくは小学校時代から算数・数学が大の苦手で高校でもどうにか赤点スレスレで留年を免れてきた。
そんな自分が数学の知識が必須なプログラマーになるなんてケースワーカー曰く「無謀もいいところ」だと。

それでもケースワーカーに必死に懇願して、当時、都身障にあった職能課で訓練を受けることにはなったけれど、あの時のケースワーカーとの面談は、ぼくにとって初めての挫折だった。
都身障での面談を終えて帰宅した後、寝床に潜り込んで心の底から泣いたのを今でも覚えている。
まあ、今までが順調すぎたとも言えるけれど。

この続きはまた今度。
前回の投稿よりだいぶ間隔が空いてしまいました。
謹んでお詫びします。

さて、ここからはしばらくぼくのコンピュータ遍歴について書いてみようと思う。
そもそもぼくは小さい頃から機械いじりが好きで、家のテレビなどが壊れたときに電気屋さんが修理をするのをじっと眺めるのが楽しみだった。

今やテレビもコンピュータと同じで、壊れたらその箇所のモジュールを丸ごと交換するか、場合によってはテレビごと新品(もしくは代替品)に交換するのが当たり前になってしまった。寂しい時代だ。

それはともかく、コンピュータと呼べるものに初めて触れたのは高校時代のこと。
当時はまだマイコンなどと呼ばれていた時代で、文化祭のマイコン部の部屋にプログラマブル電卓と並んで、シャープのMZ-80Bが置かれていた。
MZ-80Bは本体にモノクロの10インチディスプレイとキーボード、そしてプログラムを記録するカセットレコーダーが内蔵されてた。


シャープMZ-80B(画像はWikipediaより)


まあ、今から30年以上も前だから、本体が大きい割には性能は今のガラケーよりも低かったぐらいで。
もちろんMicrosoft Officeなんてない(そもそもまともなOSなんてない)時代だったので、内蔵されていたBASICという言語で使う人が自分でプログラムを書くわけ。
で、それをカセットテープに記録して、使う時に本体に読み込ませてやると。

マイコン部のMZ-80Bのデモンストレーションを見ているうちに、ある程度の知識は入ってきた。
見よう見まねで簡単なプログラムを書くだけで、皆からすごいと言われたりして。
もっとも当時は性能的にもそれほど難しいことが出来るわけでもなかったし、ぼくはマイコン部の部員ではなかったので、文化祭の後は高校のMZ-80Bを直接いじる機会はなかったけれど。

そんなこんなで高校生活をダラダラと過ごしていたけれど、当然ながら高2の終わり近くになると卒業した後の進路を考えなくてはならなかった。
障害があるから肉体労働は無理だと分かっていた。あとは頭を使う仕事しかない。
じゃあ何をするか?

ちょうどその頃新聞に、身体障害者にコンピュータのプログラミングを教える訓練所の記事が載っていて、直感で「これだ!!」って思ったわけ。
これは今でもぼくの人生の中で最大の賭けだった気がしている。
もちろんこの選択がすんなりと行くわけではなかったけれど。

この続きはまた今度。