★せきしょう★SekiShowのブログちゃんぷる! -171ページ目

いつか見せてあげたいバリ島

原色の花々。

ライスフィールド。

真っ赤の中に混じる様々な色を持つ夕焼け。

華やかな民族衣装につつまれた踊り子たち。

そして

鳥たちの合唱。

カエルの合唱。

風に乗って聴こえてくるガムランの響き。

本当は、生きるために必要なことは、魚を獲って、果物・野菜・穀物を取り食べていくこと、子供を作り種を繁栄させていくこと。

そして生きていることを神に感謝すること。

そして人々が楽しむ為、神に捧げる為に芸能や絵や音楽がある。

それだけでいいのかもしれない。

バリ島の不思議さ。。。

昨日バリ島に到着した。

ここに何度も足を運ぶ人もいれば、二度と来たくないという人もいる。

バリ島が人を選んでいるとも言われている。

霊感がある人は、異常にその力が活性化され、無い人も何かを感じて帰っていく。

友達がバリのお盆のお祭りを撮った写真に、はっきりと色々な霊が写っていた。

降霊した男が、境内に運ばれていく写真には、生きたバリ人だけじゃなく、霊、動物らしきもの、得体の知れない手足も運ぶ手伝いをし、傍観している者、降霊した者にまとわりついている者まで写っていた。

そもそもお寺での祀りは、生きたものの為ではなく、死者、霊魂、精霊のためだったりする。全てが混在して、全てが共に“生きて”いる。自然界と霊界の共生の場。

前に読んだバリ人おじいちゃんへのインタビューに、こうあった。

“昔はお祭りのときにお米も一緒に踊ったものだ”と。

23年前に、バリの至るところにある神棚に、一晩のうちにチョークのようなもので、鳥の足跡などが記された事件があった。

バリ州警察は、絶対に犯人がいると会見したが、その後、警察署長室内の神棚からそれが発見され、精霊の仕業でした、と会見で述べた。

そして、バリ人たちは、きっとお祭りを怠っていたからだ、とその年は盛大にお祭りをした。

きっと昔の日本もそうだったに違いない。コンクリート・ジャングルの中には精霊は棲むことが出来ないのだろうか???

段ボール肉まんのテーマソングCD発売!

アキバで流行の”段ボール肉まん”のキャラクター マリリン&コーリン が歌う 九龍ベイビー

3月1日アキバの店頭で先行販売で、Amazonはその1週間後発売予定です。


やっと完成。


歌と踊りとアノ衣装。。。

歌だけやっている人にはちょっと無理な設定も、さすが役者である、西田妙子&せいらちゃん。


普通難しいと思われることも、これをやるんだよ、と言われれば頑張ってやってのけてしまう役者魂!w



段ボール肉まん
 

まさにこんな格好です。


演劇ユニット☆宇宙食堂の全面協力を得て製作しているため、曲もなんだかいつもの演劇時のテーマソング&オープニングダンスのような、摩訶不思議なミュージカル・トランスポップ。


でもちゃんとギター、いっぱい入れておきました。w

そして音緒の山影くんが、三味線でシークレット参加。


カップリングのアキバMIXバージョンも、アキバというか、ハウス・ダンドゥットというインドネシアの売春婦がいっぱい溜まりそうな(笑)ディスコでガンガン流れている、欧米には無い音楽が入ってます。


乞うご期待!




インドネシアのタバコ・ガラム

僕は、インドネシアのクレテック(丁子)を吸っています。
銘柄は、LA menthol。日本には売っていない為、切れるとグダンガラムを買います。
昔は、バリに行ったサーファーが湘南あたりで密売してました。学生の頃、二子玉川の高島屋で売っているのを発見して以来、わざわざそこまで買いに行ってました。
今は、近所のセブンイレブンでも売っているので簡単に入手できますが、地方に行くとなかなか出会えません。

舞踏との初コラボ。即興編

友達の映像&舞台美術&舞台監督をやっている安達さんが
ピアノで何かやるんだけど、一緒にやらない?という誘いに乗って
即興で舞踏との初コラボをしてきました。


案の定、裸に白塗りのダンサーが、檻の中でなにやら妖しげな踊りをしてました。


まともなギターPlayをするつもりは無かったけど、黄金の"音緒"チューニングで
一人音緒っぽさを出しつつも、弦をこすったり叩いたり引っ張ったり、、。


結果、人間やる気になれば60分間、非音楽(ノイズとか)に時折、
あれ、ちゃんとこの人ギター弾けるんだ、という"音楽"も混ぜつつ演奏してきました。


パフォーミング・アーツってやつですね。あれはきっと。


音緒では人を楽しませる、という要素がいっぱい。
パフォーミングアーツは、なんていうんだろ。。
自己との対話的であったり、共演者との息遣いと段々出来上がってくる
即興が、独特の空気感を作る、、大いなる自己満足の世界っぽかった。


大阪からわざわざ実に来た人が、元気になりました!と言っていたが、
他の人は、凄かった、夢の世界に引きずり込まれたと言っていたが、俺もそういう気持ち。

笑いとか、解るストーリーが無い分、全体像で何かを感じ取ってもらうものなのかな。

まだまだ演ってるくせに解らないことだらけ。。。


でも、他の人のも見たけど、良くないモノはすぐわかった。o(^-^)o


該当者が見たらやばいので、w 端的に。

音は、ノイズだって聞いていたのでどんなものかと思ったら、、、


機材を並べた、DJっぽいいでたちのギター君が、ノイズ音みたいのを電気処理でぎ~ぎ~出していた。
すると、SAXが加わり、人間味のある暖かい音が鳴り響く。
すると、やめておけばいいのにギター君。つたないテクでフツウにギターでメロディーらしきものを
弾き始めちゃった。。。
そこで帰っちゃいました。

ちゃんと弾けない人間は、もっと違う楽器の使い方を提示してくれたらよかったのに♪

つうかノイズって音楽は、一体どこからどこまでなんだろう。

今度考えてみようっと。


最後は辛口でしたが、俺もそう思われないように頑張ろうっと。 

インドネシアの英雄の孫同士の結婚式

7時に浜松に向かおうということで、ライブが終わったその足で、浅草の新郎のいとこの家に泊まって、6時半に起こされ急いでシャワーに入って、準備を7時過ぎに完了!

と思ったら朝っぱらからナシゴレンを作ってくれて、まだ出発しないのかな、と思いながら食べて、、結局出発は9時過ぎ。

もっと寝たかったのに。。

まあSudah biasa,,(毎度の事、、、)だ。

お昼に浜松に着いてモスクで結婚式。



夜はアーチェーテー(ACT=アクト)で披露宴。

日本で殆ど見ることの出来ない伝統舞踊アリのスンダ式の結婚式。



俺も新郎の家族として場内を徘徊。みんな俺をインドネシア人と思ってパシャパシャ写真撮ってる。。。w 



共に日本人のおじいちゃんを持つ新郎新婦。それぞれ太平洋戦争に於いてスマトラなどで連合軍と戦い、終戦後インドネシアに残りインドネシア軍を教育し、そして共に対オランダとのインドネシア独立戦争で戦った日本軍人だ。

俺は新郎のおじいちゃんに仲良くしてもらい何度も家に遊びに行った。新婦のおじいちゃんは、残念ながら1回しか会っていなかった。そして二人とももうこの世にいない。ジャカルタ・カリバタ英雄墓地で眠っている。

そんな二人が日本で出会って結婚。

式場入り口に中川、藤山とおじいちゃんの日本姓で書かれていた。なんとも言えない気持ちになった。。。



東南アジアを西洋からの開放をしてくれた英雄として、今でも日本人が尊敬される楚を作ってくれた、本来日本でも尊敬されるべき日本軍人の遺伝子が、こうして残されていく。。

そんな思いと裏腹に、場内はDangdutで踊り狂い、締めがないまま終焉。。。



そして日帰りで東京へ。。。


民謡と民族音楽と演劇とロック

今年はなんだかいっぱい曲を作ったりレコーディングしたりライブもおこなった。


去年2006年末にCDを出した”螺旋 ”はYoutubeで相当なアクセスがあり、麻生太郎のFlash MovieのBGMに使われ、自民党のホームページ上でも流れた。


同じく去年の11月からジョイントし始めたバリ島のプラネットバンブーというエスニック・コンテンポラリーグループでレコーディング、ライブも4回やった。創始者で、クオリティ・コントロールをしていたみちろうさんが日本に帰国してしまった今、エスニック色が薄くなりウブド住民からアマチュアバンドと呼ばれているだけあって、レベルが低くなってしまい酷い演奏。

僕がレコーディングした曲は、彼ら名義では出さないことにしました。1部のバリ人の民族楽器のパートは残して、ちゃんとした演奏を出来る人のトラックを入れ替えることにしましたが、発売時期は未定です。


というのも、あの民族色・霊妙なサウンドがみちろうさんの演奏・音楽観によるものだと判明して、みちろうさんとユニットを組んだので、新たに来年の暖かくなった頃にレコーディングをすることにしたからです。

音速珈琲廊(Sonic Cafe)というユニット名。ギターとカリンバ・ティンクリック(竹琴)などとのDuo。

神がかったみちろうさんの演奏が聴ける、他に無いサウンドです。


演劇ユニット 宇宙食堂の旗揚げ公演と第二回公演を2007年におこなった。動員も当初目標を達成した。来年は1.5倍、2倍になるよう役者に頑張ってもらいたいし、音楽も他劇団に類を見ない極上レベルのものを作って行きたい。


そしてメインの活動は、三味線とギターによるDuo 音緒 (ねお)。

今年の4月に始めて、(財)日本民謡協会のコンテストで審査員賞受賞、日本民謡・日本の音楽の目覚め・気付き、レパートリーを増やしてライブ、レコーディングと、大忙し。来年前半は、メジャーになったら出来なくなるような活動を、目いっぱいやろうと思う。来年末にはメジャーからCDを出したいところ。音緒の音も、他の誰にも真似出来ない。


他にはギターでレコーディング、ライブ、作曲、TV出演など色々とやってきた2007年。

来年は、もう照準が定まっているため、新たな展開が多くなる1年になりそうだ。


今から楽しみだ。。





演劇とプロレス

共通しているのは、ストーリー性・芝居性・ドラマ性。

ただし、この“性”が付いている事が、同じではないということだ。

最近、生涯でワースト3に入る芝居を見た。

何度も時計を見て、まだ30分しか経ってないのかよ?などと思わせる内容。

ひどいのは、台本、演出、舞台の使い方などだけでなく、有名人だろうが演劇素人を主演にしてしまったこと。

稽古で喉を潰すという事は、試合前の練習で靭帯を痛めたりとか怪我をして出場出来なくなるのと同じことだと思う。

プロレスにおいて、何が重要かというと勝敗じゃなかったりする。

生き様、試合が決定してからのマスコミを使った神経戦、試合後のマイクパフォーマンスが重要だったりする。でも、最後には必ず勝ったからアントニオ猪木はその点においても天才だった。

猪木は登場時に足を引きずり、観客がどよめいた。芝居がかっていた。

そしてこの映像は引退式。

http://www.youtube.com/watch?v=RWSa7zlAACI&feature=related

猪木は役者とも言われたが、演出家としての才能がずば抜けている。

試合前の猪木たち。蝶野はなりきれなくて笑いを堪えているが。。(笑)

http://www.youtube.com/watch?v=d17c_E7OhMM

そして大仁田厚の名演(?)ハマコーに逆切れ

http://www.youtube.com/watch?v=ixJgPOOFO_Y&feature=related

蝶野との試合前

http://www.youtube.com/watch?v=Cdj6pgrHx0c&feature=related

試合後

http://www.youtube.com/watch?v=d2ZAfhaZ_Iw&feature=related

この人のナルシズムから生まれた演技は、リアリティの中で最も生きている。

演劇での芝居・演技において、笑わせるシーンに使われる、“素顔を出す”方法はこれらの逆である。

プロレスにおいての芝居性は、演劇では無い。

演劇の場に立つ者が志すモノは、プロレスのようなリアリティの中での演技・芝居性ではなく、バーチャルの中でのリアリティ性の演技追求であるといえる。

よって、これを理解していないもの、または未熟な者が演劇の舞台に立つとどういう風に観客の目に映るのかを目の当たりにした一夜だった。

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それぞれのクリスマス・イヴ

昼間、宇宙食堂 歌詞担当したLeeyaのライブを見に行った。

客層が20歳前後の、しかもLive慣れしていない人ばかりで、おとなしく黙ってみている。

MCの後は、なんだか急に拍手喝采。

寒い会場なのか、暖かい会場なのかさっぱり不明な状態。自分的には、見ているほうはきっと満足しているんだろうな、という結論に達した。久々に見たライブだったが、唄も上達していた。よかった。


そしてキャットストリートにある友達のお店を初めて訪れた帰り道は、竹下通りを通過。

異常な人波。


その中にはクリスチャンはきっといないんだろうな、と思わせる若者たち。

サンタみたいな真っ赤な格好の女の子を見ながらそう感じた。。。


キリスト・アラー・ブラフマなどの神は、宗教名、お祈りの仕方などが違えど同じ神だ、と教わった。


世界3大宗教の、最も新しい宗教イスラム教徒は、口をそろえてそう教えてくれた。

ヒンドゥー教徒もそう教えてくれた。


なのに、政治・経済などの利権は、宗教を用いて戦争・国際摩擦を起こす。


あぁ、、、、


今日、親友の友達が、もう死にたいというメールを送ってきたらしい。


夜、俺はパーティに顔を出し、別の場所に移動して、2つの予定をキャンセルして家に帰りギターでレコーディング。


プロテスタントもカトリックも英国国教会もバチカンもエホバの証人もモルモンも、すべてのクリスチャンに、

メリークリスマス!



見せる と 見られる

天井桟敷の理念はこうだ。


「見せる」ということと「見られる」ということは、これは一枚の銅貨の裏と表のようなものであって、俳優たちがどんなに主体的に生きていこうとしても、この全面を十全にあらわすためには、人生の生輪といったものが必要なように思われる。若くしてナルシズムの旺んな俳優たちは「見せる」ことばかり熱中して、そこに存在していない世界の中に耽溺し、見る側からすれば何一つ「見えていない」といったことになってしまうことさえある。若い俳優の自意識が、ときにまったく上げ底の人間しか演じられないのは「見られる」要素を忘れてしまっているからである。だが、老優の「見せる」ことを忘れた被害者的「見られ方」というのも、観客にすれば不愉快なもので「一体何を見せたいのだ」と声をあげたくなることさえある。「かわいそうなのは、この子でござい」とか「親の因果か子に報い」といった見られる思想を、どこまで見せる思想と統合できるかに、私たちのテーマがかかっている訳である。こうして、天井桟敷は出発した。

「さあさあお立ち会い・天井桟敷紙上公演」(昭和43年1月発行)より勝手に抜粋させていただきました。



寺山修司 戯曲集を貸してくれた友達のお母さんは、ファンではなくて天井桟敷の舞台に上がった人だった。

いわく、寺山さんは新しいものをやろうとした人だったが、意図的に難解なものを作ろうとはしなかった。逆にわかりやすいものを作っていた、そして情熱のある、かっこいい男だった、と。

恐らくアンダーグラウンド(アングラ)、前衛などは時代がつけた肩書きであり、それは”難解”を意味するものではない。

先日見たお芝居は、とてもわかりやすく作られていたが、ラストシーンの必然性が意味不明だった。パンフレット紙上に、芝居はわからなくてもいい、大切なのは”わかる”ことではなく、説明できるなら芝居をやる必要はない、と書かれていた。

書いた本人は、開き直ってます、と書いていたが、ホントに開き直りだなぁ、と思った。

きっと話せば誤解はなくなるとも思うが、文字から読み取れる、わからなくていいもの=芝居、であれば上演する必要の有無を問いたい。

それだと、お金を払った客、時間を使った役者たちを哀れに思えてしまう。

最初から”わからない”ようなものを作っている OM-2(黄色舞伎団2)は必然性もストーリーも全く意味不明だったりする。ただし、見終わって、または上演中に心が感じるものは、多い。人はあれを前衛とも呼ぶが、どちらかというとアトラクションに近い。

怖かった

なんだか凄かった

のようなことを心が感じる。

寺山芝居の端的なフォロワーだったのかもしれないが、すでに新しい道を切り開いている劇団だと思う。


つまり、哲学のあるものは、きちっとその理念を見せ付けることが出来て、それが無いもの、またはできないものは、ただ単にわからないものを提供してしまう、ということなのかもしれない。


話を戻そう。見せると見られる。
宇宙食堂は配役を見てわかるようにこの辺を凄く理解していると思う。


寺山修司が亡くなってもうすぐ25年。時代は変化している。
だが、芝居・演劇というジャンルはまだ存在している。
アングラと呼ばれていた時代よりもアンダーグラウンドな存在になってきている。
ライブハウスほどではないが、各所に芝居小屋があり、毎晩の延べ動員数は相当なものだと思う。でも客が殆ど友達・知り合い、のような劇団も少なく無い。
小劇場復権に何が必要なのだろうか??

続く。。。。。(?)