ヒロシマの碑について

 

 関さんが「慰霊碑」に関心を寄せたきっかけは、姉 黒川万千代さんが「慰霊碑の写真を一冊にまとめたい」と言ったことでした。
 
黒川さんは「石になってしか体験を訴えられない人がいる」
「原爆の慰霊碑は無念の死を遂げた人が、石になって原爆反対と叫び続けているということではないか、と思うようになった」と言いました。
 
「原爆の碑ー広島のこころー」(1976年8月6日発行)を自費出版されました。
関さんもお姉様と一緒に文を担当されました。
 
 
 

 

あとがきより

 

 碑の撮影をはじめたのは数年前からで、そのときは写真集にするなど大それた考えはもっていなかった。ただ神奈川県被災者で、よる年波で広島へ帰れない人びとに、これが肉親を弔う碑といって見せたいと思っていた。

 私は隠すわけではないが広島で被災した事はあまり語りたくなかった。ふれたくなかった。それは十六才の小娘にとってどれほどいまわしい傷痕であったことだろう。この手で看とり、この手で焼いた。とても耐えられないことを私たちはしなければならなかった。

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 幾年もの間、貝のように口を閉ざしていた私だが、被爆者への無理解、当局の冷淡さは自ら被爆者と名のり出て、神奈川県内に住む広島・長崎の友だちと手をたずさえずにはいられなかった。世論もようやく原爆被爆援護に手をさしのべ、格段の改善を見るようになった。

 

 ところがである。「原爆の一つや二つ落とされたくらいで手を上げる日本ではない」とのなんとも勇ましい参議院の放言があったのは。

 一つや二つでどれだけの人が死んでいったか、殊に幼くして死んだ学生生徒の、バラ色の未来を無残におしつぶしたものは何なのか、理解してもらうために、写しつづけて来たこの写真を役立てよう。妹に相談すると彼女も大いに賛同してくれた。

 

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 雨の中で撮影していた時傘をさしかけてくださった若い警官がいた。恐縮する私に「参って頂きありがたくあります」と敬礼された。人々からうけた「広島の心」の重みをこの感動をどう伝えようか、と整理にかかったとき「被爆者絶滅の方法はないか、被爆者に子を産まさない指導を」と放言した都会議員がでた。こういう無知には、事実が何よりも強く告発するに違いない。

 

 この小冊子が原爆を知らない人びとにもその事実の恐ろしさ、むごたらしさを知らせ、再びあの惨をくりかえさないために役立つことを願いながら。

 

                         被爆三十一周年を前に

                                黒川万千代

 

 

非常に反響が多かったため、後に新日本出版から出版されました。

この本は慰霊碑の本(ガイドブック)の最初のものでした。