「砂時計の恋」,6 | 作者

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自作小説


「ほな、おっちゃん生ビール3つで!あ、あと、唐揚げもお願いします」

吉田先輩は居酒屋の店内に真っ先に入ると席に着く前に注文を終えてしまう。
いつものことだった。

「いらっしゃい!よっちゃん、久しぶりだな!お、おふたりも久しぶりだね!」

おっちゃんは、僕たちが来るといつも嬉しそうな顔をしてくれた。

おっちゃんと呼ばれている店主は、40代とは思えない肌艶をしていて、ヒゲも綺麗に毎日剃られている。この店とこの仕事に誇りを持っているのだろう、おっちゃんの声は、いつも溌剌としていて、態度は誰にでも明るく、地元の人ほぼ全員から愛されているような人だった。

僕と木嶋と吉田先輩の3人は、飲む時は決まって、ここ居酒屋【吉『キチ』】だった。

吉田先輩は1人で仕事終わりに飲みに来ることもあって、いつしかおっちゃんと吉田先輩はプライベートでも飲むほどの仲になっていた。そしておっちゃんは吉田先輩のことを、「よっちゃん」と呼んでいた。

吉は、地域密着型の居酒屋で、地元の人が昔から愛している場所でもあった。
今、おっちゃんと呼ばれている人は2代目の店主らしく、先代である父親は5年前に身体に限界が来たので店を2代目に引き継いだと、吉田先輩から聞かされたことがあった。本当かどうかはわからない。

地元の駅前にはいかにも大学生やサラリーマンが好みそうな安くて広い居酒屋が軒並みあったが、僕達は吉をとても気に入っていたので、駅前で飲むことは1度も無かった。
もちろんこの場所を好んでいるのは、僕達だけではなかった。
曜日に関わらず吉には多くのお客さんがいて、連日賑わっていた。
店の前に置いてある大きな黄色の提灯がトレードマークで、店の入り口の上には、白い横長の看板に、大きな黒い文字で「吉」と書かれていた。

「あいよ、お待たせ!」

おっちゃんは店内が混雑しているにも関わらず、平気な顔をしていて、すぐに生ビールを僕たちのテーブルに運んでくれた。

僕はそんなにお酒を飲む気分では無かったのに、冷えたジョッキに入ったビールと溢れそうな白い泡を見てどこか気持ちが高揚していた。更に、木嶋の「うわ、きたきたこれこれ」といつもの掛け声によって、まるで朝からビールを飲むことを決めていたかのように僕の胃袋と喉はビールを欲し始めていた。

3人でジョッキを持つ。
「乾杯!」とジョッキを勢いよく付け合わせると、3つのジョッキが、ガチン、と心地の良い音を鳴らした。

吉田先輩は真っ先にビールに口を付けると一気に飲み干す。

空になったジョッキをテーブルに置くと同時に、「おっちゃん、生ビールもうひとつちょうだい!」と言うと、ビールの半分残っている僕と木嶋のグラスを見て「今日は飲むぞ。なあ」と宣戦布告した。

木嶋は、「相変わらずペース早いっすね」と言うと、残ったビールを飲み干した。

店内の壁には、どこの誰かもわからないグラビアアイドルのポスターが貼られていて、ビールを持ちながらポスターの中でこちらに微笑みかけてくる。

僕の頭の中で、ポスターのグラビアアイドルと優衣が重なって見える。

僕がポスターを眺めていると、木嶋が来たばかりの唐揚げを箸でつつきながら僕の視線に気がついた。

「なんだよ、あのポスター。あの姉ちゃん、おっぱいすげえな」

僕は、特に意識していなかったが胸元に目をやる。

急に何故か、見てはいけないものを見ているような気がして目を逸らす。

「でも、顔見てみ。ブッサイクや」

吉田先輩が話に乗ってくる。

僕は、話を逸らすために違う話題を切り出すことにした。

「先輩、ところで何で喧嘩したんですか?」

吉田先輩は唐揚げを頬張りながら、「あ?」というような顔をしたが、何のことか思い出したらしく、「せやせや!そのことやねん。聞いてくれや」と鼻息を荒くした。

「いや、俺な、今のところで働き始めてもう4年目になんねん」

吉田先輩は地元のパチンコ屋さんで18歳の頃から正社員で働いていた。

当時のパチンコ屋のオーナーと吉田先輩のお父さんの仲が良くて、そのツテもあって正社員就職出来たんや、と先輩は言っていた。

「もう4年なんすね」

木嶋が2杯目のビールに口をつける。

「いや、ほんでな、前から言うてたマネージャーおったやろ?」

「ウマが合わないって言ってた?」

「そう!ウマが合わへんマネージャー」

吉田先輩は飲みながら時々、愚痴を言うことがあって、決まってそのマネージャーの愚痴だった。

「なんで合わないんすか?」

「いや、なんで合わへんねやろ?」

吉田先輩は真顔で僕に聞き返した。
僕は真剣に考える振りをしたが、到底わかりそうもなかったので、木嶋の顔を見た。

僕のパスに気付いたのか、「みんな各々、性格ってありますからね」と思ってもないような普通のことを木嶋は言うと僕に何故かドヤ顔をしてみせた。

「いや、そらまあな。性格ってあるよ。でもな、そいつはちゃうねん。あきらかシニカルやねん」

「シニカル?」

木嶋は、呪いの言葉でも聞いたかのように吉田先輩な顔をまじまじと見た。

「シニカルって皮肉って意味ですよね」

僕はニュース番組のコメンテーターのように落ち着いた口調で言う。

「せや、皮肉ばっかり言いよんねん!あいつ、バイトの女の子には態度全然ちゃうねん!フェミニストやねん」

「フェミニストですか」

ぼくは言葉の使い方が合っているのかどうか微妙に思えたのでオウム返しで答える。

「へえ」
木嶋はまるで終バスを乗り過ごしたような取り残された表情で僕と吉田先輩の顔を見ている。

「せやねん。だから、俺あまりにも腹立つからマネージャーしばいたってん!もう一方的やったわ。俺ってほら、体格ええやろ?」

たしかに吉田先輩の体格はとても良かった。昔から野球をしていたからなのか、生まれつきなのか、骨太な体格にしっかりと筋肉が付いていて初対面の人には多少の威圧感を与えるほどに思えた。

「なんちゅうか元々職場自体がアンニュイ感じやったからな。もう俺な、ええ加減キレたろうって思ってたとこやってん。怒りのキャパシティに限界来てたしな。いわば俺がマネージャーに殴りかかったのは一種のカタルシスなわけよ」

「いや、もういいっすわ!」

木嶋がおしぼりを握りしめながら吉田先輩に言った。

「へ?」
吉田先輩はアルコールで赤らめた顔を を木嶋に向ける。

「その横文字?カタカナ言葉?外来語?よくわかんないっすよ!てか、先輩あれでしょ?最近、なんか本読みました?」

木嶋は笑みを含みながら早口でまくし立てる。

「ああ。『賢く見える横文字口座』って本を最近立ち読みしたなあ」

吉田先輩は照れながら答える。

「いや、それですよそれ。どんだけ影響されてるんですか!」

木嶋が面白そうに囃し立てると、吉田先輩は木嶋の肩に素早い拳を打ち付けた。

「イタッ!」

「嘘つけ!いま、優しく殴ったやろ」

「いや、自分の筋肉考えてくださいよ!先輩の肩パンめちゃくちゃ痛いですから」

「嘘つけ。ほな、もっかい優しく殴ろか?」

「いや、もういいっすよ!」

その光景を見ながら僕は笑っていた。
そんな僕を見て、吉田先輩も楽しそうに笑っていた。

3人で飲む時はいつも話題はあっちにこっちに飛んでとりとめがなかった。

それでも僕たちは楽しかった。

吉田先輩は何杯目かのレモンサワーを飲み干すと、急に真剣な顔で僕と木嶋の顔を交互に見た後こんなことを口にした。

「お前らな、将来どないすんねん」

僕と木嶋は、その言葉を反芻するように飲み込んでは噛み砕くを繰り返しているような顔をした。そして黙った。

吉田先輩は、煮物に七味をかけ始めた。
いつしか煮物が見えなくなってしまうくらい七味で一杯になっていく。

吉田先輩がどんな意図で僕達に将来を聞いたのかわからないが僕は僕なりの答えを出した。

「僕は、楽しければそれでいいです。こうやって飲めたらそれでいいです」

木嶋は僕の顔を凝視すると、「それもそうだな」と呟いた。

吉田先輩は相変わらず煮物に七味をかけ続けていて、容器が空になったのか「あれ?出えへんな」と言うと隣のテーブルに手を伸ばして七味を取った。

「結局、俺は大学を辞めちゃいました。でも、木嶋は大学に行ってますよね。吉田先輩は働いてるじゃないですか」

木嶋は、それがどうかした?という顔を僕に向けている。

僕もそれなりにアルコールが回っていた。

「それでもこうやって集まって飲める。それが楽しいです。だから将来もこうしてたいです」

僕なりの本音ではあった。だけど、それが将来どうするかへの答えになっていないことに気がついていた。

僕は続ける。

「つまりは、モラトリアムですよ」

吉田先輩の七味をかけていた手が止まる。吉田先輩と木嶋は顔を見合わせると、僕の顔を見る。

「モラトレアル?」

木嶋が言う。

「モラトリアム。つまり、僕らはいまモラトリアムの時期にいるんですよ。だから」

「だから?」
吉田先輩がグラスを握りしめたまま僕に言う。

「だから。僕は将来のことは今はそんなに本気で考える必要はないんじゃないかなって思うんです」

木嶋は「で、モラトリアムって?」と、意味を教えて欲しそうに僕を見る。

まるで餌を欲しがりながら飼い主から、「待て」を指示されている犬のように見えた。
吉田先輩は、僕の言った意味がわかっているのかわからないのか、「なるほどな」と頷くと、うーんと唸ったまま下を向いてしまった。

僕達のテーブルにだけ変な空気が流れているような気がした。

急に居心地が悪くなる。

「そろそろ行きませんか?」

僕が提案する。

「どこに?」

木嶋が答える。

「どこって。家にだよ」

「アホ!お前まだ早いわ!俺まだアルコール全然回ってへんで」

吉田先輩がグラスのレモンサワーを飲み干す。
よく言うよ。先輩はすっかり顔が真っ赤になっていて目の前にある七味だらけの煮物と同じ顔色になっていた。

「でも、もう3時間経ちますよ」

僕は正直眠たかった。
疲労とアルコールのせいで、帰って布団の中に今すぐ飛び込みたい気分だった。

「3時間経ちますよって、なんや。お前は3時間飲んだら帰らんなあかんのか?なんや、ウルトラマンかお前?」

吉田先輩が僕に言う。

「ウルトラマン?」

「ウルトラマンは3分で帰るやろ!お前、俺にボケの説明させるな。須田真司くんはウルトラマンですか?」

「いえ、違います」

「ほな、まだ飲めるやろ。もうちょい付き合えって」

「吉田先輩、飲み過ぎですって」

僕は本気で心配した。
先輩は、酔っ払うとよく何かしらの事故や事件を起こすタイプの人だった。

過去に自転車に乗っていて交通事故にあったことが3回、車に轢かれたことが2回、絡まれたのか絡んでいったのか喧嘩に巻き込まれたことが数回あった。

この人はお酒を飲むとトラブルメーカーになる。だから僕と木嶋の間で、一緒に飲むときは過度に飲ませないようにしようと話し合ったこともあった。

僕は木嶋の方を見る。

「まあ、今日くらいは、いいじゃねえか」

木嶋が笑う。おかしい。この3人の中で、木嶋はお酒が1番弱く、長く飲むことを嫌がる方だった。その木嶋が僕に満面の笑み
を向けてきた。違和感を感じた。

仕方なく、もう一杯ハイボールをおっちゃんに頼んだ時だった。

テーブルの上に置いてあった僕の携帯電話が鳴り響いた。

液晶が光る。電話だった。液晶に【水沢優衣】の名前が浮かび上がる。

僕の胸が高鳴る。

「え!」
木嶋が液晶を覗き込んだあとに、僕の顔を見て驚嘆している。

「ちょっと電話してきます」

僕は吉田先輩に告げると、店の外に出るために入り口に向かう。

「え、なんで?いつ?なんでなんで?」

木嶋の声が店内に響く。
酔っているのか。いや、いつものことか。声が大きい。

「うるせえよ」

僕は木嶋に舌を出す。
そして、店の外に出た。