「イスラエルは中東なのにISに比較して話題にならないわけ」……その二(山本紀久雄氏) | 清話会

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街角ウオッチング187号
「イスラエルは中東なのにISに比較して話題にならないわけ」……その二

山本紀久雄氏(経営コンサルタント、経営ゼミナール代表)


※「街角ウォッチング」過去の記事はこちら

■ユダヤ人の特徴

既によく知られるように、ヨーロッパでキリスト教徒中心から、ユダヤ人が迫害されてきた歴史がある。
どうして迫害されるのか、その背景には複雑で奥深いものがあるという。それを『ユダヤ人に学ぶ危機管理』(佐藤龍己著)を参照し紹介する。

①ユダヤ教の戒律はキリスト教徒にとって気味悪い……食物規制コーシェル(豚、ラクダ、ウサギ、駝鳥、うろこのない魚は×。乳製品と肉類は一緒に食べない)
②安息日(シャバット)を設け労働を休む……金曜日の夕方からはじまり、土曜日の日没で終わる。安息日に火を使ったり、木を切ったり、金銭使用は禁じられている。
神が天地を創造して7日目に当たる土曜日に働くことは、神の創造した世界に干渉することになるため、労働は禁止されている。この日は、乗り物の運転、電話をかけること、電灯をつけること、一切の社会活動が止まる。
例えば、家のブレーカーが落ちて電気が使えなくなった場合、近所の外国人のところに行き「ちょっと」という。それは家に来てブレーカーのスイッチを入れてくれ、という意味。しかし、その際「ブレーカーを上げてくれ」とは言えない。それは命令になり、労働に相当するから。

今回、エルサレムのホテルに金曜日宿泊した。部屋は11階。バックを部屋に運ぼうとエレベーターの前に立つと、二台のうち一台は運転中止。
夕食に3階のレストランに行こうと、エレベーターを待つが全然来ない。この日は近所のユダヤ人が低層階に宿泊。レストランは満員。観光客は上層階の部屋から歩いて3階まで行くことになる。

③ユダヤ人がキリストを殺したからといわれている。
④ユダヤ人は金融業が残された生業で、恨みを買うことが多いといわれている。

⑤ユダヤ人に経済、文化、ひいては国家が乗っ取られるという恐怖感があるといわれている。
⑥ユダヤ人が共産主義をつくった。マルクス、レーニン、トロツキーはユダヤ人と言われている。
⑦ユダヤ人の選民意識……神から特別に選ばれた……横柄、俺がという意識が強い等といわれている。

■ユダヤ人国家を造ろう
 
ユダヤ人への迫害に対抗して、自分たちも国家を持つべきだとナショナリズムが生まれ、19世紀末、ヨーロッパではパレスチナ帰還運動(シオニズム)が起き、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国で離散生活をしていたユダヤ人によるパレスチナ入植がはじまった。

ユダヤ人は「旧約聖書で神様に約束された土地」に国をつくるのが一番だと考えパレスチナに入っていった。
当時のパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であったが、入植を規制することはなく、パレスチナに入植するユダヤ人の数は徐々に増え始めた。

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国とイギリスが対立し、イギリスは諸民族の混在する中東地域に目を付け、各勢力を味方に引き入れるため様々な協定を結んだ。

①1915年10月にはメッカ太守であるアラブ人のフサイン・イブン・アリーとイギリスの駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの間でフサイン=マクマホン協定が結ばれ、中東地域のアラブ人の独立支持を約束した。
②1917年11月にイギリスの外務大臣アーサー・バルフォアがバルフォア宣言を発し、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を表明した。
③1916年5月に秘密協定としてイギリス、フランス、ロシアの間でサイクス・ピコ協定が結ばれ、この3国によるオスマン領中東地域の分割が決定された。

この3つの協定は結果的に戦後の両勢力の不満を増大させ、中東戦争の大きな原因のひとつとなった。

オスマン帝国が第一次世界大戦に敗れると、帝国が支配していたパレスチナは結局イギリスの委任統治領として植民地化された。

イギリスの委任統治領となった後も、ユダヤ人の移民は増加し続けた。
しかし、入植ユダヤ人が増加するに従い、アラブ人との摩擦が強まっていった。アラブ人はイギリスに対して入植の制限を求めたため、イギリスはアラブとユダヤの板挟みに合うこととなり、パレスチナではユダヤ人・アラブ人・英軍がたびたび衝突する事態となっていた。

こうした中、1937年にはイギリス王立調査団がパレスチナをアラブとユダヤに分割して独立させるパレスチナ分割案を提案した。
この案ではユダヤ国家が北部のハイファやテルアビブを中心としたパレスチナの約20%の土地を与えられ、中部・南部を中心とした残りの80%はアラブ側に与えられることとなっていた。

また、エルサレムとベツレヘムを中心とし海岸部までの細い回廊を含めたパレスチナ中部の小さな地域は委任統治領となっていた。

この案をユダヤ側は受け入れたがアラブ側は拒否し、パレスチナの独立は第二次世界大戦後まで持ち越しとなった。
第二次世界大戦期にはナチス・ドイツの反ユダヤ政策により、シオニズム運動はより盛んになった。

戦中・戦後に発生したユダヤ人難民のうち相当数が「約束の地」パレスチナを目指したため、ユダヤ人の入植は急増しアラブ人との摩擦はますます強くなった。

1947年2月7日、事態収拾を困難と見たイギリスはパレスチナの委任統治を終了させる意向を表明した。
イギリスは1947年4月2日、国際連合にパレスチナ問題を提訴した。国連は1947年11月に、パレスチナを分割しアラブとユダヤの二国家を建設する決議(パレスチナ分割決議)を採択し、イギリスによる委任統治が終了した。

 この分割案はユダヤ人に有利になっており、ユダヤ人国家はパレスチナの56%、アラブ人国家はパレスチナの43%を占めることとなっていた。

ユダヤ人国家はハイファやテルアビブなどの大都市およびその間の肥沃な平野を手に入れたが、それ以外の土地の大部分はネゲヴの砂漠であった。ユダヤ人側の領土の方が大きいのは、第二次世界大戦後も続々と流入の続くユダヤ人難民を収容する意図も込められていた。

また、ユダヤ国家とされた地域においてはユダヤ人が55%、アラブ人が45%とユダヤ人がやや優位な状態となっていたが、アラブ国家とされた地域にはユダヤ人はほとんど存在せず、ユダヤ人1%に対しアラブ人人口は99%を占めていた。

ユダヤ人側の大部分はこの決議を歓迎し受け入れを表明したものの、アラブ人側はこの国連決議を不合理なものとして反発し、ほとんどの組織が受け入れ反対を表明した。

この決議案はそれまでもくすぶり続けていた両民族の対立をさらに決定的なものとし、これ以降ユダヤ人とアラブ人双方の間で、武力衝突(暴動・テロ・民兵同士の戦闘)が頻発することとなり、事実上の内戦状態となっていった。

1948年5月14日、イギリスによるパレスチナ統治終了の日に、ユダヤ人はイスラエル建国を宣言した(イスラエル独立宣言)。しかし翌日には、分割に反対する周辺アラブ諸国がパレスチナへ侵攻し、第一次中東戦争(1948年)、続いて第二次(1956年)、第三次(1967年)、第四次中東戦争(1973年)と戦った。

この戦争を語りだすと膨大なページを要するので省略するが、その後の問題の様々な処理過程を経て、現在の情勢下「イスラエルは中東なのにISに比較して話題にならない」状態になっているのである。次号で結論を述べる。

(続く)


山本紀久雄--------------------------------------------------
1940年生まれ。中央大学卒。日仏合弁企業社長、資生堂事業部長を歴任。現在、㈲山本代表取締役として経営コンサルタント活動のほか、山岡鉄舟研究家として山岡鉄舟研究会を主宰。著書に『フランスを救った日本の牡蠣 』『笑う温泉、泣く温泉 』等がある。

(山岡鉄舟研究会)    http://www.tessyuu.jp/
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