小沢氏は政界から消えるのか(花岡信昭) | 清話会

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小沢氏は政界から消えるのか
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花岡信昭氏(拓殖大学大学院教授、産経新聞客員編集委員)

小沢一郎氏の強制起訴は以前から予想されていたのだが、その事態が現実のものとなると、格別に重い意味合いを突き付けるものだ。

大方のメディアは小沢氏に対し、政治の表舞台からの退出を求めている。だが、この20年ほどの日本政治を切り盛りしてきた小沢氏の存在感、政治的パワーを考えると、そうなるのかどうか、にわかには判断しがたい。

小沢氏は「なんらやましいところはない」として、離党も議員辞職もする考えはないとしている。菅首相は「不条理の政治をただす」と威勢がよかったのだが、実際に強制起訴が決まると、「出処進退は自身で判断を」とトーンダウンした。

民主党の倫理規約によれば、倫理規範に反する行為を取った場合の処分として、「党員資格の停止」「離党勧告」「除籍」という3段階の対応ができる。党の対応が注目されるが、最も軽い「党員資格の停止」ということになりそうだ。

離党を勧告して、本人が応じなかった場合は党執行部の権威を損ねかねない。除籍という重い処分をくだせば、小沢氏が「新党」を立ち上げる恐れに直面する。

たとえ20人でも30人でも離脱者が出れば、衆院で与党勢力が再議決可能な3分の2にわずか及ばず、参院では過半数に達していない状況からすると、この段階での党分裂は避けたいというのが菅首相の本音だろう。

政治を見る目としては、そうした「小沢新党」ができて政界再編の引き金となり、これが大連立・中連立に発展していけば、ワクワクするような政治状況となるのだが、見守る以外にない。

現実的な判断としては、小沢氏の「単独離党」が落としどころのように思えるが、菅首相らには、そういう環境をつくれるかどうかが試されることになる。

政治の世界の攻防戦としては、小沢氏を追い詰めるだけでは決着がつかない。つまりは、党の窮地を救うための離党という名分を小沢氏側が持てるかどうかという状況を生み出さないといけない。

そういう構図になれば、小沢氏が党外から小沢系グループを差配することになるのだろうが、菅首相としてはそれも甘受せねばなるまい。党分裂よりもまだ救われるからだ。

刑事被告人の立場になる小沢氏だが、これによって政界の表舞台から本当に「消える」ことになるのかどうか。

新聞各紙の社説はそろって、小沢氏や民主党に「けじめ」を求めた。2月1日付の各紙社説の見出しを並べてみると、それぞれ微妙な差異があって興味深い。

朝日 「市民の判断に意義がある」
毎日 「まず離党してけじめを」
読売 「政治的なけじめをつける時だ」
産経 「やはり議員辞職しかない 国民代表の結論無視するな」
日経 「民主党は小沢元代表の起訴でけじめを」

 日ごろは対立する主張を掲げることも多い朝日と産経が、検察審査会について「市民の判断に意義」「国民代表の結論」と高く評価していることも、おもしろいといっては何だが、「小沢排除」の認識では共通しているのだなと改めて感じさせる。

 一般の国民からくじ引きで選ばれる検察審査会による強制起訴のシステムは、2009年5月にスタートした。裁判員制度の導入と同時期だ。

 検察当局の判断に対し、検察審査会が起訴すべきだという議決を2回行うと、弁護士を検事役とする公判に持ち込まれる。重い判断が求められるから、11人のうち8人以上の賛成が必要だ。いうまでもなく、政治家で強制起訴されたのは小沢氏が初めてである。

 裁判員制度と同様、司法の場に「市民の視点」を持ち込むべきだという観点から導入された。これまで、検察にしろ裁判にしろ、プロだけで行われていた領域に「市民的感覚」を反映させようというわけだ。いわゆる「市民参加」の司法版である。

 その意図はわからないでもないが、ひとつ間違うと「大衆迎合」(ポピュリズム)の舞台になりかねない。市民的判断を旗印にして、魔女狩りに近い状況が生まれ、その喧騒のなかで国民にはカタルシス、満足感のようなものが与えられる。

裁判員制度と同様に、検察審査会の強制起訴制度にも、そうした危うさが潜んでいることを改めて認識すべきではないかとも思う。

小沢氏が問われているのは、資金管理団体「陸山会」の土地購入にからみ、小沢氏からの提供資金の借用に関して、政治資金収支報告書に正確に記載しなかったという政治資金規正法違反罪である。

清話会 元秘書3人がすでに逮捕、起訴されており、検察当局は小沢氏の関与については嫌疑不十分として不起訴とした。元秘書らとの「共犯」関係を立証できなかったのである。

これを検察審査会は小沢氏が知らなかったというのはおかしいとして、公開の裁判の場で判断するよう起訴を求めたわけだ。

この土地購入をめぐっては、ゼネコンからの「ヤミ献金」や旧新生党の資金をめぐる不明朗な処理なども指摘されたが、強制起訴されたのはそうしたこととは別の次元だ。あくまでも政治資金収支報告書の記載がおかしいのではないかという疑惑である。

したがって、この裁判で小沢氏は無罪になるのではないかとする見方が、法律の専門家の間では一般的なようだ。東京地検があれだけ長期にわたって捜査を展開しても詰め切れなかったのである。

公判は指定弁護士が検事役となり、法律のプロの裁判官が裁く。指定弁護士は「有罪を確信するから強制起訴するのではなく、起訴議決が行われたので、これが職務と考えて起訴した」としている。

そのあたりをシビアーに見ていく必要がある。国民レベルでは「政治とカネ」の問題に決着をつけよという過大な期待が出ているかに見えるが、今回の強制起訴がそれに応えるものとなるかどうか分からないのだ。

メディアの扱いや世論の沸騰が時間の経過とともに落ち着いていけば、小沢氏側に有利な状況がうまれてくるかもしれない。政治の世界の転換は早いのであって、公判開始と見られている今秋の時点で、どういう雰囲気になっているかは微妙だ。

それにしても、小沢氏ほど毀誉褒貶の激しい政治家はいないといっていい。筆者は55年体制下の自民党全盛期から55年体制崩壊に至る過程を政治記者として見てきた。

新聞社の政治部長を務めたのが細川政権から村山政権までだ。小沢氏が自民党を飛び出し8党派連立の細川政権をつくった最盛期も、新進党崩壊などの失意のときも、それこそ天国から地獄までをフォローしてきた。

そうした立場からいえば、小沢氏の政治的パワーの「すごさ」は、ほかの政治家にはまず見られないレベルのものと感じてきた。

側近政治家や担当記者が次々と離れていく事情も目の当たりにしてきたが、小沢氏は何につけ説明不足である。ひとつの政治的ステージが終わると、その後始末をあれこれ果たす前に、すぐさま次の段階に飛んでしまう。

これによって、側近とされてきた人たちは「何の説明もない」「急に冷たくされた」などと去っていくことになる。

小沢氏にしてみれば、「いま、自分がオレ(小沢氏)にとって必要な存在であるのかどうかぐらいは自分で判断しろ。その判断がつかないようでは政治の世界にいる資格がない」といった感覚なのではないかと感じてきた。

筆者が政治取材の現場にいたころ、自民党は田中、福田、大平、中曽根、三木の5大派閥が仕切っていた。政治取材の基本は派閥取材であり、政治記者たちはそれぞれの担当派閥の領袖や幹部のフトコロに入り込むべく努力した。

政治家の側も、記者たちをいかに周辺に集められるかで実力度がはかられるという時代だった。

小沢氏の場合は、若くして田中派の継承者の地位を確立したが、そうした旧来型の派閥幹部とはやや違っていたように思える。周囲に政治記者が常に集まるような、べたべたした人間関係を嫌うのだ。そのドライな感性のようなものを見据えないと、小沢氏を理解するのは難しくなる。

政治家の強制起訴というのは、日本政治が初めて体験する光景である。小沢氏がいうように「通常の起訴とは違う」のかどうか。今後の政治展開を洞察する上で、ここは腰を落として、じっくりと見ていく必要があるようにも思える。

【日経BPネット連載・時評コラム拙稿「我々の国家はどこに向かっているのか」2月3日更新】再掲


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