昨日は相手に対する想像力の欠如こそがいじめの原因であって、悪意や善意は関係がないこと、そして何故かいじめは悪意によって起きるというコンセンサスからいじめというものの議論自体がおかしくなっているとこまで書いたと思います。

想像力の欠如、というものは、つまり「相手が喜んでいるのか嫌なのか」の判断を「その相手の態度、表情、言動」よりも「自分、自分たちの感情や雰囲気」を優先的な判断基準にしている、という事です。

例えばこんな感じでしょうか

A「ようB!ボカッ!」
B「痛い!やめて!」
A「またまたーそんなこと言ってまんざらでもないんでしょ?ボカッ!」
B「やめて!みんな助けて!」
皆「ちょー面白い!もっとやれよA!」
A「ほらほら、みんなもこう言ってることだしさーwボカッ」

こういうのを客観的に見たときに、おそらくAをはじめとした皆はBに対する悪意があると思っており、そして、自分たちも同じことをしているけれどべつに自分たちは皆がBに持っているような悪意はないのだから自分たちはいじめていない、という風に読むかもしれません。

大事なのは、この世界は悪意があろうとなかろうと起きることです。どちらかというとAとBのやりとりを見て喜んでいる皆、皆が喜んでくれるから余計にやりたくなるA、明確な悪意を感じ取れないから強く出られないBという悲劇的な構図が正体(というより悪意は関係ないということが言いたい)。

クラスだけではなくて、やにある犯罪についても、悪意を持ってやるものとそうでないもの(カッとなった、教育のつもりだった、むしろこれこそが正義だ)というものもあります。

ですが学校という世界はどこまでも性善説に基づいているため、悪意のないいじめ、というものを受け入れたくありません。先生もいじめの訴えに対して「まぁまぁ、みんなお前のことが好きなんだろ、考えすぎるなよ」という対応をすることがあります。

そんなわけで、いじめに対して真正面から公正な視点で立ち向かわなければ永遠にいじめと認識されないいじめがはびこり続けることでしょう。